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岩明均『雪の峠・剣の舞』戦国を描く歴史作品集

寄生獣の作者、岩明均が近世日本の歴史物を描く。

「雪の峠」は1999年、「剣の舞」は翌2000年に掲載された。
岩明均が『七夕の国』(1996〜1999)の連載を終え、『ヒストリエ』(2003〜)へとつながる期間。どちらも、戦国時代を舞台にとっている。

岩明は歴史に造詣が深いが、彼自身の言によれば、この二作はそれまで自分のもっていたアイデアの「引き出しの中をさらい出した」結果であるという。


「雪の峠」


秋田藩・佐竹家でのできごと。

佐竹家は、1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康に逆らって西軍に付き、常陸(水戸)から出羽(秋田)に転封されたばかり。
家康に与しなかったことで、53万石を誇る大大名だった佐竹家の石高はわずか3分の1にまで減らされてしまった。

石高も減り、見知らぬ土地へと飛ばされてしまったことを嘆く家臣も数多くいるなかで、新たな領地に適応し、どのように運営していくか。それが若き藩主である佐竹義宣の課題だった。

そして物語で焦点が当たるのは、新たな城の築城問題。

江戸に近い常陸の地から、雪深い東北へ移った佐竹家が新たな府をどこに置くかを巡って、家臣の間で論争が繰り広げられることになる。

佐竹家の世代闘争


新たな府をつくる築城を巡る対決は、佐竹家内部の世代闘争も反映している。

現藩主から信頼され、若い世代の先頭を担うのは渋江内膳
身寄りのない浪人であったところを現在の藩主に取り立てられ、近習頭として仕えている。ふだんは飄々としているがその才覚は確かなもので、若殿の側近として重用されている。
争いごとを好まず、つねに話し合いによって物事を解決しようとする。武人らしからぬその姿は、戦のない新たな時代を象徴するかのようだ。

渋江内膳の顔立ちはおそらく岩明均作品の主人公の中で最も地味なものである


一方で、旧臣の面々を代表するのは梶原美濃守。
梶原は豊富な実践経験をもち、上杉謙信と実見し目をかけられていたという過去をもつ。

天才的な軍略家だった上杉謙信はこの頃すでに伝説的な存在になっており、謙信と直に接したことのある梶原は佐竹家の旧臣たちから羨望の眼差しで見られている。
この中編のタイトルにもなっている「雪の峠」とは、梶原の護る武州松山城を救援するため、雪深い三国峠を越えて上杉謙信が駆けつけた逸話を示している。
「雪の峠」のエピソードは過ぎ去りし戦国の世を象徴するものだ。

若い世代を代表する渋江内膳と、古くからの重臣たちからの信頼の篤い梶原美濃守が、新しい城の候補地をめぐり議論を闘わせることになる。

築城プレゼン対決


こうして、現藩主、前藩主、家臣たちが一同に介する中で、築城プレゼン対決が開始される。

渋江内膳は土崎湊にほど近い「窪田の丘」を推賞し、太平の世となる時勢を見据えて、城下町と港とをつなぎ街を活発化させようと提案する。
土崎湊は西国や北陸から来航する船の玄関口となり、1里半とわずかに離れた天然の要害の地である窪田とリンクさせることで、国を富ませることができると説く。

それに対して梶原美濃守は藩内の中央部、仙北の小城である金沢城を本城として築き直すことを提案する。
すでにある城に塁壁を増やし、巨大な城を周囲の田畑とともに囲う。仙北は領内最大の米の生産地であり、その中心に府を置くことで戦乱の際にも領国を内からガッチリと固めることができるというのが梶原の主張だった。

渋江内膳が太平の世の繁栄を考えの中心に据えているとすれば、梶原美濃守は有事の備えに重きを置いている。

関ヶ原で戦場に出陣することもなく敗れた悔恨を引きずる旧臣たちの声に押され、この後梶原案に近い横手城の案が持ち上がり、評議により横手に築城することと決定される。

この時点で、渋江内膳は敗けた、ということになる。

だが、まだ闘いは終わりではない。
すでに徳川幕府の成立期を迎え、諸大名は独断で新たな城を築くことは出来ない。

江戸にいる徳川家康に届を出し、許可を得る必要がある。
家康を動かし、自身の主張する「窪田の丘」築城へと仕向けることができるか。
ここから、渋江内膳のリターンマッチが始まる。

戦いの世を描きながら、直接的な戦いではなく互いの論を闘い合わせる場面に紙幅が割かれているのが、「雪の峠」の特徴である。
刃を交えなくとも、頭脳と提案力で勝負する。太平の世での世渡りと、戦場での闘いには近しいものがある。
この作品は、そんなことを思わせる。

「剣の舞」男装の女剣士の仇討ち



戦闘シーンの少なかった「雪の峠」とはうって変わって、「剣の舞」は戦国時代の仇討ちを主題とした剣術もの。

榛名山を望む上州の地。
合戦のどさくさに乗じた武士たちに凌辱され、家族を皆殺しにされた少女が、敵討ちを果たすため、男装して剣術道場の扉を叩く。

物語のキーポイントとなるのは、「撓(しない)」。現代で言うところの竹刀である。

卓越した剣術の腕をもつ疋田文五郎が、撓を用いて女剣士ハルナを指導し、撓の有効性に気づいていく。

この時期の撓は、袋竹刀とも呼ばれる。
刀身を包んだ袋の中の竹は、先端にゆくほど細かく割ってある。剣を振るうと弾力があって撓い、衝撃を吸収することで相手を過度に傷つけることがない。

竹刀が考案される以前は、稽古も全て木刀で行われていた。寸止め、仮当てが基本であったものの、木刀の稽古では致命的な怪我につながることも多かった。

撓があることで、稽古中でも激しい打込みが可能になり、より実戦的な演習が行える。

非力な女性でも撓を用いることで効率的な稽古ができ、疋田文五郎に鍛えられてハルナはメキメキと腕を上げていく。

そして修行が終わりに近づいた頃、上州の地に武田の軍勢が迫る。
文五郎の指導を受けたハルナは箕輪城を守り、武田の軍勢の中から敵を探し出し、復讐を期す。

「剣の舞」の主要キャラクター疋田文五郎(景兼・かげとも)は実在の人物である。

文五郎は武田との戦いののち、師匠である上泉伊勢守とともに上州を離れ、全国を流浪した。
永禄6年(1563年)には、当時畿内随一との評判が高く、のちの柳生新陰流の祖となる柳生宗厳と立ち会い、3度とも全て取ったと伝えられている。

時代の変革期を描く二編

『雪の峠・剣の舞』(講談社)には、同時期に描かれた二つの中編が一冊の本に収まっている。
作品の性格は異なっているが、どちらも日本の時代の移行期を描いていることは共通している。

旧臣たちに意見する渋江内膳(70頁)

「雪の峠」作中で、戦国を知る旧臣たちにもたじろがずに自身の意見を通そうとする渋江内膳の姿は、新世代の台頭を感じさせるとともに、周りに流されずに自らの意見を表明することへの勇気を与えてくれる。
ふだんは飄々と振る舞いながら、ときに不遜なまでの態度で上下を問わず周りの人間に接する内膳は、『ヒストリエ』のエウメネスを思わせる。

この時期は、戦国・安土桃山から江戸時代への移行期であり、徳川幕府の成立期でもある。

時台は移り、剣の道の生かされる場所は次第に少なくなっていく。

「天下一の剣客が二人も揃っていて、城一つ、女一人守ることが出来ない」

戦いを終えた疋田文五郎に掛けられる台詞が、悲哀を感じさせる。

この頃から剣術は「武芸」となり、「命のやりとり」ではなく、武士としての心得、アクティビティに近いものになってゆく。
江戸時代には、幕府をはじめ諸大名が自らの権力を誇示するため競って著名な剣術家を指南役として召し抱えた。

剣の道が再び戦いの中で輝くのは、幕末を待たなければならない。

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