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【僕のクリスマス嫌いについて】

僕にとって、クリスマスイブとクリスマスとは一年の中で最も悲しく狭苦しい思いをする、地獄のような2日間だ。

それ以前に、そもそも11月とか12月の暗く陰鬱で、神経がぐちゃぐちゃになっていく季節感が好きではない。

例えば地理の側面から人を見てみても、北国のような寒い地方では鬱病を発症しやすかったり、なにかと精神が下向きになることが多く、反対に温かい地域においては、朗らかで陽気な気質になりやすいと聞いたことがある。


とにもかくにも、暗く寒いこの季節というのは、人のこころを厳しくいじめるものなのだ。


僕は理屈を捏ねる性格だから、自分の気持ちを素直に表現できない節があるものの、結局は寂しいのだろう。

「寂しい」などという安直な表現が、文章の上でどんな価値をもたらすかはわからないが、己のこころを晒すことのできない文学になんの価値があろうものか。

この寂しさは、恋人云々の寂しさではない。

僕は過去、何度も恋人と一緒にクリスマスを過ごしたこともあるし、幸福の情熱をこの身に享受したこともたしかにある。

しかし、なんとも言えない家族の寂しさ。

物心つく前には卒業していた家族の団欒のクリスマス。

周りでは当たり前のように語られる家族との団欒の時間。


一昔前に「ケーキの切れない非行少年たち」という本が流行した。

タイトルからしてインパクトのあるものであるが、この題名の意味するものは「発達障害者にはホールケーキを三等分するという簡単な作業ができない知的レベルの人が多い」というものである。

しかしこれにはその他にも「発達障害者の過ごす家庭ではホールケーキを三等分するという“当たり前”のイベントを行わないケースも少なくないため、当事者は慣れてないケーキを三等分するという作業に戸惑ってしまう」という観点からの意味合いも込められているらしい。

僕自身も発達障害者であり、僕の場合はまさにその“当たり前”のイベントを家庭で体験してこなかった人間である。


さて、ところで話は戻って、僕はこの“当たり前”こそが人を孤独へ追いやるものだと考えている。

「当たり前でない家庭」「当たり前でない振る舞い」「当たり前でない発言」「当たり前でない行い」

人は口を揃えて「当たり前なんてないんだよ」などというものであるが、「当たり前」というものは確かにある。

当たり前でない人間であった僕には、慰めのための言葉遊びなどには靡かぬ人格を持つに至るに十分な「肌で感じてきた経験」がある。


「当たり前」を人が本当に追い求めないのであれば、クリスマスという文化がこんなにも商業的に成功を収め続けるはずはない。

普段恋愛に興味のないような人間がこの時ばかりはやたらと卑屈になってしまうのも、「恋人がいる」という「当たり前」の幻想によって自ら孤独を生み出しているからだろう。


「当たり前」はタチが悪い。

なぜなら「当たり前でないもの」は「恥ずかしいもの」という風潮を人の心に蔓延らせ、焦燥感と劣等感から我先に抜け出すための抑圧的なレースを人々に強いることになるからである。


僕は「当たり前」の人間ではない。

「当たり前なんてないんだよ」と言われても、僕は世の人が思う当たり前の人の人生を送ってはいない。


それでも僕は、僕を肯定する。

例えこの人生とこの孤独を無限に送ることとなっても僕はこの人生を肯定し続ける。

孤独も心から向き合うことで、今は何よりの相棒となった。

極寒の季節 

苦悩の薪には美学の火を灯し続ける。


君よ、死ぬな。

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