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体育会系の是非と僕の恩師の話

昨今では「体育会系」という言葉に良いイメージはほとんどないと言っていいだろう。
時代錯誤でハラスメント的な、個性を潰す教育方針というイメージが広まっている。
実際に大学や高校などでいわゆるしごきがリンチに発展した挙句死傷者が出たりと、明確な原因がある以上はそのイメージも払拭しにくい。
しかしそれだけではなく、正しい体育会系、つまり上下関係の良い面をアピールするものがないというのもイメージの悪化に拍車をかけているとも言える。
そのため今回はその良い体育会系といういわば都市伝説のようなものである僕が高校時代世話になった部活と、その部活を引っ張っている恩師について書いてみたい。

周りの友達には少し話したこともあるが、僕は高校時代とある武道を部活でやっていた。
僕は高校一年生からその武道を知り、高校の3年間を丸々費やした。
卒業後は稽古からは離れてしまったものの、卒業から10年以上経った今でも時々高校には顔を出させてもらっている。
まずこの「卒業から10年以上たった学校の部活に顔を出す」と言うのが既に珍しいものと言えるだろう。
これを実現可能にしているのが顧問の先生の人柄と、その先生が築き上げてきた風土だと言える。
実際三十路過ぎの僕であるが、OB会に顔を出してもまだまだ若輩者の部類になるのだから驚きだ。
うちの部活は30年以上の歴史があるが、部活の創設から今の現役の高校生の指導に至るまで一人の先生が一手に行っている。つまりどの世代間にも必ず「共通の先生との思い出」があり、これもまた高校生を含めた歴代の部員同士の結束に一役買っている。

そして武道の部活、というイメージから思い浮かべる通り、うちの部活はゴリゴリの体育会系である。
先輩の言う事は絶対だし、現役の高校生からすれば顧問の先生やOBは神のごとき存在である。練習ともなれば檄は飛ぶし気合いが抜けていれば怒鳴られるのだって珍しくはない。
流石に現代なので手を上げて怪我などはないが、およそしごきのほとんどはあると言っていい。何も知らない人が練習風景を見たらちょっと敬遠するレベルだ。今から30年以上前の設立期は流血沙汰も日常茶飯事だったらしいが、それこそ時代というものだろう。
そんなの悪い体育会系そのものではないか、と思われるかもしれない。
しかし考えてみても欲しい。学生時代に理不尽なしごきを受けて最悪の印象を持った人たちが、卒業後にわざわざ現役の高校生のために高校に顔を出したり指導に向かったりするだろうか
OBは神のようなもの、と言ったがそれは高校生がそう感じているだけであって別にOB自体には何の権限もない。練習に行ったってトップは先生だし、ふんぞり返ってもいられない。稽古から離れた社会人の身体に鞭打って昔を思い出して高校生たちになけなしの指導をし、元気を貰いに行く程度が関の山である。
ではなぜOBはわざわざそんなことをしに行くのかと言えば、やはり「あの時」を感じられるのと現役の高校生が頑張っているのを見るのが楽しいからだ。
先生や先輩が気分のままにしごきをするような体育会系であれば僕だって卒業したらそんなの最悪の日々だったと忘れて終わりだろう。
そうならないのはしごきはあってもそれが理不尽ではない、という事だ。

僕の高校時代の話になる。
一年生の僕らは入部早々に一つ上の二年生の先輩とその一つ上の三年生の先輩と出会う。
先生がトップでその下に三年生がいて、その下に二年生がいる。練習風景も見学できるが、三年生も二年生も男子も女子も、鬼のような強さであることがすぐにわかる。
目の前でバチボコに殴る蹴る投げるの練習をしているので、否が応でも先輩の「強さ」というものが刷り込まれるのである。
そして、体験入部の期間が終わると同時に僕らは「一年生」としてその部活のヒエラルキーの一番下に割り当てられる。
先輩の顔と名前を叩きこまれ、部活外でも校舎で見つければ走り寄って挨拶をしなければならない。道場の中では影も踏めないくらいに注意して立ち回り、目の前なんか横切ったら大目玉である。そして休憩時間ともなれば自分の水を飲む前に先輩の水を汲んで、先輩が飯を食い終わったら即座にそれに気づき、そのゴミを回収して捨てるのだ。
こうして一年生は「周りを見る力」「気が付く力」を徹底的に鍛えられる。
二年生は二年生として先輩なのだが、別に二年生もそれを笠に着て威圧的な態度を取ったりはしない。部活のトップは先生であるからそんなくだらない真似は出来ないし、何より二年生も三年生もその下積みを終えてきているのである。理不尽で面倒であることは十分わかっているからそうした下働きに関しては「いいよいいよ」と言うスタンスだ。
一年生を小間使いにするのが目的なのではなく、あくまで学ぶための下地を作るためにやっていることなのだ。

そして、ここも結構な肝なのだが、一年生は当然最初はミスをしまくる。
先輩を見つけたのに挨拶をさぼったりだとか、練習に気合が入っていないだとか、学校での素行が悪いとかだ。うちの部活は部活だけやってればいいというものではなく学校生活自体も成績を含めて厳しく見られるため、部活ではないからと気が抜けない。
少し前まで中学生だったこどもがそんな簡単に周りを見られるようになって優秀になるのかと言えばそんなことはないのだから、失敗をするのは当たり前だ。
だが、これらの事で一年生は怒られない。ここで怒られるのは二年生なのだ。お前らの指導が足りていないからだ、と先生にたっぷりと絞られる。
一年生はそれを見て自分が怒られるよりも気まずい思いをする。そして当然、先輩たちからはそれをまた怒られるのである。
だから先輩に叱られる事は数知れずあったが、先輩たちが悪い訳ではないのも自分たちが一番わかっている。勿論学生当時はそんなお上品には考えられない。「先輩が偉そうにしやがって」と思う生徒も一人や二人ではないだろう。
だが、前述の通り先輩はまず鬼のように強いのである。鬼を越えたような強さの先生から一年間みっちり武を指導されている訳だから素人の新入生が適うはずはない。
力としても格としても上の先輩から叱られれば元ネタは自分たちのミスであるし「はいそうです」としか言えない訳である。

こうして一年間、指導に耐え練習を重ねて大会に出て、新入生は少しだけ成長する。
そうして自分たちの下の世代が入ってくるのだ。
ようしこれで下っ端からは解放だ、と思えばそういう訳でもない。わらわら入ってきた後輩たちは今の自分達では考えられないミスをしまくる
去年自分たちがやったものから想像もつかないものまで、おいおいお前ら勘弁してくれよ、と言いたくなるようなやつをだ。
そして当然、怒られるのは自分達である。お前らの指導が足りていないからだ、と言われる。
なんと理不尽な、と思わないでもないがこれは去年自分たちが先輩におっかぶせたものに違いない。
先生は上級生を指導し、上級生が下級生を指導する、という図式であるのは一年間で叩きこまれているので僕らは後輩の指導にああでもないこうでもないと思い悩むことになる。
そしてここで初めて気が付くのである。先輩になっても何も楽なものなどないと。
当然練習中は一年生があれやこれやとしてくれる。だが結局、あれをしろこれをしろと言われていた当時とは違い自分たちがあれをしろこれをしろと指示を出す側なのだ。勿論変な指示を出せば容赦なく怒られる。
ここで二年生は「人の上に立つことの大変さ」を学ぶのである。人の上に立つという事は立場にかまけてただ威張っていればいいものではない。
技術的にも十分な背中を見せなければ威厳がないし、精神的にも大人でなければ務まらない。人を見て周りを見て的確な指示をしなければいけないし、彼らの行動の責任まで負う事を含めて「上に立つ」と言うのだ、という事を学ぶ。
こういったことに関して、詳細に先生からこういう狙いだ、と言われることはない。ただ日々を怒られて過ごす。
だが、これを越えた上級生たちは言語化が出来るか出来ないかはともかくこういったことを肌で学ぶのである。

この肌で学ぶ、というのはいうほど簡単な事ではない。
全力で行動して全力で考えて、それを繰り返した結果何となく学ぶのである。だが、こうして学んだことは容易に忘れない。忘れないというか学んだ自覚もあまりないので自然に染みつくのだ。
こういった努力の形は現代ではまず歓迎されないだろう。一年生時点の下働きに「時代錯誤だよ」と指摘されれば確かにその瞬間はそう見えてしまうからだ。
だが、上にも書いたが別にこれらは苦労をさせたい訳ではない。
現役時代に先生から時折言われた事でもあるが、苦労したこと自体には何の価値もない。そこから何かを学ばねばそれはただの徒労になるのである。
だから僕らは高校時代におよそ同級生は経験しない苦労を通して、何かを学ぶ。それはうちの部活でなくても学べるものだろうけど、人生を生きる上で大事な事でもある。

閑話休題。
そうして高校生活を終えた上級生は晴れてOBの仲間入りをする。
ここまで来ると大変なものは何もない。先生は一気に「大人対大人」として接してくれる優しい先生になるし、道場に顔を出そうものなら神扱いである。(正直現役を離れたおじさんでは大して役にも立たないのでそこまではしなくていいと思うのだが、実際僕らもやっていたので「気を遣わなくていいよ」と言っても無駄なことはわかっている)
そして、ここまで来ると今まで所属していた部活という枠組みを一気に外側から眺める立場になる。
遥か先輩の代から下級生と上級生の連綿とした繋がりが自分たちが世話になった部活と言う形を作り上げてきたことや、その流れを今受け継いでくれている後輩がいることに「良さ」を感じるのだ。ありきたりに言えば感謝でもある。
だからOB会などで会うOB同士は非常に仲がいい。基本的に先輩に対するリスペクトがあるから多少色の濃い上下関係はあるがそれは強制されたものではないし、自分達より下の世代のOBには「もう卒業したんだから気を遣わなくていいよ」とみんなが言う。現役時代の辛さを共有しているからこそだ。
そして、OB同士でもとりわけ現役時代に交流のあった一、二年差のOBは特に親しくなる傾向にある。現役当時の絶対的上下関係からしたら考えられないが、終わったらみんなそれぞれが苦労していたことがわかるから笑い話になる。「あの時のやらかしは酷かったな」「どうもその節は笑」みたいな会話が交わされるのだ。
そしてOBはみんな現役の高校生がかわいくて仕方がない
頑張ってるなぁ、俺もやったなぁ、と思いながら彼らが懸命に学んでいるのを応援したくなる。

これら歴史を含めた全てを一つの団体として実現している立役者が、顧問の先生その人だ。
この先生は生徒にはめちゃくちゃに厳しいが、自分にはもっと厳しい。毎日毎日高校生の面倒を見ながら教員の仕事もして自分の研鑽も欠かさずに年々段位が上がっている。ついでに言えば仕事も出来るので学校内でもどんどん地位が上がっている。
そのように厳しく指導するだけの事を自分でもやっているから、怒られた側としても何も言えない。ふんぞり返って何を偉そうに、とはならないのだ。
何故なら何年経っても体力の溢れた現役高校生より遥かに強いからである。もはや文武両道とかいうレベルではないし多分人間でもない。

結局僕自身も肌で学んできた訳であるから細かい狙いなどはわからないしこれらの推測が合っているかもわからないが、今の僕と言う存在には当時の体育会系がなかったらなり得ないとも思うわけだ。
僕はこの部活で生きていく上で必要なものをかなり学んだ気がする。どこに行っても大抵の場合それなりのことが出来てそれなりに認めてもらえ、充実した人生を過ごしているがその原因の少なくない割合はこの部活のおかげだろう。
一年や二年先に生まれて始めたのが何が偉いんだ、というのも一つの考え方だ。先輩だろうが後輩だろうが実力が上なら偉いんだ、というのも一つの考え方だ。体育会系なんて今どき流行らないよ、というのも一つの考え方だ。
そういう考え方で絆が育まれないとは言わないし、実際にそれで得難い結び付きや学びを得た人だって沢山いるだろう。
ただ、僕は少なくとも「この部活でやってきてよかった」と思うし、高校生当時の日々に関しても感謝をしている。
今の高校生がはちゃめちゃに怒られているのを見ても、それが間違っているとは思わない。そうでしか学べないものもあることを知っているからだ。彼らがそれに気づいてくれたいいなと思いながら見守っている。
少なくとも徹底した正しい上下関係に生きると、謙虚さを学べる。その証拠に、うちのOBで謙虚でない人は一人もいない。十年二十年年上の先輩であってもみんな謙虚である。

そういうのを見ると、「人間一度は上下関係を叩きこまれた方が人間的によくなるのではないかな」と思わずにはいられないのだ。
世の中間違った上下関係が非常に多い。上に立つ者は下にいる者の想像が出来ず、理不尽な要求をする。下にいる者はその要求に対して何も学びや優しさを感じられないから成長がなく、いざ上に立った時にその時の事を思い出して今度は威張らなければ損だとばかりに報復のように権力を振りかざす。
このような上下関係では何も学べない。そしてこういったものがあまりにも多いから「上下関係」自体がなくされようとしている。
ややこしいが、上下関係を知らない者が上に立つから間違った上下関係が生み出されるのだ。
だが、世の中には正しい上下関係がある事も知ってもらいたい。
本来上下関係など、上に立てば立つほど苦労が増えるのである。
先人は受け継いでくれる後輩に感謝し、後輩は指導をしてくれた先人に感謝する。
先達から受けた恩を後続に還元していく。そういうものもあるし、それがあるべき姿としての上下関係なのだろう。

何でもかんでも考えなしに多様性と平等が叫ばれ縦の繋がりが蔑ろにされる昨今、多少なりとも一本通った筋は必要かと思うのだがみなさんはいかがだろうか。

以上、リコでした。

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