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早よ早よと急いても死ねぬ晩夏かな

 8月ももう終わりです。
 こんな時期にも鳴いている遅咲きならぬ遅鳴き蝉――関西(東海か?)以南ではまだまだ盛りでしょうが――の声は、何だか「早う早う」と生き急いでいるように聞こえます。
 そして、お子さんのいるお家の中では、「早う早う」と急き立てる親御さんと、「早う早う(終ってくれ)」と泣きべそをかきながら宿題をしているお子さんがたくさんいることかと思います。
 「ああ、死にそう!」「終らない……しくしく……死にたい」
 宿題をやれどもられども終わりが見えず、ジ・エンドな泣き言をエンドレスで垂れ流している子もいそうです。
 こんなことを書くと、私の子供時代がそうだったんだろうと言われそうですが、違うんですよ。真逆。宿題は、自由研究と図画工作系、作文系、日記が宿題で出ているときは日記以外は、一週間ぐらいでさっさと片付け、『夏休みの友』なんて機械的なものはそれこそ3日ぐらいで突貫工事的に終らせてしまってました。もう「うおおぉぉぉー‼」と吼える声が聞こえそうな勢いでね。だって、あとは後顧の憂い無く夏休みを遊び倒したいんだもの。北国の夏休みは短いから、存分に遊び倒すためには、宿題なんかでもたもたしてられない。
 自由研究を残しているのは、好物や旨いものは後に残してじっくりと味わうがごとく、好き勝手に愉しむためです。だった、自由なんだよ。何やったって良いんだよ。宿題ではあったが、むしろ大好物。ジュルリと舌なめずりするかのように嬉々としてやっとりました。図画も作文系も好きだったので苦にならなかった。嬉々としてやっていた。問題は工作系。完膚なきまでに不器用なので、こればかりは毎年、泣き言が入っていた。早くやっちまえばいいのだが、やっぱりグズグズした。それと早く作りあげてしまうと、幼い兄弟に学校が始まる前に破壊されてしまう危険があったため、あまり早くに片付けられなかった。
 そんな状態であったから、8月を待たずに「ひゃっはー!」と遊び回り出していた。といっても、半分以上はのんべんだらりと寝ていたのだが……。
このやり方は、基本的には合理的であった。だが、問題も一つあった。それは休みの終盤になると、友だちがみな宿題のために引きこもってしまい、遊んでくれる子がいなくなってしまうことであった。それはそれで「しくしく……」。

 話は変わる。
 人生を四季で表すと、春は生まれてから成人までの育ち盛りな幼年期、思春期。夏は青年期。秋は働き盛りの壮年期(中年期ともいう)。冬は晩年。
晩夏なら30代からアラフォーな感じかな。季節の移り変わりというのは、今日まで春で明日から夏といきなり変わるわけではなく、グラデーションで緩急つけて行きつ戻りつしながら移っていくように、人生の季節というのも、はっきりと境界線があるわけではなく、あいまいである。人によっては、20代で晩夏のイメージがある人もいれば40代の後半という人もいるだろう。「俺は(私は)死ぬまで真夏」なんて言う人もいなくもない。たぶん。
 いずれにせよ、晩夏は、夏の終わりと言っても、人生の終わり――死期を意識し出す晩冬の季節にはまだほど遠い。理由や原因は何にせよ、世間一般の感覚でいうところの普通に生きている分には、事故や病気などで突発的に(あるいは、あまり公に書きたくはないが自発的に)死ぬことがない限り、早う死にたいと思っても、まだ先は長い。
 生き急ぐかのように必死こいて泣いている晩夏の蝉のように、夏が終ればぷっつりと何もかもが終るわけではない。
 だが、盛夏の勢いで「間違えちゃった」感ありありのひと夏の恋はさっさと終らせたい。なかったことにしたい。なんて人もいるかもしれない。それはやっぱりある意味、早く「成仏」させて、実(じつ)のある人生を生きるきかもね。

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