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第五十一話 若さの境界線

もくじ

「思ってもみなかったよ、自分が年取るなんてさ」

 久寿彦がぽつりと、独り言のように言った。

「そりゃあ、いつかは誰だって――」
「知ってるよ、そんなこと」

 答えかけた真一の声は、ぴしゃりと遮られた。

「じゃあ、お前は本当に想像できてたか。自分が年取るってこと」

 隣を見たら、思いのほか真剣なまなざしが真一を見据えていた。

 お前は想像できていたか――。

 いつ? 子供時代? 十代の頃? 久寿彦たちと一緒にいた頃? 具体的な時期はわからなくても、とにかく今より若い頃だろう。

 人は誰でも年を取る。小さな子供でも知っている。
 けれども、久寿彦の言う 「年を取る」 とは、そういうことではないだろう。

 今の自分たちが直面している状況を、もっと若い頃に想像できていたか――そういうことだ。

 気づくと、真一は久寿彦から目を逸らしていた。
 隣で小さくため息が聞こえる。

「だろ? そういうもんなんだよ。俺だって思ってたよ、自分は年取らないって。周りの奴らは老け込んでも、俺だけは大丈夫だって。なぜだか知らないけど、そういう自信というか、確信めいたものがあった」

 今思えば滑稽な話なんだけどさ、と自嘲する。それから、赤い鉄缶の上で煙草をすり潰して、たくさん空いた円い穴の一つに吸い殻を放り込んだ。

 久寿彦と知り合ったばかりの頃、久寿彦の部屋に遊びに行って、バンド時代の曲を聴かせてもらったことがある。カセットラックに、たまたま雑な文字で 「太陰流珠」 と書かれたテープが並んでいるのを見つけたのだ。バンドの解散は喧嘩別れだったというから、こんな頼み事をするのはどうかなとも思ったが、久寿彦は嫌な顔をせず、ステレオのカセットデッキにテープをセットしてくれた。

 三曲目か四曲目だったと思う。キャッチーな曲だったから覚えている。歌詞の中に、「永遠の十八歳でいられる」 というフレーズがあった。

 詞を書いたのは久寿彦だ。バンド時代、久寿彦はすべての曲の作詞を担当していた。

 聴いたそのときは内心、うーん、と唸ってしまった。率直に言って、安直すぎると思ったのだ。一昔前のアイドルグループなら許されても、今の時代にこれはどうなの、と。これなら、ほかのメンバーに詞を書かせたほうがよかったんじゃないか――久寿彦とはまだ付き合いが浅かったし、曲がりなりにも上司だったから、口には出さなかったが。

 けれども、今あらためて頭の中で曲を再生してみると、歌詞はあのときと違う響きを放っている。
 久寿彦は、たぶん本気で信じていたのだろう。
 一見陳腐なフレーズでも、当時の久寿彦にとってはリアルなものだったのだ。
 いつか久寿彦は、自分が真実だと思ったこと以外は歌詞にしない、と言っていた。
 その言葉に嘘がなければ、当時の自分が感じていたことを、ありのままに歌詞にしたのだろう。
 若さの感覚は決して失われない――
 真一だって、どこかで信じていた。
 時が経っても自分の心は変わらない、と。

 二人とも口をつぐむと、池の水音があたりを満たした。ヤマバトの声はいつの間にか止んでいた。
 滝の音にも似たその音に、真一はサイダーをすすりながら耳を澄ませる。

 「HORAI」 に込められた二つの意味――「変わるもの」 と 「変わらないもの」 は、ここにもある。

 遠い昔から脈々と続いてきた音。
 どれほどの人々が泉に親しんできただろう。
 数え切れないほど多くの人々が泉で喉を潤し、水と戯れ、暮らしに水を役立ててきた。
 長い時の流れの中で、人々の身なりも習慣も話す言葉も移り変わっていった。村の風景も少しずつ様変わりして、かつて丘陵や野っ原だった所には、今では近代的な住宅や建物が立ち並ぶ。
 人の世の中は絶えず変わっていく。
 だが、清冽な水のありようは変わらない。
 千年経った今も、原初の透明さを保ったままだ。
 由緒にある少女が、生涯に渡って若々しさを保ったように。
 永遠の純粋性――枯れることも、衰えることも、濁ってしまうこともない。

「やっぱりあるのかな」

 だが、真一の頭をよぎったのは、「変わるもの」。

「何が?」

「若さの境界線だよ」

 久寿彦はふうっと息をついて、何を今さら、という顔をした。

「……こんな話をしていること自体が証拠だろ」

 サイダーをひとすすりした真一は、蚊取り線香の缶から立ち昇る煙を見つめる。

「ただ、境界線は自分より前にあるときには見えなくて、踏み越えて初めて気づく」
「ああ、それは確かに」

 境界線が自分より前方――つまり、未来のほうにあるときには見えない。たとえ、目と鼻の先に迫っていても。それは踏み越えて初めて――つまり、過去になって初めて気づく。

「だから、若い奴らにこの話をしても、理解できないだろうな」

 説明されれば、おそらく頭では理解できるだろう。だが、心からの理解には至らない。実際に自分が境界線を踏み越えてみないことには。

 例えるなら、それは三途の川のようなものだ。三途の川は、生きている人間には見えない。死んで初めて目撃する。だから、何かの事情でこの世に舞い戻った死者が、いくら言葉を尽くして自分が見てきたものについて語っても、生きている人間は、本質的にその話を理解できないだろう。

 飲み終えたサイダーの缶を、隣のベンチのそばにある金網のくずかごに向かって放り投げた。円い口に吸い込まれた缶は、カコン、と金網に当たって他のゴミの上に落ちた。ナイシュ、と久寿彦が抑揚のない声で言う。

 ヤマバトに代わって、今はキビタキが清らかな歌声を聞かせている。姿が見えていれば、鮮やかな黄色が人目を引く鳥だ。公園を訪れるアマチュア・カメラマンの間でも人気が高い。レストランHORAIで働いていたときも店の庭先にやって来て、テラスで食事をしていたお客さんに、あの鳥は、と名前を尋ねられたことがある。

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