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『さよなら、ニルヴァーナ』(窪美澄 著)を読んで

窪美澄さんの本には、『晴天の迷いクジラ』で初めて出会った。8年くらい前だったか、Aちゃんに「なんだかみどりさんに、よさそうな本じゃないかと思って」と紹介されたのだが、なぜ「よさそう」なのかは言われなくて、それが知りたくて読んだ。

年齢も性別も、育ってきた環境も異なる登場人物たちが、非日常のなかで出会ったり、出会い直したりしていく。各々の物語がまじりあいながらひとつの物語に収斂されていく。人の弱さももろさも全部包んで受け入れているような、大きな腕に抱かれているような、世界観。

「ああ、たしかに私は、こういうのを求めているかもしれない」

当時、そんなことを思っていた。

それからずっと窪美澄さんの本は気になっていて、購入はしたものの読まないままの本が、本棚に5冊並んでいた。今回、その中から『さよなら、ニルヴァーナ』を手に取った。

日本中を震撼させた少年Aの事件をモチーフに、4人の人生が交差していく。登場する4人のそれぞれの人生が丁寧に描かれており、それがどんな風に交叉して、どんな風に収斂するのか、最後までわからないまま読み進めた。

窪さんの作品は、描き方に結構緩急がある。かなり細かくリアリティを持って描写されている部分と、さらっと通り過ぎる部分があって、特に、ねっとりと描いている部分、そこが窪さんの独自の作風を生み出しているような気がしている(この辺はもうちょっと他の作品を読んでから改めて考えてみたい)。

さらに、実際の事件をどこまでフィクションとして描くかの難しさもあるだろうけれど、窪さんはおそらくご自身で線を引きながら、果敢に挑んでいるという印象を持った。

それは作中のこの部分から伝わってくる。

 Aは人間の中身が見たくて、七歳の子どもを殺した。中身。それは少年Aが、事件を起こしたときに、何度も口にしていた言葉だ。人間の中身が見たかった。だから僕は、あの子を殺した、と。彼は何度もそう言った。けれども、当時、誰も、その真意をくんだ者はいなかったと思う。
 私も中身が見たいのだ。人がひた隠しにして、心の奥底に沈めてしまうもの。そこに確かにあるのに見て見ぬふりをしてしまうもの。顔は笑っていても心の中で渦巻いている、言葉にはできない思いや感情。皮一枚剥がせば、その下で、どくどくど脈打っている何か。それを見てみたい。
 そういう意味では、私とAは同志なのだ。


作中に作家として出てくる今日子の言葉だが、窪さんの言葉と受け取った。この部分だけが浮き上がっているかのように、最も印象に残った。それは、私自身も、同じことを思うからだろう。見て見ぬふりをしたくない、見てみたい、と。

そんな「人間の中身を見たい」という部分に加えて、「母親というのは病だなあ」という感想も持った。これは窪さんの他の作品でも多く描かれているし、もちろん他の作家さんの作品でもそうで、女性作家だからこそぐりぐりと描けるところだと思うので、それはそれでまた追いかけていこうと思う。

ところどころ、結局なんだったんだっけと思う部分が明かされないまま終わる。いくつかの感想ブログを見てみると、もやっとするという感想を書いている人も多かったし、こういうことなんじゃないかという解釈を書いている人もいた。私は、まあわからなくていいか、という気がしている。おそらく作者の、つじつまを合わせないし明かさない、という意思のもとにそうしているだろうと思うので。



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