色盲の人が色の認識できる特殊なメガネをかけて世界を見て、感動して泣くと言う外国の映像を見たことがありますか?

過去に何度か見ていましたが、この間たまたままたそれを見た時、「この動画の意図は何かな」と感じました。それまでは感動して見ていたのに、なぜか急に白けて感じたからです。おどろいて心境の変化を観察しました。

動画の意図は大抵、「泣かせたい」「感動させたい」「教訓を伝えたい」などの狙いがあります。バックグラウンドの音楽とかでわかります。なぜなら私の意識がそれを作ってるから。だから私のエゴがわかる。それで不覚にもうるっとしたりするわけです。

そしてもちろんそのビデオのねらいは、「感動して泣かせたい」でした。じっさいすこしうるっとしました。
でも「感動して泣かせてどうするのか」と感じて、教訓があるの?あるとしたら、「わたしたちの平素見てるものはこんなに泣くほど素晴らしいものなんだよ」ということか?と思い、そのときは「ふーん、それもそれでいかにもありそうな話だ」と思って、そういう自分の中のエゴの問答はそれきり打ちやめにして、すっかりわすれて放っておきました。

その時私は風邪をひいていて、鼻が「実家に帰らせてもらいます」状態。何を食べても匂いを拾いませんでした。
同時にその時ちょうど老子を読んでいて、老子が「タオは薄味」と表現しているところを再読していました。

「薄味。薄味かぁ」

と思い、それから、全く香りのしない自分の夕餉を用意して、一人黙々と食べている時に、

「あれ、今私、色盲と同じニュアンスなら、味盲(あじもう)じゃん」とぼんやり思いました。

でも、生まれてからずっと味盲なら?

この状態のなかでわたし独自の「これは美味しい」「これはまずい」がちゃんと生まれ、感じられるだろうな。

つまり、いくら薄味でも、独自のレベルで感じられる美味しさがあるはずです。

色盲の人だって、別に色が見えなくても幸せはちゃんとあった。美しいと感じられるものもぜったいにあった。

そこに「強い味を感じないのはかわいそうだ」「色を見れないの?!気の毒ー!」と言う概念さえ持ち込まれなければ、不幸にはなりようがない。

つまり、粛々と己を、ただ丁寧に、どんなに薄味でも、「今の私の人生はもともとそうです。そこしかない」くらいに腰を据えて味わいやることは、

自分の過去や外の世界との比較で「今」に優劣をつけて、それに翻弄されるエゴから、
「その瞬間の自然な自分を解放する知恵」であって、自分のために1番優しいあり方じゃないの、と思ったわけです。

そこで私は、
「もともと生まれたときからこの程度しか嗅覚のない人」としてその日のお夕餉に向かいました。
すると、途端にご飯が美味しくなった。
びっくり。

いい教訓でした。

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