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「すごく良いことしたと思って、一晩寝て起きたら、世界がめちゃくちゃに炎上してた件」ーヱヴァンゲリヲンQの感想とシン・エヴァンゲリオンへの期待

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の公開日が2021年3月8日に決まりましたね。

私は以前の投稿で「天気の子」の感想と絡めてエヴァンゲリオンの完結編と庵野秀明監督への期待を書きました(https://note.com/fightforever55/n/n87dd0924a07b)。公開日決定を受けて、今回はその際の「エヴァの部分」を抜き出して、「ヱヴァンゲリヲンQ」の感想と、「シン・エヴァンゲリオン:||」に向けての期待を改めて書いてみたいと思います。

難解と言われている「ヱヴァQ」ですが、今回は私達の身近な部分に意外とリンクしているのではないか、いまの時代だからこそ、私達に深く共感出来る物語になっているのではないか、という切り口で書いてみたいと思います。前回の重複も多いですが、新しい考えも書くので、以前の投稿を読まれた方も、再度、私の与太話に付き合って頂けると、とても嬉しいです。

さて、始めましょう。まずは「ヱヴァンゲリヲンQを端的に表す一文」を皆さんに提示します。


以後の投稿は全て新劇場版Qまでのネタバレを含んでいるので、気になる方は注意願います。

あ、でも、公開前の投稿(2021年3月6日)ですので、勿論、シン・エヴァのネタバレは有りませんよ^_^

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1.「ヱヴァンゲリヲンQ」を端的に表す一文

「すごく良いことしたと思って、一晩寝て起きたら、世界がめちゃくちゃに炎上してた件」

ヱヴァQについては、上記の一文で、ほぼ内容を表すことが出来ると思うし、この一文を意識することで、私達に身近な物語として受け取ることが出来ると思う。

エヴァQではシンジくんが引き起こしてしまったニアサードインパクト後の崩壊した世界と、その世界を何とか元通りにしようとして果たせないシンジくんの姿が描かれる。

私達はアニメの主人公ではないから「世界を崩壊させる」ことなんて出来ないと思われるかもしれないし、現に私もそう思っていました。

何より、「エヴァ」の魅力の一つは、そこはかとなく漂う「日常っぽさ」だと思っていたし、我々が共感して物語に入り込む「売り」の部分だったのではないかと思っていたので、その点で少なくとも私はヱヴァQに共感できずに混乱しました。

でも、最近の世間の状況を見ていくこと、「意外と簡単に世界は『崩壊』させることが出来るのではないか」とも思うのですよ。

2.いとも簡単に終わる世界

たとえば、上記に挙げた一文はTwitterなどのSNSなどで使われている言い回しを使っている。

SNSの「炎上」については、下らない悪ふざけや無思慮などの批判されて然るべきことも有ると思うけれど、良かれと思ってやったこと、とか、自分の想いを吐露した時、にも起こり得ることではないかなと思う。

例えば、我々の多くは小学校に通っていた訳ですが、「××くんは○○ちゃんのことが好き」とか「××ちゃんと○○くんは怪しい(好き同士?)」なんて話で盛り上がったり、からかいあったり、イジったりとかをした事があると思う。

そういう場所で、もしも、「誰かを好き」という事を言ってしまった場合はやーいやーいとからかわれたり、色々、噂をされたりとか、場合によっては、イジメに近いことにもなるかもしれない。

「誰かが好き」という自分自身の想いを外に出す、つまり、個人の想いが外に出されることで、周りの自分に対する接し方はガラリと変わってしまう可能性がある。場合によっては、からかわれたり、いじめられたりという辛い想いもする可能性もある。

少なくとも「教室」の中、という狭いながらも一つの「世界」の有り様は、自分の行動で簡単に変わってしまう、ということは有り得るのではないでしょうか。

これは「綾波だけは絶対に助ける!」と綾波を助けたシンジくんの行動が、世界を変えてしまったことに、私はなんとなく似てるかな、と思っているのですよ。

ただ、この辺りは、小学生時代はそんなことなかったよ、という人もいると思うし、教室でからかわれたりいじめられることで、エヴァQみたいな世界が崩壊することにはならんやろ、とピンと来ない方もいらっしゃるかもと思う。

だから、ちょっと大きい話にしてしまうけど、例えば、第二次世界大戦中の独裁国家(何処かは言わない)みたいな国で、「隠していたけど、実は私は〇〇人なんです」と言ってしまったらどうなるだろう。

差別されるし、もしかしたら、殺されてしまうかもしれない。

戦時中のことだけではなく、世界には醜い差別が依然として沢山存在していて、それは私達の住む日本にも勿論有るし、世界中のどこの国、いつの時代にもそれは有る。

どこの国、いつの時代とは言わないが、たとえば、ある国では特定の人種は就くことが出来る仕事、行くことが出来る学校が制限されていたり、バスの座席や使うトイレも分けたりするような差別が行われていた。

その国では「いままで黙ってましたが、私は〇〇なんです」と宣言した瞬間に、その人は仕事、学校、バスの座席、使うトイレまで変わってしまうことになる。差別をされて、もしかしたら殺されるかもしれない。

これは許されない不当な人権侵害だが、実際にこういうことは世界中で行われてきた。

自分自身は何も変わっていないのに、自分の行動によって、まるで、世界が崩壊してしまったかのような辛い状態になる。

単に「私は〇〇が好きです」「自分は〇〇である」と言うだけで、いとも、簡単にこういう悲劇は起こってしまう。

3.世界の中心で愛を叫ぶ人に起こること

「私は〇〇が好きです」「自分は〇〇人である」と、自分らしく、自分の思う通りに生きるということは、とても素晴らしいことで、誰も否定することが出来ない生まれ持った権利ですが、実際の社会ではみんなが自分らしく生きるのを抑えて我慢している。

なんで、こんな不思議なことをしているかと言うと、我慢をやめた時に、上に書いた通りで、場合によっては教室でイジメられたり、とんでもなく不当な人権侵害を受けたり、で自分が破滅してしまう可能性が有るからだろう。

これは、自分自身が変わったためではなく、周りの人々の自分に対する「接し方」が悪い方向に変わったから起こる破滅だと思う。

私達は、「自分」を守るために、というか、自分の周りの人々の自分に対する「接し方」を守るために、「自分らしく生きることを我慢する」という戦いを続けているという見方もできるのではないだろうか。

そして、これも一つのものの見方なのですが、他人の自分に対する「接し方」というのは、複数の人がいるような、例えば国や教室において、また、二人きりの場合においても、その人の人生にとっては「世界」そのものと言っても良いのではないだろうか。

突然だけど、直径10kmの隕石が衝突する。

衝突による衝撃や衝突後の地球環境の変化やその影響に耐えられずに命に危険が及ぶだろう。

教室で「誰かを好き」と発言する。

教室での自分への「接し方」が悪い方向に変わってしまって、いじめに精神的に耐えられなくなってしまうかもしれない。

どちらも「命に影響を及ぼす周りの変化」と思う。

「地球の物理的な滅亡」も、「他人の自分に対する接し方の破滅」も、自分にとっての「世界の崩壊」と言うことが出来るのではないだろうか。

私達は「他人の自分に対する接し方」=「世界」を守る為の「自分を抑えて我慢する」という「戦い」を続けていて、その「戦い」をしくじった時に、「他人の自分に対する接し方」=「世界」は崩壊する。

「他人の自分に対する接し方」を守るための我慢をやめる、世界なんてどうなったって良い、自分の好きなようにしたい、自分が〇〇であることを隠すのは嫌だ、綾波だけは助ける!

と叫んだ瞬間に、「他人の自分に対する接し方」=「世界」は滅んでしまう。

4.誰もが「ガチ」に「本当」に「世界」を滅ぼすことができるようになったCloudとAirの時代

Cloudコンピューティングとか言われていますが、インターネットはもう、空気のように我々のあいだに張り巡らされていて、世界中のたくさんの人々はネット上で繋がっている。

私はクラウドとかエア、とかより「ユビキタス」という既に古臭い言葉が好きで、正に今がその時代と思う。

「人の口には戸を立てられない」と言うけれど、何かをカミングアウトすると、噂としてすぐに広まっていくことは、今も昔も変わらない。

しかし、まさに多くの人がネットで繋がった状態である「ユビキタス」社会では、良いこともあるけれど、周りの自分に対する接し方を決定的に変えてしまうような発言や行動も、即座に世界の人々に共有されていく。

シンジくんの精神状態や行動が、世界全体の命運に直結するという「エヴァンゲリオン」の構造は「セカイ系」なんて、言われているそうですね。

上に書いた「教室のイジメ」も、命に関わる「自分にとっての世界の崩壊」と捉えると大変なことですが、多くても4〜50人程度の人間関係の崩壊だろう。

それはそれで十分に大きなこととして捉えるとして、もしも、SNSなどで「炎上」してしまうと、自分の知人の範囲を超えて万単位で、人々の接し方が変わる。

それはもう既に「自分にとっての小さな世界」どころの話ではなくて、「ガチ」の、「本当」の、昔は隕石でも落ちない限り変わらなかった筈の「世界」だろう。

それが自分の行動で簡単に変わってしまう可能性が今の時代はあるということだ。

そうすると「セカイ系」というジャンルは、「ちょっと変わった視点で世界を捉えた少し不思議な感じがするファンタジー」というより、本当に「現実的に起こり得る社会の反映」となっているのではないだろうか。

綾波が好きだから助ける、自分の思う通りに行動したい、と世界を滅ぼしてしまったシンジくんと、良いことをしたい、自分らしく生きる為に発言したい、行動を起こしたい、と言ってSNS等で炎上をしてしまった人々に、私は類似を感じるのです(何度も言いますが、批判されて然るべきことをした人は違います)

なぜ庵野監督がこんな物語を作っているか、ということについて、私は何かの作品を語るときに、作者の「経緯」に触れるのは苦手なのですが、それでも、敢えて、「庵野監督のこれまでの経歴に基づく」のではないかな、と思っています。

庵野監督はエヴァを作り、社会現象化させるほどヒットさせ、その後のアニメや物語の世界を変えた訳で、つまり、庵野監督は、SNSなどが流行する何年も前から、実際に、自分の行動で、「世界を炎上させたことがある人」なのだと思う。

ストーリーを作り上げる際に、ピンチに陥った時や戦わねばならない時の心情や状況について、庵野監督がその時に感じたこと、思ったことが反映されているのかもしれない…というのが私の考えです。

つまり、エヴァは、少なくとも新劇ヱヴァQは「世界を炎上させたことがある人が作っている、世界が炎上した後の物語」と言えるのだと思います。

一昔前まで、世界を変えることができるのは、庵野さんとか宮崎駿監督とかそんな一握りの人しかいなくて、せいぜい、私達が変えることができるのは、教室や自分の生活圏内の範囲だったのかもしれない。

でも、今は上に述べたように、個人の発言が、Cloudとか Airとかになって世界中に行き渡って、人々に影響を与え、実際にその人の住む世界を変えるような事が起こっている。

そして、場合によっては、世界全体が自分にとって不都合なものになるような世界の「崩壊(炎上)」みたいなことも、今までよりも簡単に起こっているのではないだろうか。

と、いうことは、ヱヴァンゲリヲンは「孤高のクリエーターの内面を少年の戦いに反映させた物語」から、「私達の誰にとっても起こり得る世界の滅亡を描いた物語」に、今となっては変わっていると言えるのではないか。

つまり、、、

時代が庵野秀明に追いついたのです。

5.まごころを君にくれた人々について

「ヱヴァンゲリヲンQ」が「すごく良いことしたと思って、一晩寝て起きたら、世界がめちゃくちゃに炎上してた件」と例えられるとして主人公のシンジくんの行動を見ると、彼は真面目な少年と思うし、何より、私は同情を禁じ得ません。

確かにシンジくんは綾波を助けるためにニアサードインパクトを起こしてしまって、世界を崩壊させたかもしれないけれど、それは単に「自分らしく生きたい」と願い、行動しただけで、彼も(誰も)予想出来なかったことだ。

何より、シンジくんは元々、エヴァンゲリオンに乗るのが嫌だったのに、「お前しかできない、断ったら世界が崩壊する」と脅されて、ほぼ無理矢理乗せられてきた訳です。

それでも、何とか気持ちを前に向けて、TVでも、旧劇でも、序でも、破でも、逃げるけれど、自分の意思で戻ってきて、自分らしく生きるのを我慢して、自分以外の世界を守る為に、エヴァンゲリオンに乗ってきて、ようやく破のラストで、エヴァンゲリオンに乗って戦うことに意味を見出して、自分らしく生きることと結び付けることが出来たのだと思います。

私はヱヴァQの序盤、ヴンダーの艦橋で「僕もエヴァに乗って戦います」とシンジくんが言ってくれた時、もう本当に泣きそうになったんですよ…

良かった…そんなセリフを言ってくれるようになってくれるなんて…今まで我慢して戦わせてきてごめんね…ありがとう…。

そこで、ヱヴァQで行われたのは、ご存知の通りで、「あんた達、その態度はないでしょう?!」ということです。ミサトさん、あなた、「行きなさい、シンジくん!自分自身のために!」とか言ってたでしょう?(※)

(※)ちょっと脱線しますが、このミサトさんのセリフ、状況からして、シンジくんは聞いてないんじゃないかなと思います。破のあの時の状況、無線で会話出来る状態じゃなかったと思うし。それにシンジくんのことだから「だってあの時、ミサトさんも行きなさいって言ったじゃないですか!」とか言いそうじゃないですか?笑

ここの元ネルフのヴィレの人達の理解できない態度も、ヱヴァQが混乱する話である理由の一つかと思うのですが、この部分についても、割と私達に身近な反応、というか、自分もやってしまう反応かもしれないな、と最近は思っています。

やはり、SNSとかの話になるのですが、時々、カミングアウトの相談の話を見る。例えば「私は実は〇〇なんですが、みんなには黙っています。どうしたら良いだろう。自分を偽るのが辛い」みたいな。

その時の他人の反応としては「自分を偽るのは辞めた方が良い。自分らしく生きなさい」みたいなのが多くて、要は「全部、ぶちまけちゃいなよ」系が多いかな、と個人的には思っている。

SNSに限らずに、自分が触れてきたエンタメというものは、抑圧されている個性の解放とか、自分らしく生きることの尊さみたいなことが重要視されていて、それについては私も無条件に良いことだと思います。

ヱヴァ破のラストで綾波だけは助けるとシンジくんが言ってくれた時は感動したし、何より私もミサトさんみたいに「世界のことなんてどうでも良いから、自分らしく行け!」と思ったのです。

ミサトさんがあの時、「行きなさい」と言ったのは、シンジくんに自分らしく生きることを抑えさせ続けてきたのは自分だし、そのことでシンジくんが深く傷ついていることを、最も知っていたからなんでしょう(俺たちも知ってるぜ!)

ただ、いとも簡単に「ガチ」の「本当」の「世界」を終わらせることが出来る時代に「周りの接し方が変わることを考えるな。自分らしく生きろ」ということは、果たして幸せなことなのかということも、考えないといけないのかな、と思うのですよ。

だって、「私は〇〇です」と言った瞬間に、その人は学校でいじめられかもしれないし、就職も出来なくなるかもしれないし、使えるトイレも変わるかもしれないんだから。場合によっては隕石落下級の世界の崩壊の危険も有る。

「周りの接し方が変わることを考えるな。自分らしく生きろ」という一見、カッコ良くて今までの社会では尊ばれるアドバイスは、端的に言うと、「世界が崩壊する」可能性が有るにも関わらず、「世界を変えろ」と強要する考え方と言えるのかもしれない。

安易に「全部、ぶちまけちゃいなよ」と言ってしまって、その後の責任は誰が取るのか。

助言をした人は「良いことをした」と思うのでしょう。カッコ良いことをしたと思って、満足するのでしょう。でも、助言を受けて実際に自分の思う通りにして、他人の自分に対する接し方=世界を崩壊させてしまった人に降りかかる不幸は、誰が被るのか、というと、辛い思いをしている人自身な訳です。

さらに言うと、不幸はカミングアウトした人自身だけでなく、他の人にも降りかかることがあると思います。許せない差別ですが、「親類に〇〇がいるから、就職ができなくなった」とか、「就学ができなくなった」とかそういうことです。

もし、S N Sで身近な人が炎上して、自分自身にも不幸が降りかかってきたとしたら、「貴方はもう何もTweetしないで」くらいは言うのではないでしょうか。

そう言う意味で、ヴィレの人たちがシンジくんに冷たく当たるのは、一応は納得できるかな、と私は思っています。

一方で私はヴィレの人たちの態度がちょっと嫌なのです。

無理矢理、シンジくんにお前は才能が有るんだから俺たちのために戦えと言って極限まで追い詰めておいて、ちょっとシンジくんが望み通りに生きようとしたら、自分達にとんでもない不幸が襲いかかってきたので敵視する。

あんたら、ちょっと、自分のことを棚に上げて、勝手すぎへんか、と個人的には思います。

あと、何も知らないうちに人生がめちゃくちゃになった鈴原くんの妹は「エヴァにだけは乗らんといてくださいよ(Twitterにログインだけはせんといてくださいよ)」と言っていた訳ですが、おそらく、ヴィレの人々は彼女含む新世代の人々に、自分たちの罪、つまり、シンジくんが自分らしく生きることを抑えて戦ってくれていたこととか、良い格好してシンジくんをそそのかしちゃったことを隠しているんじゃないかと想像しています。

「皆が不幸なのは、あいつがエヴァでサードインパクトを起こしたからだ(あいつがTwitterで自分は〇〇とか要らん事をtweetしたからだ)」くらいしか話をしてないのではないでしょうか。

6.新劇場版ヱヴァンゲリヲン序破Qはどんな話か

上に書いた事をまとめていくと、ヱヴァンゲリヲン新劇場版が今まで語ってきたことが見えてくるのではないかな、と思う。

つまりこんな感じです。

「自分以外の人々の世界を守ために、自分らしく生きることを抑えて戦ってきた少年が、ついに自分らしく生きることを選択するが、それによって、自分以外の世界は崩壊してしまう」

これが、序・破、そしてQが始まるまでの物語。

そして、Qでは何が描かれているのは何かというとこういうことだろう。

「崩壊してしまった世界を元通りにしようとするが、結局、それは叶わず、さらには、その思いを利用されて事態をさらに悪化させてしまう少年の姿」

ヱヴァQのアイキャッチはこうでした。

YOU CAN(NOT) REDO.

つまり、「君はやり直すことが出来る(出来ない)」ということです。

ほとんど冗談ですが、シンジくんは、「炎上してしまった該当Tweetを削除して、火に油を注いでしまったツイ主」みたいな感覚で見れば良いのではないかな、と思ったりもします。

Twitterの炎上に限らず、一回言ってしまったこと、やってしまったことを無かったことにしようとして、色々ともがくけれども、結局はどうにもならず、逆に事態を悪化させてしまう、というのは我々も人生で一度ならず経験することですよね。

劇中、アスカは世界を元通りにしようとするシンジくんを「ガキシンジ」と呼ぶし、メガネっ娘で声が坂本真綾さんなのでファンのマリもシンジくんに「世間を知りな!」と叱るシーンがある。

私はそのどちらのセリフにもずっと違和感を覚えてたのですが、もしも、自分がミスって言ってしまったこと、やってしまったことを無かったことにしようとして右往左往してたら、そんな子供っぽいことするな、とか、世間知らずなことをするな、とか言われるかもしれないな、と納得するところです。

またヱヴァQでは冬月先生が将棋倒しをしながら「時と同じく世界に可逆性は無いからな」と言うシーンが有る。

これは庵野監督がズバリ言いたいことを言っているのではないだろうか。冬月先生、あんまり、新劇では出番ないなと思ってましたが、新劇の根幹に関わる、めちゃくちゃ重要な事を言ってるじゃないですか、と…

そして、可逆性の無い世界を無理矢理に戻そうとしているのは、シンジくんと彼のお父さんのゲンドウくんな訳で、シンジくんは挫折してしまいましたが、ゲンドウくんの方は紆余曲折ありながらも進行中のようで、その成否や如何に、というのがQで描かれたことなのだと思います。

と、いうことで、ヱヴァQでシンジくんの姿を通して描れているのは、

「自分の行動は簡単に世界を変えて、意図せず自分や周りの人間を不幸にするかもしれない。そして、それを無かったことにしようといくらもがいても、無かったことには出来ない」=YOU CAN(NOT) REDO.

という、身も蓋もない悲しい真実なのではないか、というのが私の考えです。

と、いう感じでようやくヱヴァQはどんな話か、ということを書いたところで、最後にヱヴァQの登場人物の一人の、何を言ってるかよくわからない最期のセリフを引用しつつ、次項でシン・エヴァンゲリオンに対する私の期待を書いてみたいと思います。

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魂は消えても願いと呪いはこの世界に残る。

意思は情報として世界を伝い、変えていく。

いつか自分自身のことも書き換えていくんだ。

シンジくんは安らぎと自分の場所を見つければ良い。

縁が君を導くだろう…

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7.「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」に期待すること

庵野監督はヱヴァンゲリヲンQで

「自分らしく行動したことで崩壊してしまう世界」

「世界(周りの自分に対する接し方)が崩壊することで自らだけでなく周りにも降りかかる不幸」

「自分らしく生きろと言ったのに、我が身に不幸が降りかかると、敵視し攻撃さえする無責任な他人」

「やり直したいと願う強い気持ちを利用する悪人」

「世界を元に戻そうとしても、それは叶えられないという残酷な真実」

をシンジくんの行動を通して、容赦なく描いた。

もしも、今までの他のアニメならば「自分らしく生きろ」であとは気合いで何とかなる、とかでみんながハッピーエンドになったのだと思う。

ヱヴァ破で、綾波を助け出して、そのまま「良かった良かった」で終わり、「自分らしく我慢せずに生きることが出来るようになったシンジくんが、悪い奴らを倒していく」という物語もあり得たのだと思う。

むしろ、私達がヱヴァンゲリヲンQで望んでいたのはそのような物語だったのだろう。

でも、ヱヴァQはそうはならなかった。

また「経緯」を語ることの誘惑に負けてしまうのですが、これは、もしかしたら、エヴァをヒットさせた庵野監督に起こったことなのではないかな、と妄想してしまいます。

エヴァを社会現象になるほどヒットさせ、世界を変えて、つまり、周りの自分に対する接し方が一変してしまって、良いこともあったのでしょうが、嫌なことや辛いこともたくさんあったのではないでしょうか。

もしかしたら、「全てを無しにしてやり直したい」と思って実際にやろうとしたこともあるのかもしれない。

その結果、ヱヴァQのシンジくんと同じく「やり直す」ということは、「ガキ」で「世間を知らない」行動だったとわかったのかな、とか。

そういう理由で、ヱヴァQでは、「やり直すこと」に意味は無い、という事が徹底的に、描かれたのではないか、と私は妄想しています。

だから、私はシン・エヴァでは、その後に庵野監督が得たもの、つまり「やり直すことに意味が無いので有れば、何に意味が有るのか」という問いの答えが描かれていて欲しいと思います。

何度も書きますが、「炎上」には非難されて然るべき行動によって起こされるものがある。

しかし、シンジくんはそんな事をしていないと、私は思う。

敵に囚われてしまった好きな女の子を、自分や世界がどうなっても構わないから助けたいと願い、行動することは非難されて然るべきことではないと思う。

「世界なんてどうなったって良い」はちょっと酷い発言かもしれないけれど、それまでの「世界」はシンジくんに辛いことばかりを強制させてきた訳ですよ。

それなのに、シンジくんは時に逃げ出したりもしつつ、最終的には帰ってきて、自分を傷付けることしかしない「世界」を、肉体的にも精神的にもボロボロになりながら、救ってきた。

だから、私達は破のラストでミサトさんと一緒に「行きなさいシンジくん!自分自身のために!」と応援出来たのだと思う。今まで頑張ってきたんだから、もう、世界のことなんて考えずに、お前と綾波だけでも幸せになれよ、と皆さんも思ったでしょう?

非難されるべきでは無い立派な良い行いでも、「世界」は崩壊してしまう事がある。

それは、上に書いたように、最早、アニメの中や有名人に特有の出来事ではなくて、私達にとっても身近に起こり得る恐ろしい現実で、しかも、一度やってしまったことは、元に戻すことはできない。

では、私達はどうすれば良いのだろう。世界、他人の自分に対する接し方を守るために、自分らしく生きることを我慢し続けないといけないのか。

それとも、自分らしく生きる方法が、何か残されているのか。

庵野監督が、シンジくんや彼の周りの人々が辿り着く場所に、その答えを用意してくれていれば、良いなと思っています。

願わくば、「彼」が最期に遺した言葉のように、そこには安らぎがあり、「自分はここに居ても良い」と思える自分の場所であって欲しいな、とも思うのですよ。

ま、旧劇みたいな感じでも良いのですが、これだけ待たせたんだから、前とは違う事を期待するものです。

あとは、色々と謎的なものが解ければ良いなぁ、と思いますが、ぐだぐだと説明とかは無いだろうし、観た後に自分なりに考えるしかないでしょうな!

8.おまけの予想

ここからは、シン・エヴァの根拠の無い予想です^_^

「経緯」で作品を評価することの誘惑にまたまた負けてしまうのですが…

庵野監督の奥さんの安野モヨコさんが、スタジオカラーの10周年を記念して公開した「大きなカブ(株)」というWeb漫画がある(公開されてますよ)

そこには、スタジオ・カラーという自分の会社を作り、それを徐々に大きくさせながらも、ヱヴァQの製作で精神をやられてしまって創作が出来なくなってしまった庵野監督が描かれている。

創作が出来なくなってしまった庵野監督は、少しずつイベントや周りの人の創作物に触れながら、急に別の場所で創作を始め、「シン・ゴジラ」という大作を完成させる。

そして、『少しだけ「ホッ」としたように見えました』(安野モヨコ「大きなカブ(株)」より)という状態になった庵野監督は、遂に元居た自分の場所でシン・エヴァを作る事に取り掛かる…といった感じの話。

私はシン・エヴァもこんな感じなら良いな、と思っている。

「やり直すこと(redo)」に意味は無いのは何故かというと、おそらく、それもなんらかのdoでしかないからだ。

Twitterの発言を削除しても、その「削除」という行為(do)が、世界を変えて、また別の炎上を産んでしまう。

「やり直す(redo)」ことも結局、何かを「やる(do)」、つまり、世界を変えていく行為の一つということでしかない、ということだろう。「世界に可逆性は無い」とは、つまり、「世界は変わっていくことしかしない」という事だ。

シンジくんは非難されて然るべきことを何もしていない(というと、言い過ぎかもしれないけど、何度も言いますが、我々も「行きなさい!」と破のラストで思ったので同罪^_^)のだから、彼が自分自身の決意でやったdoの結果が、良い結末を迎えてくれたら良いと思う。

だって、好きな女の子を、敵から助けようとした結果が、世界を不幸にしかしない、なんて結末は、あまりにも悲し過ぎませんか?

起こった結果を元に戻そうとしたことはガキっぽくて、世間知らずで、未熟な行為だったかもしれないけど、彼は14歳です。自分の14歳の時のことを思い出しましょうよ。真面目な男子ですよ、彼は。

彼の自分自身で決めたdo(advanceと言った方が良いのかな)も、やろうとして果たせなかったdo(redo)も、世界に影響を与えて、世界を変えていった筈だ。

自分自身には、何かをやる(do)しか出来ないのであれば、「シン・ゴジラ」を作って、またシン・エヴァを作ることが出来る様になった庵野監督のように、やはり、doによって安らぎや自分の場所を見つけるか、作るしかないのではないだろうか。

また、シンジくんだけでなくて、アスカやレイ、マリやミサトさんやヴィレや、ゲンドウくんや冬月先生も、必死に何かをdoしてるんだから、その結末が良い結果になって欲しいと思う。何しろ、25年以上の付き合いやしね。

彼ら、彼女らのadvanceも、redoも、無駄ではなくて、「自分自身で決めて行動する」「自分らしく生きる」というdoの結末が、「少しだけ「ホッ」としたように見えました」であることを願って止まないのです。

勿論、25年間、心身共にボロボロになりながらもエヴァンゲリオンを私達に届けてくれた庵野監督にも安らぎが訪れて、また「少しだけ「ホッ」としたように見えました」になって欲しい。

シン・エヴァンゲリオン、楽しみにしてますよ。

といった感じで私の「ヱヴァンゲリヲンQ」の感想と、「シン・エヴァンゲリオン:||」に向けての期待を終わります。長々と読んで頂き本当にありがとうございました。

観た後に、また感想とか思ったこと書きますね〜^_^

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