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満たされない快感もある。

モヤモヤが晴れたので、ここに記しておこう。
欲求が満たされる時、それは快感だ。
感覚で捉えられるもの、内から湧き出る興奮や感動。

絶頂期を迎えた後は下降線となるが、快感マウンテンの高低差があるほど、その破壊力は大きい。
しゃがみ込んで大きくジャンプするように、ときにはあえて我慢をして絶頂期に備えることもある。

お風呂に入る前にあえて体を冷やすように

おやつを我慢して、晩御飯を迎えるように

そこで考える。快感スパイスとしての我慢は我慢でしかないのか。
我慢は苦行であって不快なのか。

人によっては我慢ができない。あえて我慢する必要はない。我慢できるなんてストイックだ。とか言う。

最近、あるVoicyパーソナリティの方が「我慢ではなく、欠如している快感」と捉えて話されていて、晴わたる気持ちになった。

欠如は快感の種類と言える。
そう、欠如とは快感なのだ。

ただし、後に満たされることが分かっている前提の話と言った方が伝わりやすい。
食欲なんかは分かりやすいと思う。
この飽食の時代、食べようと思えばすぐ手に届くところで、それなりのクウォリティの食べ物は手に入る。
食べようと思えば食べられるところをあえて我慢して、次の食事まで空腹を貫く。
食欲を抱えて、予測可能な(手に入る)未来を待つ間も、快感とまではいかないが、楽しみを抱えて生きている幸せが存在する。

大きな目標を達成するまでには、小さな目標を作って少しずつ成功体験を積む。 
習慣化するまでに、いくつか報酬を設定してステップアップしていく。
これらは欠落した快感を抱えて生きていることになるのではないか。

この副産物としては、もれなく「誘惑に負けることなく律することだできた自分」が手に入る。
副作用としては、我慢の大爆発や我慢のコントロールを失うこと。

それでも、欠如している(どこか満たされない)ことが充実した生活につながったり、達成感の増大につながっている。

この記事を書きながら「何を食べようかな〜」と空腹と少し先の楽しみを抱えたまま、間食のベーグルを食べるのは我慢しようと決意した私です。

今日もいい1日です。

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