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ダサいのは嫌だ、ダサいのは嫌だ、ダサいのは嫌だ!


2023年2月8日(水)朝の6:00になりました。

フルマラソンまで2週間を切りました。

どうも、高倉大希です。




チームでひとつのプロジェクトを動かすときは、はじめにゴールのイメージを共有します。

実際にプロジェクトを実行する現場に足を運んでみたり、ロールモデルをさがしてみたり。

「ここでこのクオリティのものをアウトプットするぞ!」が、メンバー全員でそろっている状態が出発点です。


もし、ここがそろっていなければ、それぞれの努力のベクトルが分散してしまいます。

どれだけ頑張ったとしても、個々の努力が無駄になってしまうかもしれません。


ゴールのイメージさえ共有できれば、あとはどこまでこだわり切れるかの勝負になります。

プレゼン資料の1ミリのズレ、発表時の間のとり方。

細かいところにまで気を回せるかどうかが、アウトプットのクオリティを左右します。


仕事柄、中高生のプロジェクトを伴走することが多いのですが、その中でひとつ気がついたことがありました。

それは「こういう状態を目指そう」という声かけよりも「こういう状態はダサイよね」という声かけの方がアクションに繋がりやすいということです。


暴走族には「カッコいい」というイメージがあり、それが少年たちの憧れの感情を刺激し、メンバーの自尊心を満たしてきたが、「珍走団」という思わず吹き出すようなネーミングによって、彼らを滑稽化し、社会的に恥ずかしい存在であることを印象づけたのである。

平野啓一郎(2019)『「カッコいい」とは何か」講談社


たとえば、チームでひとつの発表を行う場合、「立ち位置」という変数が発生します。

もちろん、大人が細かく「あなたはここで、あなたはここ!」と指示を出すこともできます。

しかしそれでは、大人が決めたとおりに子どもを動かす発表になってしまいます。


子どもたち自身に考えさせるためには、「立ち位置がバラバラな発表はやっぱりダサイよね」が必要です。

これさえ共有しておけば、発表者は自分たちで立ち位置を考えるようになっていきます。


基本的に「クオリティを上げる」ということは、「この状態はダサい」という基準を引き上げていくことと同義です。

これだとさすがにカッコ悪い。これだとさすがに気持ちわるい。

この感覚が研ぎ澄まされていけばいくほど、スタンダードが上がっていきます。



先日、こんな記事を書きました。

「生徒の自主性を尊重するという言葉に甘んじて、何もしないのはどうなんだ」という記事です。


私たちの日常では、普通であることこそが一種の安心となっている。その意味では、「カッコいい」人間になりたい、という積極的な願望を抱いている人より、せめて、「カッコ悪い」人間ではいたくない、という程度の意識の人の方が、遥かに多いだろう。

平野啓一郎(2019)『「カッコいい」とは何か」講談社


ダサいのは嫌だ、ダサいのは嫌だ、ダサいのは嫌だ!

「ダサい状態」が共有されると、チームは前向きに動きはじめます。


この note にスキを押さないのは、ダサいです。

フォローしないのは、もっとダサいと思います。





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