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被害者という特権階級

日本が世界に誇る文化、考え方の一つとして「謙虚」「思いやり」というものがある。
利己的にならず利他的である事を良しとする価値観だ。
当然社会的生活を営むのであれば利己的な個体よりも利他的な個体の方が多い方が円滑に行くのは間違いがない。
だが、人間に限らず動物であってもある属性が集合の100%を占めるという事はほとんどない。
今回はこの文化が本当はどういう姿のもので、今日の我々がそれをどうとらえているのかを解剖していきたい。

一つの問題を提起するところから始めたい。
まず現代日本において、強者と弱者のどちらがより支配的な立場にいるだろうか?
そう、弱者である。
いや、弱者は支配されているから弱者なのではないか、という意見があるかもしれない。だが本当にそうだろうか。
多くの人間同士の接点に於いて、弱者というのは非常に支配的な力を持っている。加害者と被害者の言葉だったらあなたはどちらにより重きを置くだろうか。強者がそのまま支配者に上がることが果たして今どきあり得るだろうか。
何をするにしても弱者というステータスがあるだけで民意を得られるのはSNSを見ていれば一目瞭然だ。
〇〇なんて可哀想被害者だったらこれくらいは許されるよね、は日常茶飯事だ。
逆に、最初は被害者として振舞っていたのに逆に加害者側だったことが露見した場合は多くの場合同情はバッシングに転化される。

これが行き過ぎるとどうなるか。
皆さんが日々目にしている通りである。弱者によるより弱い立場へのマウントの取り合いである。
不幸マウントなどは正にその産物であり、より弱者を証明できたものが階級を上げることが出来る。

僕は以前から、SNSでポジティブな言葉よりもネガティブな言葉の方が何倍も共感を生む理由がわからなかった。
至極真っ当で前向きな言葉に対しては「そうなりたい」「それが出来たら楽」などの言葉は並んでも「私もそう考えています」という言葉は皆無だ。
逆に悲観的でネガティブな言葉には幾百もの同意とそこから始まる悔恨が並ぶ。結果的にネガティブな言説の方が何となく正しさをもって拡散されていく。
彼らは気づいていない。ネガティブの王になったところで得るものなど何もないのだ。より弱者である事が一体何を生むというのか。自尊心の破壊と引き換えに得られるのは一時的な同情だけである。
だが、これはきっとなくなることはない。何故なら単純に被害者は強いからだ。
彼らは彼らの社会の中で生きる限りはそれを印籠としてより強い立場に居座ることが出来る。
そして実際にその立場は心地いいのだろう。僕には到底理解できない価値観ではあるがそこが彼らにとって甘美であるのはなんとなく想像が出来る。
何せ何も持たなくていい。黙って寝込んでいるだけで同情という仮初の優しさが降ってくるのだ。人によっては抗えない甘味であると思う。

例えば「自分は頭が悪いから」という言葉がある。
多くの人間の意見の枕詞になっているのは疑いようがないだろう。
この予防線を張っておくことにより、彼らは指摘という真っ当な意見から身を守ることが出来る。
その言葉を前にして尚指摘をすることは明確な「加害」であり、指摘があったその時点で弱者としてのステージはアップする。
また、縦しんばその指摘が正しいものだったところで「そう言われるのはやっぱり頭が悪いからなんですね」という結論に帰着させて聞き入れないことも出来る。もう無敵である。
言葉だけを見れば謙遜と取れるかもしれないが、この通りこれは謙遜でも何でもなく、自分に向けられるあらゆる指摘から身を守り聴きたくないことには耳を塞げる非常に利己的な言葉なのである。究極の自己中心的思考と言ってもいい。

問題はこれが「謙遜」として認知されていることにある。
この利己的で自己中心的な発想が利他的、遠慮している態度としての隠れ蓑を持っているのである。
これは非常にたちが悪い
これで誰が困るのかと言えば、当事者の彼らである。
彼らは恐らく根本的な自己肯定感の低さからそういう意見の表明の仕方しか知らない。弱者としての鎧を纏う事でしか他者と向き合えないのである。
だが、さっきも書いたがそれで恒久的に得られるものは何もない。そしてその階級はいつまでも自分を守ってはくれないのだ。時が経てば新しい弱者は次々と量産される
彼らは一時だけ同情を恣にしてその後廃れていく。
廃れた彼らには何も残らない。だから彼らは再度より強い弱者にならなければならない。そうすることでしか戦えないから。

わざとであろうがなかろうが、自分を卑下する言葉とは諸刃ですらない自分にしか刃の向いていない武器である。振れば振る程当然自分が傷ついていく。
一時的な甘みのためにそれを振るうのはやめた方が良い。だが、そんなことは彼らが一番わかっているのだろう。
では彼らに出来る事は延々と自分を切りつけてその傷を誇示すること以外にないのだろうか。

僕が考えるにたった一つだけ方法はある。
人に対してやたらと同情をする事を控えるのだ。
自分はこの際変えられないだろうからそのままで良い。被害者に対して可哀想と思うのをやめ、被害者はより強い立場にいると考えよう。
勿論中には本当にただ困っている人もいる。真に救いの手が必要な場合もあるだろう。そういう人たちを救いたいという気持ちは何も間違っていない
だが、本当に困っているそういった人たちを救うためにもある程度懐疑的な目線は必要だ。人間は目に入る全てを救うことは出来ない。目に入る量と手の中に入れられる量は違うからだ。

だからという訳ではないが僕は同情という行為をしない。可哀想という感情は傲慢とさえ思っている。
可哀想という感情は誤解を恐れずに言えば「立場が上のものとしての傲り」である。
自分に余裕があって相手は自分よりも余裕がないという視点でないと可哀想と思う余地はない。
人や動物に対してつい可哀想という感情を持ってしまった時、僕はその対象に対して傲っている事はないかと一度立ち止まって考える。
無暗に可哀想と思うのはそういう事だ。況してや実際に自分が助けられる訳でもないのに可哀想と声高に叫ぶのは一体何がしたいのかと思ってしまう。

ここまで考えるのは極端かもしれないが、一人一人が可哀想と感情を抱く時に一旦考え同情を懐疑的に考えることで「被害者という特権階級」の持つ権力は確実に弱体化する。
少なくとも自分はその破滅に向かう螺旋の外側に出ることが出来る。
僕は不幸マウントを見ても特段可哀想とは思わない。人によって不幸の尺度は異なるからだ。
お金持ちの子供が普通の子供みたいに過ごしたいと考える苦悩も、貧困層の子供が普通の子供みたいに過ごしたいと考える苦悩も、どちらがより不幸かなんて決めようがない。彼らの中では不幸はただ不幸でしかないのだ。
相手よりも不幸だというその概念がまず間違っている。
僕は自分が甘やかされるのが嫌いだ。
やっておくよと手を離れるくらいなら間違っている点を教えてほしい。僕にとって知ることと考えることは生きる事であり、その機会を奪われるのは苦痛でしかない。
そういう価値観を持っているが故に「人にされたら嫌なことはしない」という理由で同情はしない。
つまり、逆を言えば同情をする事を意図的に抑えることにより、甘やかされる事以外での柱を持てるのではないか、という理屈だ。

僕は別に同情をするなとか被害者として助けを求めるなとかそういう事を言っている訳ではない
辛くなることもあるだろうし助けてほしいこともあるだろう。
だが、その時の優しさはあくまで周りから好意で与えられている事を自覚すべきだ。被害者だから同情されるのが当たり前、ではない
周りの人間が優しさを持ち寄ってくれるのはあなたの事を気の毒に思うからだ。
当然自傷を繰り返せば繰り返すほどにその効力は意味を失っていく。
そうなってからでは遅いのだ。

勿論こんな文を読んだからと言って生き方を変えられるなら苦労はしない。
僕が逆にそういう考えになれないように。
ただまぁ自分や周りが何をしているのかを考えることにより見えてくるものはあるかもしれない。
今無意識にその中にいる人たちが少しでもその無益な階級争いから抜け出せたらいいなと思う。

以上、リコでした。

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