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糞フェミでも恋がしたい (その19)

私の名は能條まどか。糞フェミだ。

糞フェミだって大学生だ、都内の、カトリック教系の、まあちょっといい感じの四年制の大学に通っている、ちゃんと試験を受けて合格した、私はいちおう大学生なのだ、いちおうというのは、退屈で退屈で、あまり講義に出席していないからだ、サークル活動は頻繁にやっている、部室に顔を出している、もちろん、フェミやLGBTや、そういうのを研究するサークルだ、カトリック教系でLGBTってのもどうかと思うんだけど、まあそれが今という時代なんだろう、ともかく、私は無神論者なので、敬虔なクリスチャン女子とは、距離を置くことにしている、そもそもの話、聖母マリアさまは処女懐胎だというのがいけすかない、それは男とセックスして妊娠して子供を産むという、女という生き物が本来的に自然から授かった素晴らしい能力に対する、根源的な否定ではないか、そんな理不尽なものを聖母として崇め奉るなんて、女としてどうかしている、こんな嘘っぱちな偽物の、どこがいいのか、女の持つ絶対的な生命力、それはまさに己の胎内で命を育むという、生命の神秘そのものへの崇敬を持って、己の立脚点と為す誇り高きフェミニズムの闘士諸嬢は、なぜ聖母マリアやそれを信仰する軽佻浮薄の者たちに怒りを向け論陣を張らないのだろう、ナンセンス、まったくのナンセンスだ。

でも、そんなことどうでもいいや、私にとって大事なのは、綺羅君だけだ。

人間はもともとどうしようもなく下衆で世俗で欲望に満ちた存在、生きるというのはそのものが穢れることだ、穢れこそ人生、ならば存分に穢れようではないか、というのは、私が気に入って講義に出席している、文化人類学の先生の受け売りだが、本当にそうだと実感する、本の中にも、思想の中にも、宗教の中にも、生きる真実なんてないのだ、生きる真実は、心から欲する相手と、手を取って抱き合ってキスをする中にしかない。

大学生にとって、秋は試験の季節だが、そんなの知ったことじゃない、私は、落ち着いてはいながらほどよく甘めのロリータで思いっきり可愛く女装して、まるでもうお人形さんのようになった綺羅君の手を取って、大学のキャンパスを歩いている、素敵という言葉はこういう時のためにある、まだ枯れ葉の時期には早い、まだまだ楽しまなくちゃせっかく生まれてきた意味がない、道行く女どもが綺羅君を見る、道行く男どもも見る、そりゃあそうだ、こんなに可愛い生き物は、ちょっと巷ではお目にかかれないぞ、私のだ、どうだ、うらやましいだろう、私はこれから、ただフェミ仲間やLGBTの友人をうらやましがらせるためだけに、可愛くて可愛くてしかたがない綺羅君をサークルの部室に連れて行く、我ながらなんという汚い根性だろう、でもいいや、それが私なのだ、ざまーみやがれ。

綺羅君に女装はしてもらっているが、もちろん、口紅は塗っていない、これは、どれだけ可愛く女装しても、口紅を塗らなければ、あの綺羅君が出て来ないということの、検証でもある、今日一日、綺羅君を連れてあちこち行って、人と会って、綺羅君の反応を見るという意味もある、人の多いところは慣れないのか、ちょっと不安そうにきょろきょろしているのも、また母性本能をくすぐるところで、それはそれでまた、私の中に熱いものが滾る、綺羅君、どれだけ私の欲望を刺激すれば気がすむんだ、法律違反だぞ、私法廷の私最高裁で文句なく有罪と認定する、市中引き回しのうえ打首獄門だ、遠島だ、極刑だ、勃起した男性器の写った全裸の恥ずかしい写真を講堂の屋上からバラまいてやる。

そんな妄想をふつふつと繰り広げながら、私たちは有象無象のサークル部室のいっぱい集まっている会議棟を上り、殴り書きのような文字でYUP, I'M A FEMINISTと書かれた、見るからに年期の入った薄汚れた鉄の扉を開けた。

つづき→ https://note.mu/feministicbitch/n/n80dc808e9289

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