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VINTAGE【稼がなけりゃ……夢もみれん】⑭

大学3年になり、文系のボクらは就職を強く意識しなければならない季節になってきた。インターンシップ・SPI・見学会・説明会・そして公務員試験講座……。

春休みの間に各々が散らばっていった、まるで割れたガラスの破片みたいに。大学3年の四月は今までとは違い、どこか夢から覚めた絶望と対峙している表情の学生がいる。そう、猶予期間が終わりかけていることに気づいてしまった奴らだ。

自分はといえば……まだ燻ぶっていた?いや現実から目を背けていた……。

カランカラン……

店の中は季節の装いなどお構いなしで浮足立った街中を冷淡な表情で見ていた。

もちろん自分の悩まし気な足取りも見ていたことだろう。店内に入ると歯科医の女史と見慣れぬ男性がテーブルに座っている。

「○○君、こんにちは。こっちは旦那です」

夢から引き戻されるように、はっとした顔をして急いで言葉を返した。

「あっ、こんにちは。どうも初めまして。○○です」

急いで自己紹介を終えると、いつものようにコーヒーを楽しんだ。

「○○君はもう3年?地元に帰るの?」

女史さんがそうボクに問うた。

「いや……その……まだ…決めてはいないんです」

「そうかぁ……何か興味のある分野はないの?」

「……今、ちょうど社会学が面白くなってきたところで……就職のことはまだ考えてはいません」

「……そう。」

すこし気まずい空気が漂い、僕らはまたコーヒーをおかずにBGMのJAZZ旋律の波に乗っかった。


ぼんやりと時が過ぎていく。そう、末で夢の中みたいに時間がゆっくり流れて、コーヒーの香ばしい香りとともにしばしの間、僕の意識は店の中を揺蕩う。

「情けない話ですが、勉強の面白さを今頃分かってしまったんです。就職で悩んでいる人も周りにはいますが、今は自分の学部に対峙していたいというか、今自分がいる場所をもう少し掘り下げて研究してみたいんです」

カウンターから振り返り、先ほどの話を再開した。自分でもうまくは言えないが、今の立場を一人でも多く知ってほしかった。

「でも、稼がんといかんやん」

女史の旦那さんがふと話に入ってきた。それも決して敵愾心や嫌悪感からではなく、とても柔和な表情でボクに語り掛けた。そう、淡々としかも優しい声色で。

「やりたいことやるにも金が要るやん。どっかで働かんと、食っていけんやん」

決して責めているわけではないが、文面にすると少しきつくなる。しかし彼の優しい声が文字の角を丸くしていた。

「そうなんですけど、今知っておくべきことはまだたくさんあると思うんです」

「でも、働かんといけんやん。やりたいことも金がかかんねんで」

「……はい。わかります」

「やりたいことをやるってことは綺麗ごとじゃない。犠牲にしないとだめなものもあるやん」

「はい……」

これだけ聞かされると、彼の言葉に理はある。自分は何も言い返せない。その場を何とかやり過ごすと、2杯目のコーヒーを飲み切ると、大学生活という夢がもうすぐ覚めるのを確かに予感していた。少し寂しい気持ちになったが、先ほどの旦那さんが言ったセリフは真実なんだと思った。このVINTAGEのひと時も一瞬の夢のようなもの。そして大学生活も夢のようなもの。この生活を続けるには生活の基盤を作らないとダメなのだろう。それは当たり前のことではあるが、身をもって真正面から教えられたのは初めてのことであった。そう、そんな当たり前のことを僕たち大学生は本当に分かっていたのだろうか。社会に出る覚悟は綺麗事ではない。自分の好きなことを続けるために稼ぐことは決して下卑たることじゃないんだ。そう、それを優しく教えてくれた男性はその旦那さんだった。関西弁が言葉の角を丸くして、自分の心に真実をそっと置いて行ってくれた彼にほんの少し父親のぬくもりを感じた大学三年の春だった。

VINTAGEから出た自分を春風の突風が吹きつけた。少し寂しく、凍えるような冷たさの中、ほんの少し大人の厳しさを知った一日だった。


福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》