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出る杭は打たれて強くなる

出る杭は打たれる、ということわざが日本にはある。


最近、このことわざが頭をよぎる瞬間がよくある

ああ、日本って面白いくらいに打ってるなーって。


自分がその中にいて打たれてる時は辛かったはずなのだけど、日本から離れて客観的に日本を眺めているとなかなかに面白い。



ポンポンポポン。ポポポンポン。
ポカポンポカポンポポポンポン。


もぐら叩きのように、テンポ良く。
少しでも飛び出したもぐらを、一瞬のうちにハンマーで叩く。いかに早く叩き潰せるか競い合うゲーム。
「出る杭を打とう」ゲームの世界大会があったら、きっと日本はぶっちぎりで優勝だと思う。



「出る杭は打たれる」はネガティブな意味で使われることが多い。 

そんな日本の風潮が、個人主義的な時代の流れと反発して「もっと自分らしく生きよう」なんて言葉があちこちから聞こえるようになってきた今日この頃。



かくいう私も「自分らしく生きる教育」を求めて北欧留学を決めた人間の1人だ。



フィンランド、と聞くと自由なイメージがあるかもしれない。
特に教育においては。


一人ひとりに合わせた教育。
ひとり親でも無理なく子育てできる環境。
尊重され、のびのび育つ子どもたち。
いくつになっても無料で学べる生涯教育。



同調圧力まみれの日本から見たら、喉から手が出るくらいにほしいものをたくさん持ってる国だと思う。



でも。

21年間日本で生きてきた典型的な日本人の私が、外国人として4ヶ月フィンランドに住んでて、思ってしまったことがある。


「なんか生ぬるいな」



出る杭は打たれるということは、超絶ポジティブに考えれば打たれれば打たれるほど打たれ強くなれる、ということができると思う。



「出る杭は打たれる」社会で、少しでも出ようとしたら、猛烈な同調圧力と戦うことになるから。それでも戦い続けるためには、強烈な自己を持つことが大切で、それは打たれても打たれても主張し続けることでだんだんと輪郭を帯びてくるもの。




一度頭の中をスッキリさせて、考えてみてほしい。

何か、自分が心の底からやりたいと思ったことがあったとしよう。
しかし、あなたのやりたいことは社会の常識から外れている。
当然、周りはみんな反対してくるだろう。
それでも、あなたはどうしてもそれがやりたい。
だから、なんとか周りを説得しようとする。



やりたいことをやろうとしたら、同時にあなたを飲み込もうとしてくる多数の敵を打ち負かす必要があるのだ。



そして、全ての敵を倒せた時、ようやくあなたは自由を手に入れることができる。おめでとう。



当然、うまく行くことばかりではないだろう。

ようやくやりたいことを実現するのに何年、何十年もかかったり、打たれ疲れて志半ばでもういいやって諦めてしまったり。


それでも、周りから反対される中で「どうして自分はこれをやりたいのか?」「果たして本当に人生をかけてやりたいことなのだろうか?」「これをやることで周りに何を与えられるだろう?」と自問自答し続けることは、自分がその後ようやくスタートラインに立ったときに、簡単にヘコたれない鋼の精神と情熱を持つための武器になると思うのだ。


「出る杭は打たれる」社会ならではの、秘密兵器、只今参上。




日本の人口1億2700万人に対して、フィンランドの人口550万人。日本にはフィンランドの23倍の人がいる。


人口が少ないから、必然的に一人ひとりの意見が政治にも組織運営にも反映されやすかったりする。というか、フィンランドは人口が少ない分市民一人ひとりに求めるものが多いのだと思う。だから一人ひとりの市民を育てるのにお金をかけて、それぞれのポテンシャルができる限り発揮されるように努めているのだという気がする。そうじゃないと国が回らないから。



そういう意味で、フィンランドの教育はより良いフィンランド人を育てるためによくできた制度だなぁと思う。



でもね。その社会で上手く生きること=世界で上手く生きること ではない。



フィンランドで教育を受けた人たちは、フィンランド社会では上手く生きていくことができると思う。
でも、フィンランド社会の中の個人がぽんとフィンランド社会の外に出たときに、その人どうなるんだろうなぁって思う。



果たしてこの過酷な世界で生き抜くことができるのだろうか。



まあその点は日本も一緒だけど。



フィリピンの農村で手洗いで洗濯したとき、
「あなた女の子なのに洗濯もできないの?」
と言われたときのショック、

そして私から洗濯物を奪い取り一瞬で器用に服を洗い上げた現地のおばあちゃんの逞しさを、今でも時々思い出す。




生きる力って何なんだろうな。

社会が優しいということは、無力な個人を作ることに繋がるのではないかな、と思ってしまう。

過保護な親の子が、何もできないまま大人になってしまうのと同じように、面倒見の良い社会の中の個人はどんどん無力になっていく。



フィンランドの子どもたちは、皿の洗い方も知らないのではないか。
全部、台所に設置された大型食洗機がやってくれちゃうから。



社会がどんどん個人に優しくなるたびに、個人から人間らしさを奪っていくように思えて、私にはそれがうっすら怖い。



だから最近、フィンランドの表面だけを取り上げるメディア、そしてそれを見て「いいないいな」って言ってる日本人を見るととても複雑な気持ちになる。



もっと自分の頭で考えようよ。
隣の芝生は永遠に青いままよ。



あれ?日本の「出る杭は打たれる」社会も、使いようによっては武器になるよ、ってまとめようと思ったのになんか話それてしまった。




問うべきものはもっと深いところにあるはずだと思いながら、それが何なのかわからずもやもやしている今日この頃です。

決してフィンランドを否定しているわけではなく、ただ純粋に人間がこれから向かっていく先ってどこなんだろう〜っていうお話でした。




ブルガリアからパリに向かう飛行機の中にて。

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