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オマージュ小説 『きみと、わたしと、にわか雨』

「昼食べてすぐに、よく運動できるよな」

 昼休みを過ごした屋上でそのまま五時間目を迎える。フェンスの隙間から見下ろしたグラウンドではクラスメイトたちが準備体操をしていた。

「いつだって、あんたは運動なんかしないじゃない」
「常に眠いんだから仕方ねぇだろ」

そうはいうけれど、今の彼は全く眠そうじゃない。

「あ! ひこうき雲!」

くるりと反転しフェンスに背を預け、空を見上げる。釣られて彼女も彼の指差す先に目を向けた。

「ひこうき雲がなかなか消えないときは、次の日に雨が降るんだってね」

どこの誰に教わったのかも定かじゃない豆知識。でもこうやって覚えているということはあながち間違ってもいないのかもしれない。


「それまじ?」
「うん、理由はわかんないけど」
「ふーん。なら明日は雨かもな」
「ね」

雨になろうと晴れようと。
明日、彼女はここにいない。


 ひこうき雲が浮かぶ空の下、赤と黒のランドセルが駆け回る。

「あ、カエルみーっけ!」

水を張った田んぼにはアメンボがスイスイと泳いでいる。畦道で喉を膨らませている小さなカエルを少女は何のためらいもなく摘まんだ。

「うわっ! よく触れるな!」

少女よりさらに幼さの残る小柄な少年は黄色い傘を剣のように振りかざし、後ずさる。

「カエル触れないの? ほらよく見てごらんよ。かわいい顔してるから!」
「うわあああ! それ持ってこっち来んなって!」

その反応がさらに少女のいたずら心をくすぐる。

「照れんなよぉー」
「ぎゃあああ!!」

怖がって逃げる少年を少女は面白がって、カエルとともに追いかけた。


「お母さん! カエルが鳴いてる!」

 日に焼けて薄けたオレンジ色の傘を乱雑に傘立てに差し込みながら、少年は部屋の奥へ向かって叫ぶ。

「本当だね。明日は雨かもね」

エプロン姿で玄関に顔を覗かせた母親は元気に帰って来た息子を見て目を細める。

「えーっ! 明日、雨降るの?」

靴を脱ぐのもままならぬ様子で訊ねる。

「たぶんね。カエルは正直だから……となると明日のお出かけは延期かなあ」
「やだよ! オレ、明日のピクニックずっと楽しみにしてのに!」

その場で地団駄を踏みそうなほど少年は悔しがる。

「じゃあ、お母さんと一緒にてるてる坊主作ろっか?」
「うん!」

やっと脱げた靴を蹴散らすようにして、少年は母親の元へ駆け寄った。


 校舎裏の片隅で少女はしゃがみこんで何かを熱心に見つめていた。

少女が動く度に、学校指定の青いリュックサックにつけられた、てるてる坊主のキーホルダーが揺れる。

「おーい。いつまで見てんの?」

テスト後に早々に下校させたはずの生徒が未だに残っていたため、教師は急かすように声をかける。

「うーん、もうちょっとだけー」

青色にも紫色にも見えるその花から一時も目を逸らすことなく、少女は答える。


「本当に紫陽花好きだよな」

花を愛でる女心など全く理解できない教師は呆れ気味に漏らす。

「うん。花の中でいちばん好きかも!」

少女は自分の好きなものが認められたようでうれしそうに顔を綻ばす。

「ずっと見てて、よく飽きねぇよなあ……」
「飽きないよ。ひとつひとつのお花が違う顔してるもん。せんせーだって生徒みんな同じ顔には見えないでしょ?」
「……そうだな」

そう頷いてみたものの、やっぱり教師には花を愛でる少女の気持ちがわからなかった。


 大学図書館の専門書コーナーの端っこにひっそりと設置された机で分厚い参考書を広げる女子学生の元に、本どころか鞄すら持っていない男子学生が近づいていく。

「よっ」
「あれ? まだ帰ってなかったんだ?」

顔を上げた彼女は同じゼミの不真面目な学生がこんなところにいることに微かな違和感を抱く。

「ん。おまえも?」
「うん。調べたいことあって」
「あっそ。これって手作り?」

自分から聞いておきながら全く興味のなさそうな返事をし、机の上に無造作に置かれていた一枚の栞を手に取った。

綺麗なまま栞の中に閉じ込められていた赤紫色の紫陽花が彼の手のひらで咲き誇る。


「親戚の子がくれたの」
「……ふーん」

何をするでもなく、じっとその場から動こうとしない彼の存在に集中力を削がれた彼女は苛立ちを押し殺して訊ねる。

「まだ帰んないの?」
「俺、傘忘れたから」

図書館にしばらく籠っている間に雨が降り出したらしい。雨宿りのためにここに来たのかと彼女は一人納得する。彼はそれくらい本と無縁そうな男だった。


「私の傘貸そうか?」

なんとかしてここから追い返そうとするが

「そしたら、おまえはどうやって帰んの?」

彼は頑なに頷こうとしない。

「迎え頼むから大丈夫だよ」

鞄の奥底に沈めた携帯がついさっき鳴っていた。

「……誰に?」
「お兄ちゃん」

今すぐにでも連絡を取ろうとするかのように彼女は鞄をまさぐる。


「……それなら俺と帰らない?」

照れ臭そうに顔を背けて彼が言ったのと

「……え?」

彼女の手が携帯に触れたのは、ほぼ同時だった。

「お兄さんだって、わざわざ呼び出されたら面倒だろ?」
「……うーん」

鞄の中で光る機器をちらっと見てから、指先でさっと返事を打つ。

「それもそうだね」

彼女がぽつりと答えると、彼の口の端がほんのりと弧を描いた。


「あれ、珍しい」
「どうしたの?」

 デスクワークに取り組んでいた女性はパソコンを挟んだ向こう側の席で独り言を漏らした同僚に話しかける。

「いや、妹がいつもだったら雨降るといつも迎えに来て! って言うのに、今日は断ってきた」

定時の退社時刻は過ぎ、人も疎らになったオフィスでは普段よりくだけた口調になる。


「ふふ、彼氏でも出来たんじゃない?」

女性はまだ熱いマグカップを両手で包むようにして持ち、コーヒーを口に含む。

「そうなんかなあ?」
「ちょっと寂しい?」
「うれしいような、悲しいような……複雑な感じ?」

その言葉に女性の口の中に広がる苦味がさらに増した気がした。


「意外とシスコンなんだねー」
「失礼な」
「私はほっとしてるけどなあ」

やっぱりブラックでは飲めないと、スティックシュガーを足しながら、女性はなんてことないように返す。

「え?」
「妹ちゃんに取られなくて」
「ふはっ! なんだそれ!」
「……結構本気なんだけど私」

スプーンで混ぜ回しながらいじけて見せると

「俺の心はすでに君に捕らわれてるからその心配はないよ」

と砂糖よりさらに甘い答えが返ってきた。


「もう、泣くほどのことじゃないじゃん!」
「だってカエル持ってボクのこと追いかけてくるからああ」

ぐずぐずと鼻をすすりながら涙声で訴える。

「それはごめんってば。まだひざ痛い?」

上がり框に腰かけた少年の前にひざまづき、少女は顔を覗き込む。

カエルから逃げようと必死で走っているうちに、自分の足に引っかかって転んでしまったのだ。

母親に出してきてもらった絆創膏を貼ってもなお、少年は泣きべそをかいている。

「仕方ないなあ! 痛いの痛いの、あたしに飛んでけー!」

少女はなんとかして元気づけようと絆創膏を貼った膝に手を当て、おまじないを唱える。

「それはダメ!」

すると、なぜだか少年が慌て出した。

「なんで?」
「キミに飛ばしたらキミが痛くなるじゃん」
「あたしは大丈夫だよ。もう痛くなくなったでしょ?」
「痛くない? 大丈夫?」

さっきまであんなに痛がっていたのも忘れて心配してくれる少年に、少女は呟く。

「やさしいんだね」
「……キミにだけだもん」
「ふーん?」

けれど、少年の本心を理解するには、少女はまだ幼すぎた。


 未だ紫陽花の前でしゃがみこんでいる少女の頭上に、日頃から溜まっていた教師のぼやきが降ってくる。

「なあ、いい加減第一志望決めろよ」
「んーー」
「聞いてんのか?」
「……聞いてる」
「なら、なんとか言え」

隣に並び、同じようにしゃがんで紫陽花を眺める。近くで見ると、花びらがグラデーションを描いており、その自然な色合いに少しだけ目を奪われる。


「せんせー」

少女は紫陽花の葉っぱの上をのそのそと歩くかたつむりの殼を指先でつつきながら、ゆっくりと口を開いた。

「な、なんだ?」

生き物が苦手な教師はもちろんかたつむりも嫌いだが、その動揺が悟られないように平静を装う。

「それって高校じゃなきゃダメですか?」
「はあ? おまえ高校行かねぇつもり?」

生徒の導きだした答えがどんなものであっても全力で応援するつもりでいたが、そう簡単に受け入れられない道もあるのだ、と教師は知る。

「だって私、勉強好きじゃないもん」
「だからっておまえ、さすがに中卒は……」
「せんせーのお嫁さん」
「……は?」
「私の第一志望はせんせーのお嫁さん。それじゃダメですか?」

一瞬ぽかんとした後、すぐに笑みを浮かべながら告げる。

「バーカ。俺の嫁は高卒以上じゃないと受け付けねぇっての」


生徒からの淡い好意を存分に噛み締めてから、一緒に新たな進路を考えてやろうと少女は胸に誓う。


「……傘持つよ」

借りた参考書で膨らんだ鞄を持つ彼女の反対側の手から、彼はぶっきらぼうに傘の柄を奪う。

「……ありがと」
「……ん」

いつもよりぐんと近づいた距離感に戸惑う彼は、彼女の肩を濡らさないように傘を傾けるのに必死で、会話することにまで意識が回らない。


「ねえ、明日の1限目の心理学取ってる?」

彼女の吐息が鼻先に触れて、傘を打つ雨粒より強く、彼の心臓が跳ねる。

「……うん」
「休講みたいだよ。さっき掲示板に出てた」
「……そう、なんだ」

そっけなく聞こえないように、でも、馴れ馴れしくなりすぎないように。彼は相槌ひとつにも細心の注意を払う。


「でも、ちょっと朝寝坊できるからうれしいかも」

彼女が恥ずかしげに言うのを見て、彼はスンと鼻で息を吸い込んでから口を開く。

「……俺は」
「ん?」
「俺はおまえといられる時間が短くなるから嫌かな」

そう動いた彼の唇が自分の唇に触れたとき、彼女はようやくその言葉の意味を理解できた気がした。


「ただいまー」

 リビングのドアを開けたスーツ姿の男性は夕暮れから降りだした雨に打たれたのか、頭の天辺から爪の先までびしょ濡れだった。

「……おかえり」

食卓に夕飯を並べていた妻はそんな夫を見て、ちゃんと傘を持たせて送り出したはずなのに、と眉をしかめる。

「また傘忘れてきたの?」
「……すまん」
「先にシャワー浴びてくる?」

その問いに男性が答えるよりも早く、小さな少年が走り寄ってくる。

「お父さん、おかえり。はい! バスタオルと着替え」
「おーありがとうな」

ふかふかのバスタオルを受け取りながら、息子の頭を撫でる。


「ねえ見てよ! あれ!」

少年はそんなことよりと言わんばかりに父親の手を引いて窓辺に連れていく。


「お、てるてる坊主作ったんだ」
「そ、この子と私の二人でね」

カーテンレールに吊り下げられたものに見入って、動きの止まった夫の手からタオルを奪うと、妻は背伸びをして自分よりずっと高い位置にある頭をわしゃわしゃと拭う。


「へえ。こいつらも三人家族なんだな」

されるがままの夫は、呑気にも丸めたティッシュに描かれた顔をひとつひとつ観察している。

「そうだよ! お父さん坊主に、お母さん坊主に、オレ坊主!」
「オレ坊主って。おまえ坊主じゃないだろ」
「そういう意味じゃないの!」
「はいはい」
「さ、お父さんが着替えたらごはん食べよっか!」


 温かい料理に、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる妻と、ただただかわいい息子。それを見守る三人のてるてる坊主。

「ぷはーっ」

そこに冷たいビールもあって、幸せじゃないはずがない。


「ほんとに雨降ったね」
「ひこうき雲すごいな」

 屋上で空を見上げたときに着ていた制服を脱ぎ捨て、空いた車内のシートに隣合って座る男女。

その背後では窓に張り付いた雨粒がするすると滑り落ちていく。


「ひこうき雲は何もしてないけどね」
「それもそうだな」

目的地まで一駅ずつ近づいていく度、二人の口数も減っていく。


「……まじで行く気なの?」

彼は大きなキャリーバックを忌々しげに見つめる。彼女が父親の仕事の都合で海外へ行くと聞かされたのはつい数週間前のことだ。


「行くよ」

日本に残ることもできたが、彼女はその道を選ばなかった。

「連絡くれる?」
「エアメール高いからなあ……」
「なんだよ、その理由」
「うそうそ。ちゃんと送るよ。手紙もメールも」
「向こうで外国人の彼氏作るなよ」
「ふふっ、なんでよ」

恋人でもないくせに、と喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。あと一歩を踏み出す勇気がなくて、中途半端な関係をずるずると続けたのは彼女も同じだった。


「絶対勝てねぇじゃん。英語喋れる男とか」
「なら、がんばって勉強したらいいじゃん」
「するよ。めっちゃ。それでいつかおまえを迎えに行く」
「期待せずに待っとくよ」
「や、少しは期待して?」

甘えるように懇願する彼を見て

「はいはい、期待してますよ」

笑い交じりに答える。

「なんで笑うん?」

その問いは無視して、彼女はずっと避けてきた台詞をようやく口にする。


「ありがとね」
「なにが?」

すっとぼける彼に、彼女はそれ以上言うのを諦める。

「ううん、なんでもない」

友達なんかいなくても生きていけると、一人強がっていた彼女の心の中に、するりと入り込んできたのが彼だった。

流れる雨粒がくっついては大きくなっていく様子を目にして、初めて彼女は彼と離れ離れになることを寂しく感じた。


 雨で洗われた夜空はいつになく澄んでいて星が綺麗に瞬いている。

「雨ってなんかいいよね」

水玉柄の傘を片手にぴょんぴょんと跳ねながら水溜まりを避けていた女性は、振り返って後ろを歩く男性に言う。

「そうかあ? 鬱陶しくない?」
「君はたまに夢がないことを平気で言うね」

つまらない男、発見! とでも言うように、女性は傘の先で男性を指し示す。

「どこがだよ」
「だって、雨が降らなきゃ虹は出ないんだよ?」
「まあ、そうだけど……」

といっても、完全に日の落ちた今では虹など見えやしない。

「私は晴れの日より雨の日の方が好きだな」
「なんで?」
「雨の日はいつもより、いろんなハプニングが起こるじゃん?」

さっきまで避けていたはずの水溜まりに女性はバシャン、と勢いよく飛び込む。

「うわっもう!」

何してんの! と、騒ぐ男性にさらに足で水飛沫を上げる。

「靴濡れるだろ!」
「大丈夫! レインパンプスだもん」
「服だって汚れるし!」
「平気平気! 今から君と寄り道すればいいんだから」
「……は?」

固まる同僚を差し置いて、女性は楽しそうに笑いながら告げる。

「知ってる? ハプニングは起きるものじゃなくて、起こすものなんだよ」


こんなびしょ濡れだと、乾くまで電車にも乗れないやーなんて白々しいことを言う彼女に呆れるやら感心するやら。


彼は大きく息を吸って、目の前にある雨が作った小さな湖に両足を揃えて飛び込んだ。

(20160514)



 実はこの小説は、大好きな漫画家さんの
安藤ゆきさんの『透明人間の恋』に収録されている

『drops.』をオマージュして書いたものです。安藤ゆきさんの作品はどれも本当に好きなんですが、この一冊は単行本もネット漫画も購入したほど、私の唯一の恋愛バイブルと言っても過言ではないほど大好きなんです。
(久しぶりに読み返したら、他の作品にもちょこちょこ影響受けてることに気づきました……)

町田くんの世界も全巻集めてるほど好きなんですが……映画はあまりオススメできません🙅(デートで観に行ったら、謎のラストに気まずくなって、私もパフェ大食いした気がします😂)

 あえて名前を出さないように表現しようとすると、少女、女の子(女子)、女性はまだしも、少年と青年の境目が難しいなって思いましたね……また相手の呼び方も肩書き(父・母・教師など)があると楽なんですが、あんた、あなた、君、おまえの使い分けにも頭を悩ませました。

実生活でよく使うのは「あんた」かな🤔?
「おまえ」と呼ばれる機会がほぼないんですが、人によっては所有物みたいに言われて不快な方もいるみたいですね……私は呼ばれ慣れてないからドキッとしちゃいそうだけど🙈


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