自尊心と自己過信は別物


最近、自尊心を傷つけられる出来事があった。

「できないヤツ」というレッテルを貼られたとき、「確かにできないからなぁ」という気持ちと、「そう思われるのは嫌だ」という二つの感情で揺れ動いた。

ここでおなじみの(?)ChatGPTに聞いてみて、考えたことをまとめていく。


よくある議論される問題として、「馬鹿に馬鹿と言っても許されるのか」「ブスにブスと言ってもいいのか」という話がある。

これは人によっては、「言われても仕方ないのだから許される」と考えるだろう。

しかしながら、もしも馬鹿な人に対して馬鹿という場合、これは自尊心を傷つける恐れがある
もちろん、ブスな人に対してブスという場合も自尊心を傷つける恐れがある。

つまり、「言われても仕方ないのだから許される」という考えは、自尊心を傷つけてしまうのである。


では自尊心とはなんだろうか。

わたしの考える自尊心は、自分ができることとできないことを認めることである

例えば、わたしは絵を描くことができる(絵を描く会で市内の美術館に飾られたことがある)。
一方でわたしはボール投げができない(10メートルしか飛ばせない)。

これを自分自身で認めて、自分はそういう人間なんだと受け止めること
これが自尊心だと思う。


逆にこれは自尊心じゃないぞというものは、自分自身を過信することだと思う。

自分は料理ができないけど料理ができると思い込んでいることは、自尊心ではなく自己過信だと思う。

だから、「言われても仕方ないのだから許される」と考える人は、相手が自己過信しているんだろうと思って発言をしているんだと思う。
それを自尊心と考えずに。



このように自尊心と自己過信には大きな違いがある。

確かに自己過信は褒められたものではないし、それによって自己評価と他者評価に差異が生まれ、コミュニケーションが円滑ではなくなったりする。

しかしながら、自分がこうであると受け入れる自尊心は、自己肯定感を高めるために非常に重要なキーとなっている。

自尊心を持ち、自分のことを認められれば、極論「これはできないけどこれはできるからな」とできる自分を認めてあげることができる。
また、できない自分に直面した際も必要以上に落ち込むことがなくなる。

もちろん、何でもできてへこみがない人間になることは素晴らしいことであるが、誰もが必ずしもそうであるとは限らないし、寧ろ何でもできる人間の方が圧倒的に少ない。


つまり、自分の得意・不得意を認めて自己受容を行い、適切な自尊心を持つことは自己肯定感の向上に繋がるので、適切な自尊心を持つべきだということだ。


そしてこの「適切な自尊心」を持つことができれば、不用意な発言をして相手の自尊心を傷つけることもなくなると思われる。

人を愛するためには自分を愛することだとよく言ったものである。


まずは自己否定をせずに冷静に自分を見るところから始めてみてはどうだろうか。
すると自尊心を持つことにつながっていくと思う。


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