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#39 電話の向こう側

終業時間が過ぎてすぐに私が取った電話は、中山さんの奥さんからだった。

戸惑いが伝わってくる少しの沈黙のあとで、耳に飛び込んできた奥さんの声はわずかに震えていた。小さな声で「中山の妻でございます」と言った彼女の不安げな声色が私の心臓を瞬時に掴んで、私から言葉を奪った。

週末に私は、大好きな中山さんと初めての夜を過ごした。ずっと欲しかった中山さんのすべてを束の間でも感じることができた夜。深まった愛を大切に抱きしめながらも日曜の夜には私たちは別々の家に帰った。中山さんが私だけのものにはならない寂しさには蓋をした。分かっていたことだし、初めから覚悟していたことだ。だって中山さんはあのとき、妻がいても「それでもいいの?」って聞いたんだ。私はそれでも中山さんの胸に飛び込んだんだから。

その翌日の月曜日に、中山さんは奥さんが入院したという理由で会社を欠勤した。その奥さんからの電話を私が今、受けている。奥さんが会社に電話をしてくることは私が知る限りでは初めてのことだ。

受話器を握る私の手が、次第に冷たくなっていく。

何か言わなくちゃ。奥さんがなぜ会社に電話をしてきたのかの理由は分からないし、私が動揺する様子を見せれば奥さんが不信感を感じるだろう。初めて聞く中山さんの奥さんの声に心を乱されている場合ではない。

「・・・な・・・中山さんの奥さまでいらっしゃいますか」

たぶん私もとても小さな声で言葉を始めたように思う。ほんのわずかな時間で口の中が乾いたのか、かすれるような声が出てしまった。

「はい・・・」

彼女の声はまた止まった。普通の社員なら、中山さんの単なる同僚なら、電話をしてきた奥さんに何と言葉をかけるだろうか。怪しまれないやりとりを頭の中で慌てて組み立てる。

こちらからまず名乗らなければということが心に浮かんだけれど、自分の名前を奥さんに口にすることがとても怖い。でもいきなり用件を聞くのは不躾な気がして、中山さんの職場の後輩として挨拶をしなくちゃいけない。こんな状況が起こることを想定していなかった自分が情けない。名乗ることでどんな反応が返ってくるのかと思うと怖くてたまらない。混乱しながらも意を決して私は自分の名前を告げた。

「・・・いつもお世話になっております。結城と申します」

強く目をつむりたい衝動に駆られながらも、ここは職場で、周りの人に変に思われるわけにもいかない。必死で気持ちを落ちつける。私は罵倒される言葉が続く可能性に身構えたが、彼女はためらいがちにこう答えた。

「こちらこそお世話になります。あの・・・出張の件なんですが、えっと、週末の出張先の・・・」

奥さんはそこで言葉を止めて、こちらからの返答を待っている。奥さんは中山さんが週末に本当に出張に行ったかどうかを確認するために電話をしてきたのかもしれない。

「・・・岐阜の・・・出張の件でしょうか」

私は「岐阜」という言葉を彼女に渡した。その瞬間に奥さんの気持ちがゆるむ気配を感じたけど、またすぐに空気が強張った。

「あ、そうです・・・岐阜です。その岐阜での宿泊先に少し、確認したいことがありまして・・・」

私はどう答えていいのか混乱した。奥さんは中山さんが週末に本当に出張に行ったのか、さらにはどこに泊まったのかを確認するために電話をしてきたんだ。でも中山さんは白木課長には仕事は土曜日中に終わって東京に戻ったと報告しているはずだ。ホテルの名前は私だけが知っている。でもまさかそれを私が言えるはずがない。

私は必死でどう答えるかを考えた。「中山さんは岐阜には仕事で宿泊した」と奥さんには伝える必要がある。日帰り扱いだったと分かってしまったら、どうなってしまうのか分からない。私の名前を聞いて奥さんの様子は変わらなかったから、私のことを何か感づいているわけじゃないと思う。それなら私が今できることは・・・。

「・・・利用した施設をお調べして、お電話を折り返してもよろしいでしょうか」

誰かに聞かれてしまう可能性を考えると、このまま会話を続けないほうがいい。ひとまず電話を切ってタイミングを見計らってかけ直したい。

私は背中から一筋の汗が流れ落ちるのを感じた。そしてその瞬間、電話の向こう側にあの人の声が聞こえた。

「利香子、何してるの?」

私の愛する中山さんの声が聞こえて、私の胸を突き刺した。

奥さんは口ごもるような小さな声で「いえ、あの、またこちらで調べますので・・・すみません」と言って、電話はすぐに切られた。

私は受話器を握ったまま、じっと気持ちを押さえ込む。すごく動揺していて、とてもとても悲しい。

どうしてそこに中山さんがいるの? そうだよね、奥さんのそばにいて当然だよ。分かってるけど、でも私は今日1日ずっと不安だった。それなのに中山さんが奥さんとこじれないように必死にフォローするのも私って、つらすぎるよ。中山さんのいつも通りの落ち着いた声は奥さんに向けられている。私は今日、とってもがんばったんだよ。ミスをしないようにもがんばったし、感情に飲み込まれないようにもがんばった。

がんばった私を抱きしめてよ。

どうして連絡くれないの?

もう、涙がこぼれそう。


2099文字

#短編小説 #超短編小説 #中山さん #涙 #電話 #声

中山さんはシリーズ化しています。マガジンに整理しているのでよかったら読んでみてください。同じトップ画像で投稿されています。

続きはこちらです。

第1作目からずっと2話、3話へと続くようなリンクを貼りました。それぞれ超短編としても楽しんでいただける気もしますが、よかったら「中山さん」と「さやか」の恋を追ってみてください。

「それでもいいの?」って中山さんが言ったのは第3話『それでもいいから』の中です。

『中山さん』シリーズ以外にもいろいろ書いています。よかったら覗いてみてください。



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