無人島読書 vol.1 ~光あるうちに光の中を歩め_トルストイ著~

無人島で100日間を過ごすにあたり、5冊の本を島へ持ち込んだ。
どれも、ぼくにたくさんの学びや気づきを与えてくれた本だ。なので、ぼくなりの解釈やストーリーを踏まえながら、本の紹介をしていきたいと思う。
最初の1冊は、「光あるうち光の中を歩め トルストイ著」だ。

物語の舞台は、キリスト生誕100年後のローマ時代。かつて学び舎を共にした2人の青年が、一人は迫害を受けていたキリスト教徒の道に、もう一人はローマの教えに従い、それぞれの人生を進めていく。
キリストの教えに従い生きる青年は大きな富を築くわけではないが、教えを共にする家族や、多くの兄弟に囲まれて生きていく。財を共有して分け与え合いながら、つつましくも幸せに暮らす。
ローマの教えに従い生きる青年は、一旦は親の築いた巨万の富を散財してしまうものの、自身でもふたたび大きな富を築きあげ、公職にもつき、美しい妻も娶り、社会的に尊敬される人物となる。
しかし、彼は人生のなかにおきる困難、親子の関係、夫婦の関係、際限のない欲に絶望して、その度にキリスト教の道へ救いを求めようとする。
が、キリスト教徒の住まう村へ向かう途中に、医者を名乗る老人に必ず出会いキリストの教えは欺瞞であると諭され、あなたにはもっと崇高な役目があるのだからと、元の暮らしへ戻ることになるのだ。
とまぁ、ざっくりいうとこんな話だ。物語のオチが気になる方はぜひ読んでみてほしい。

先にいっておくと、ぼくは別にクリスチャンではない。
中高はプロテスタント系の学校に通っていたため、聖書や礼拝の時間が日々の暮らしのなかにあった。それぐらいの話だ。
ちなみに実家は禅宗で、小さい頃から夕食の前には仏壇に線香をあげて手を合わせ、木魚を叩き、お経を唱える習慣があった。別にお寺というわけでもなく、ごく一般の家庭のはずなのだが。
昔はそれが普通だと思っていたので、他の家ではお経を唱えることがないと知った時は驚いた。

話を戻そう。
ぼくは大学卒業後、田舎での生活を続けている。また無人島へ行ったりもしているものだから、物語のなかのキリスト教徒たちの暮らしに憧れがあるのだろうと思われるかもしれない。が、正直なところ、あまり魅力は感じていない。
物語のなかの彼らの暮らしはキレイすぎる。
清廉潔白の完全なキレイさばかりで、人間のもつ矛盾や葛藤、苦しみや歓びといった、ドロドロとした人間臭い不完全な美しさがあまり伝わってこない。

"キレイ" と "美しい" は、ぼくにとって全くの別モノで。
汚れていないとか、整っているとか、欠点がないとかがキレイの意味するところだと思う。
しかし、美しいっていうのはもっとドロドロしていて、不完全。そして、ものすごくエネルギーに満ちていて、なぜか魅了されてしまう力を持っている。そういうものが "美しい" だとぼくは思っている。

例えば、この無人島には小さなカニがたくさんいる。
左右に足が4本づつと、ツメが1本づつ。すべてがキレイに揃っているカニはほとんど見かけず、また見かけたとしても少しも面白みがない。逆に、たいがいのカニはどこかしらの足やツメが欠けており、それでいて必死に生きている。
一度、身体の右側は足が1本とツメだけが残り、左側はツメを失って足4本だけが残っているという、ひどく傷ついたカニをみかけた。
足もツメも数が全然足りないものだから、一歩一歩を歩くごとにバランスを崩して腹を地面に擦っている。足が1本しかない右側はツメも使って必死に身体を支えて歩いていた。ひどく醜く歪んでいた歩き方だったかもしれない、だがその必死に生きようとする姿に、ぼくは強く美しさを感じてとても魅了された。

ぼくが作中のキリスト教徒の暮らしに惹かれないのは、そういった思わず魅了されてしまうような、不完全な美しさを、感じられなかったからだろう。
しかし物語の最後のオチには、少しだけ人生の美しさを垣間見た気がした。フォローも含めて、それだけは言っておこう。

対して、もうひとりの青年のローマの暮らしに憧れを抱くかといえば、そういうわけでもない。豪華絢爛、奴隷を従え酒池肉林の日々。たしかに一度体験してみたくもあるが、その暮らしは、あまりにも多くのものを持ちすぎている。
青年は常に自分と他者を比較し、その優劣を気にして一向に満足することがない。際限のない欲を求め続け、少しでも多くを手に入れようとする。それじゃあ、きっと疲れてしまう。
別にたくさんのものはいらないから。この無人島での暮らしのように、一日のどこかでふっと全身の力を抜いて、ただただ景色を眺めるような。夕日の沈んでいくのを15分くらい、なんにもせずにボーッとみつめてるような。
そんな暮らしの方が、ぼくは欲しいかなぁ。そんなことを、本を読みながら考えていた。

大学卒業後、ぼくが田舎で暮らそうと思ったキッカケは、自分を守るためにできる限りの実物的な豊かさや財を蓄えるためだった。
大学入学時にちょうどリーマンショックがあり、ぼくは信用通貨で成り立つ経済システムに不安を覚えていた。だから経済が混沌のなかにあっても自分と大切な人を守れるようにと、実物的な豊かさや財を担保できるようにするため、田舎にそのライフラインを求めようとしたのだ。それが田舎暮らしの始まりだった。

が、結果として、実物的な豊かさや財を蓄えることはできなかった。ぼくは田舎に土地も家も所持していないし、お金も一切貯まっていない。
もちろん、蓄えをつくろうと働きかけたことはある。しかし、どうにも "何かを所持する" という行為が性に合わないらしく、いざ何かが手に入るという段になったらそれを自ら拒絶していた。むしろ最近はそれが激化し、これまでに所持していたものすらも手放していっている傾向がある。
ミニマリスト、というのだろうか。そういう生き方が性に合っていて、何かを所有することに恐怖を感じるようになってしまった。所持することによってうまれる義務や責任を逃れている、そういう面もあるのだろう。
根無し草的に、自由に、いつでも生まれ変われるような気分で旅を続けたい性分だというのは自分でも理解している。
…少し、話が迷子になってきたな。

ところで、作中でキリスト教徒の青年はこう言っている。
キリスト教徒は大きな財を所持することを必要としない。だが、あらゆるものの基盤は保持して、これを大きくする必要がある。と。
それで言えば、現代社会はかつてないほどに強固な基盤がしかれているといえるだろう。社会保障や教育、病院、警察など、社会全体の公的財はかつてなく充実してきている。
では、公共財ではなく、ぼくたちが個々人に保持すべき基盤とはなんだろうか。この社会を生き抜くために、僕たち個々人に必要な基盤。それは土地、家、金、それとも人脈?
様々な要素があるのだろうが、先にも述べた通り、ぼくはそれらを所持する必要性を感じられず、実際に手に入れることはなかった。
では、この社会を生き抜くためには、何が基盤となるのだろうか。
ぼくは "適応力(≒社会性)" だと思っている。

人間は個々では弱い。圧倒的に弱い。無人島での暮らしで強烈にそれをつきつけられた。人間は一人で野に放たれて、生きていけるような種族じゃない。個々が集まり社会を為すことで、やっと生き残っていける存在だ。
むしろ個々が弱かったからこそ、群れができ、言葉や文字が生まれ、知識が蓄えられ高度な社会が成り立ってきたのだろう。
だから、人間の強さの基盤というのは、 "適応力(≒社会性)" ではないだろうか。それを個々人に所持し大きくすることが必要なのではないだろうか。

もし人間が個々で生き延びていける種族であれば、言葉も文字も生まれず知識の蓄えもなく、それぞれが勝手に生きて勝手に死んでいっただろう。
だが、そうはならなかった。
だからぼくたちは生き残るために、社会に関わっていかなきゃいけない。
そしてその社会にいかにして関っていくのかって技術こそが "適応力(≒社会性)" だと、思っている。

うーん、ちょっと本の話からだいぶ逸れてしまったな…。
今回はこの辺りで〆て、"適応力(≒社会性)"については次回で詳しく書きたいと思います。

ろくに紹介できていませんが、無人島読書の1冊目。
「光あるうち光の中を歩め トルストイ著」でした。

i hope our life is worth living.


この記事が参加している募集

推薦図書

読書感想文

またひとつさきへ