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戦争とアニミズム 〜木に教えてもらったこと〜

 子供の頃は、目には見えない世界のことがわかった、という人は結構いる。松任谷由美の「小さいころは神さまがいて〜」みたいに、神様みたいな何かがいつもそばにあって、それを疑わずに、当たり前に生きている、澄んだ感覚世界。

俺の場合は、どうだったかな。振り返ってみると、そもそも俺は記憶の始まりが早い方らしくて、2歳ごろから割と鮮明な記憶がある。でも、とりわけ目には見えないものと交信していたような記憶は、実はあんまり残っていないんだ。

例えばパートナーのモモさんは、小学校高学年くらいの頃、亡くなったご先祖様たちが自分の背後にいて、いつも怪我をしないようにとか、勉強を頑張るように見守ってくれているのがわかってた、という。

モモさんは今なお肉眼で視える人ってのもあって、振り返るとちゃんとそこには、じーちゃんばーちゃんがいたんだそうな。でも常に見守られてるのは割と緊張感もあったらしくて、おかげで勉強がはかどり、成績は常にトップだったらしい。(俺はそれを聞いて、見守られたっていうより見張られてるのではとも思ったけど。。笑)

俺には、モモさんみたいなエピソードがあんまりない。ただ、自然の豊かな場所で育ったのと、しょっちゅう森や河原で、一人でも遊んでいる子だったから、今思うと独り言がめちゃくちゃ多かったんじゃないかなとは思う。

独り言っていうか、本人的には無意識に、自然の中にいるあらゆる存在とコミュニケーションしていたんだと思うんだよね。でもそれが当たり前すぎて、記憶に溶けちゃってるっていうか・・・今なお、俺は気に入った木と会話したりするし・・・会話ってか、挨拶程度だけどね。ご近所さんに挨拶するのと同じくらいのノリというか。

もし今、フツーに人前で「俺、木と喋りますよ」とか言ったら、多分笑われるんだろうなとは思うんだけど。でも一方で、日本人ってそういう民族なのかなとも思ってる。だって神社とかいくと、みんな結構、御神木に手を合わせたりするしね。あの習慣って、例えば欧米人から見たら「え? それ木だよね? 自分で育てたわけでもないんでしょ」って感じだと思うんだよな。彼らは石の文化だし。


木を拝むことからくる「共感覚」

そういえば、ちょうどロシアのウクライナ侵攻が始まった頃だったかな。あのニュースは、きっと誰もが沈鬱な気持ちで受け取ったと思う。俺も、なんだか気分が重くって、ふと散歩に出たんだ。

しばらく歩いて、ふと思いついて、神社に立ち寄った。そこに、大きな御神木があって、俺は行くたびに挨拶してたから、この日も手を合わせた。その時にふと、こんなことを言ってみたんだ。

「今日、海外で戦争が始まったよ。だからちょっと今日は元気がないんだ。戦争がなくなるために、世界が平和になるために、俺にできることって、今、何があるんだろうな」

そう話しかけてみたら、木はこう応えた。

今、やってるよ

ん?

俺は思わず目を開いて、何のことだ?と思ってあたりを見回した。すると、いつの間にか御神木の周りには外国人が4、5人集まって、俺と同じように手を合わせていたんだ。

彼らは外国人観光客らしく、アジア人が二組と、あとは欧米人のグループって感じだった。要するに、観光中の彼らは、現地人である俺が木に手を合わせている様子を見て、「へえ、ここの人はそうやって拝むんだ」と真似をしてくれたようだった。

あ、これが世界平和につながるのか。俺はピンと来た。

木を拝むって、アニミズムが残る民族や、国でしかなかなか行われない文化だ。日本では当たり前にみる光景でも、例えばパリやニューヨーク、ロンドンでも同じ光景を見るかと言ったらそうじゃない。

「木に手を合わせるくらいのこと、みんな帰国したらすぐ忘れるよ」と思うかもしれない。でも俺は、一度でもそういう行動をとった人間には、必ず無意識に「木に手を合わせる」という行為の結果からくる「木には拝むべき大切なものが宿る」という認識が、きちんと刷り込まれるんじゃないか、と思ったんだ。

すると不思議なもので、一度でも木を拝んだことのある人は、少なくとも木を切る時、「これって、木も痛いのかな」という共感覚が働くようになるんじゃないか、と俺は考えた。例え結果的に木を切ったとしても、「痛いのかな」と感じる感性を育むことが、俺は大切だと思う。

この共感覚、つまり、相手の痛みを自分のことのように感じる力は、アニミズムの残る地域で暮らす人の間に、顕著に見られるものだと思う。その力が、アニミズムの失われた地域の人の体や心に広がる時、もし誰か/何かを傷つける場面があっても、それを躊躇する心が芽生えていくようになる、と俺は思う。

もちろん、俺たちは今も木を切って暮らしているし、たくさんのものを傷つけて生きている。現代的な生活は、たくさんのものを犠牲にして成り立っている。資本主義を生きてる俺たちみたいな日本人は、共感覚がある一方で、他人の国の資源をお金と引き換えに、ある意味で奪うことをしなければ、生活を成り立たせることが苦しくなっているのが現状だ。

そして、戦争は常に資源争いとセットだ。つまり、どこかの国で戦争が起きてる時点で、俺たち先進国、資本主義の国の国民は、戦争に加担してるも同然、って視点を持つべきだ、と俺は思ってる。どんなに「世界平和」を訴えて、願っていても、もしあなたがスマホを持って生活しているのなら、あなたも俺も、レアメタルを巡ったアフリカの紛争に対する加害者だ、ということをまず自覚した上で、「世界平和とは何か」を考えなければならない、と俺は思う。

その反省と、日々の生活の選択をいかに、他者のものを奪わない選択に変えていけるか。まずその視点は重要だし、この矛盾と向き合い続け、生活習慣を見直し、変えていくことは常に大事だと思う。例えば生ゴミのコンポストを始めるとか、ささやかなことでもいい。平和を願うなら、自分の生活習慣が世界平和を脅かしている矛盾とまず向き合い、小さなことからでも習慣を変えていく。全てはその上での話だ。

その上で、俺は、木を拝むという自然な自分の行為一つで、それを見た同じ日本人や、海外の人たちの心に、アニミズムなり、木を大切にする心なり、相手の痛みを感じる共感覚なりを少しでも感じてもらうことができたら、そこにも少しの希望を持てるなと思う。

ただ大事なのは、それが習慣であることだ。こうしたら世界平和につながるから、木を拝もうよ!みたいな主張を声高にしても、それは平和にはつながらない。なぜなら、他人は変えられないから。そして、意図を持って変えるべきもの(コントロールすべきもの)ではないから。他人を変えたいなら、まず自分を変えなければならないし、自分を変えることに必死になっていたら、他人を変えようとする余裕なんてないはずだから。

だけど、こうして自然と自分の習慣になっている何気ない行為が、いつの間にか他人の変化につながる、それは素敵なことだなと思った。それを、木に教えてもらったんだ。

今日は、木と話す日常でも書こう、と思ったらなんか熱くなってしまった。笑 もちろん、戦争と題するには、楽観的な論理だな、と自分でも思うよ。ただ、戦争ほどの大きな問題を、一瞬で解決できる方法なんてない。だからこそ、習慣からでも変えていける、という楽観性もまた、必要だと俺は考えてる。

逆にペシミスティックになって、俺たちは忌むべき加害者!みたいに悲観にくれたって、誰の得にもなんないからさ。


読んでくれてありがとう。^^

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