INFJ は「デザイン」ではなく「アート」である

INFJ として幅広い人に受け入れてもらいたい。しかし私の考えていることはどうも大衆性、一般性がないように思える。どうしたらいいのか。

そんな悩みを軽くしてくれる動画に出会った。

INFJ の生存戦略として、 INFJ は「デザイン」ではなく「アート」である、とのことだ。詳しくは動画を観ていただきたいが、これはすごく腑に落ちる内容の考え方だった。

デザイナーとアーティストの違い

私がデザイナーを生業にしているせいもあると思うが、デザイナーというのは「情報を設計し、まとめてわかりやすく提示する」という職業だと認識している。しかしこれがアーティストになると、「自分自身の感性を外部に表現する人」といった意味合いになると思う。

実際に、良いデザイナーの話としてこの界隈で聞くのは、「デザインに自分のエゴを出しすぎず、クライアントが達成したい目的を達成できるように表現したもの」だ。

そこにいわゆる「アーティスト」と呼ばれる人々のような、「自分自身の内面を表現したもの」というような作品は、独りよがりな表現になり一般性が低くなってしまうため、良いデザインとして評価されないことが多い。

それは、クライアントが達成したい目的は「デザインを通じて利益を上げること」であって、「デザイナー(≠アーティスト)の個性を宣伝すること」ではないからだ。もちろん、優れたデザイナー、例えば佐藤可士和氏等は、自分自身のデザインテイストというのは主張しなくても如実に現れてしまうものだが。

私も(今もまだ勉強の途中だが)20代の頃は、この「自分自身が好きだと思うデザイン」と「クライアントが成果を達成するために表現するデザイン」の間で板挟みになったこともあった。

今では過去の経験から、いわゆる「仕事のためのデザイン」は割り切れて考えられるようになったが、この例からもわかるように、デザイナーは「対象にわかりやすいように情報を提示する」ことが仕事だ。

一方の「アーティスト」は、先にも書いたように、よく「独特な感性の作品」とも言われるような、その人自身の内面を表現した作品を作ることが活動の基盤だろう。

そこには、「わかる人にだけわかれば良い、全員に受け入れられて収入を得ようと思っていない」という考えがあるように思う。もちろん、大衆性も意識したアーティストという方もいらっしゃると思うが、私や多くの人は、前者の考えで活動されておられる方を想像するだろう。

INFJ の考えは大衆に理解されることは少ないと理解する

自分の考えが多くの人々に受け入れられてほしいと思ってしまう。しかし残念ながらそれは難しいし不可能に近い。

私自身、「自分が本当に考えていることは、多くの人には受け入れられづらい考えだろうな」という自覚はある。しかし、 INFJ としてか、私個人の特性かはわからないが、「相手のことは理解したいし、相手からも理解してほしい」という思いがある。承認欲求につながる考えかもしれない。

ただ INFJ の理想主義的な思想や内向直観能力が働いた考えは、多くの人に理解されづらい。そこで先の発想の転換である。 INFJ は自分を「デザイナー」として自己認識するのではなく、「アーティスト」として考えれば良いのだ。

もちろん、「デザイナー」と「アーティスト」であれば、「アーティスト」のほうが全体から受け入れられる人の数は少ないと思う。他の現実的な SF タイプや ST タイプが羨ましくもなるが、どうせ一般的な考えから離れてしまいがちな我々 INFJ だ。少数派であっても「アーティスト」としての生き方を選んだ方が、自分自身の思考と言動が一致し、「自分を偽って生きている」という不快感、自己否定的な悪影響は少なくなるのではないか。

他に考えたこともあるので、次から雑多に書き出してみる。

どんな人も好かれたいし好きになりたい。たとえそれが自分が嫌いな人でも

先に書いた内容と重なってしまうが、 INFJ は「人と人とは理解し合える」という根拠のない思い込みがあると思う、私がそうなのだが。

自分自身が他者を無条件で信じている、どんなに嫌いな人でも心の奥底では 1% でも信じる心が残っているために、他者も同様に「なんとかすればお互いに理解し合える関係を育める」と考えていると思ってしまう。

しかしそれこそが INFJ が理想主義者たる所以で、ほとんどの場合、全ての人々と無条件に相互理解し合える、ということはほぼ不可能に近い。だからこそ INFJ は(自分で勝手に)傷つき、裏切られたと思ってしまう。

「ドアスラム」は全人類を嫌いにならないための最後の砦ではないか

平等愛、博愛主義であろう INFJ は、全人類を平等に愛したい、と考えているのではないか。

いわゆる「ドアスラム」を行うのも、自分自身が 100% 相手を嫌いになりたくないからと、ギリギリ最後の 1% だけ、相手を信じる気持ち、そんな自分自身を信じる気持ち、自分自身を裏切って落胆しないように心の余地を残すためにドアスラムをするのかもしれない。

アートとして自分自身を表現し、少しでも生きやすく

「生きづらい自分こそが自分自身を構成するアイデンティティだ」と思わなくもないが、それでも同じ生きていくなら、少しでも生きやすい方がいい。

そう考えるなら、「自分は自分自身を表現するアーティストとして生きる」と認識すれば、多少は生きやすくなるのではないだろうか。

良い考えだと思うので、私もこの考え方で生活してみようと思う。

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