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「自我は隠される」(2023年4月)

●4月2日/2nd Apr
春になり新しい生命がまた芽生え始めてきた。テントウムシが後尾をしている隣で、カメムシも後尾をしている様子を見つけたので、じっと観察する。虫たちはほんのわずかな時間しか生きることが出来ないので、生命のリレーをすることに命がけだ。我々はそんな短い時間しか生きられない虫たちの命を、いとも簡単に奪ってしまうことがある。だがそんな権利は本来ないはずだろう。

●4月4日/4th Apr
 免疫系の働きを突き詰めると、身体という生態系の世話をすることであり、異物に対する防御はその派生業務に過ぎない、という考え方がある。実際に免疫系の10億もの細胞のネットワークが身体全体を巡りながら「動き回る脳」として機能しているという見方もある。
 これをブッダの理論と重ね合わせると非常に興味深い。仏教で言われる28の物質のうち、「心色」と呼ばれる物質はアビダンマではそれまでの慣例に従い、心臓に働くと言われている。それに対して、ブッダは心色がどこに働くのかについて特定せず身体全体としている。
 仏教で複数の解釈がある時は、ブッダの言うことが正しいと見るべきだ。心が宿る物質として免疫系の細胞レセプターと神経ペプチドのコミュニケーションを、おそらくブッダは指していたのではないか。その仮説が成り立つならば、感情の生化学的な基質としての心色が身体全体に働くということは充分成り立つのではないかと思う。

●4月4日/4th Apr
 京都の総合地球環境学研究所で阿部先生とディスカッション。相変わらず世界中飛び回ってフィールドワークされているので、その合間を縫ってお会いした。山極先生はご不在だったので次回は是非とのこと。
 国際シンポジウムに登壇した時以来だが、近況報告しながら気がつけば4時間ぶっ通しで議論していた。昨年度から僕自身も所属が環境社会共生になったので、これから色々とご一緒していくことになりそうな予感。
 創立者の日高先生の思想だった「文化から地球環境の問題を考える」というスタンスには、僕自身も非常に共感している。一方でアカデミズムが細分化され過ぎて、また制度にがんじからめになっている中で、学問に自由など担保されなくなってきている。
 阿部先生の世代が最後の牙城として踏ん張っておられるが、どこまで持ち堪えられるかと仰っておられたのが気になる。

●4月5日/5th Apr
 こうしたSNSで投稿するのは僕にとっては自分のアイデアや思考のメモだ。それを開示して共有することによって誰かがインスパイアされたり、何かと気づきになるだろうと思うので、公開することにしている。
 読んだ方々が影響受けてくれたり、自分で思考して、自分の言葉で話してもらうことは良いことだと思っているし、基本的にアイデアは共有されてこそ価値が生まれると思っている。だからこれまでもアイデアは基本的にはオープンに話してきたし、著書や投稿やブログやラジオとかでも考えは開示はしてきた。

 その一方で、僕の言動やアイデアをこっそり見てパクって自分の成果として使う人たちがいることも知っている。これまでも僕が話したアイデアを元にビジネスや作品にしたり、自分のキャリア形成や社会的な位置づけを得てきたのだろうなと思い当たる人も何人か頭には浮かぶ。
 影響を受けることとパクることは紙一重で、その違いは「レスペクト」があるかどうかの一点に尽きる。論文では引用や剽窃に対する研究公正が重視されるが、個人的なアイデアや発言については誰かのチェックが入るわけではない。だから影響受けた人が自分で意識して位置付ける以外には方法がないが、レスペクトがあれば自ずとそうなるはずだ。
 個人の倫理観の問題でもあるのだが、バレなければいいということは本当は成り立たない。全ては因果応報なのでやったことは、いつかどこかで必ず自分に返ってくる。業というシステムの恐ろしさを知っているとそんなことは出来なくなるだろう。

●4月6日/6th Apr
 今夜はピンクムーンと呼ばれる満月。「まなざしの革命放送」の配信日です。たとえ誰も聞く人がいなくても満月と新月の晩に配信しています。今夜のテーマは「ムダ」です。
 私たちは人生をムダにしたくないと思いながら、何かに励みますが、そもそもムダとはなんなのかについてすこし考えてみます。50年前のシューマッハの「スモールイズビューティフル」や書評を書かせて頂いた文化人類学者の辻信一先生の著書「ムダのてつがく」などにも触れながら、ムダな人生にならないために何が大切なのかを話してみます。

まなざしの革命放送シーズン2
Vol.037 ムダな人生とは

ピンクムーンの今夜は、「ムダ」について考えてみます。先日、文化人類学者の辻信一さんが書かれた「ムダのてつがく」の新聞書評を書く機会を頂きました。そこで考えたことを中心に、僕らが何かをムダだと思う裏側にはどういうまなざしが潜んでいるのかについて自分なりに考えてみます。ムダの効用はアートと馴染むのですが、実はそこには盲点もあります。効率化がますます強くなる社会においてムダについてもう一度見直すことこそムダではないし、人生におけるムダとはどういうことなのかについて少し思うところを話してみます。

●4月7日/7th Apr
 ほとんどの人が知りたいのは「知識」や「情報」であり、自分の考えの誤りを知りたい人などわずかだ。考えが誤ったままで、いくら勉強しても知識や情報が間違って積み重ねられていくだけで、何の意味もない。
 一応、伝える努力は続けているが、既に知識と情報で頭がパンパンになった大人たちは絶望的に思える。何を伝えても自分の正当化に向けて捻じ曲がってしまうようになるからだ。素直さというのが最も重要な能力だと思うが、自分が素直であると思っている人ほどそうではないことが経験上多かった。

●4月8日/8th Apr
  戦争しかけられている気配がプンプン匂ってくる。表に出てこないものも含めて、相当色々と動きがあるようだ。情報に惑わされないようにせねば。

●4月9日/9th Apr
 今世紀に入る前後から、政治面でも科学面でもこれまでは表に出てこなかったような情報が徐々に漏れ始めていて、今では市井の人々の間で既に断片的ではあるが共有されているような事柄も増えている。
 その中で自然科学、社会科学、人間科学の全てを総合的に考察してアップデートせねばならないことは唱えられる続けているが、これまでの常識がそれを阻んでいるので、なかなか進まない問題がある。
 人は不都合な事実や受け入れられないことは目を背けるか、冷笑するか、部分的な反論で無かったことにするかに忙しい。聞く準備が出来た分しか語ることは出来ないのだが、時間はそれほど残されていないかも知れない。
 来週から大学院の講義が始まるが、そこでもおそらく語るのは難しいと思われる。僕が知っている範囲とて限られてはいるが、それでもまともに話すと範囲が広すぎる上、大学院くらいになると既に頭が固まってしまっているので聞くに堪えないだろう。初回で感じを見て少し考えるか。

●4月10日/10th Apr
 人間には連続して変わらない意識があるわけではなく、無数の感覚と解釈のスイッチングである。スイッチングの際にのみ自己が立ち現れるという結論にブッダが辿り着いてから2600年。現代哲学がようやくその結論の付近に辿り着き、それを後追いして生化学と神経科学がたどり着きつつある。
 スイッチというのは見方によっては存在しないし、変化の際にしか現れない。常に変化する無常だからこそ、スイッチとしての自己が現れる。

「回路という視点から見ると、オフの状態の時にもスイッチは存在しない。そこには何もない。それはスイッチがオンの時にのみ導線として働く、二つの導線の間の隙間なのである。言い換えると、スイッチは切り替わる瞬間以外は存在しないのであり、「スイッチ」という概念は時間に対して特別な関係を持っている。スイッチは「物」というよりもむしろ「変化」の概念と関係があるのだ」」ベイトソン

自我というのはスイッチのようなものだとすれば、何がそのオンオフをするのかという問題に行き当たる。そこが苦について考える出発点になる人も居るか。

●4月10日/10th Apr
 もう終わりかと思っていたが、また拙著「まなざしの革命」が昨年度の入試に使われていたらしい。北里大学なのだが、第1章「常識」からの出題。これで7校目の入試問題採用。
 北里大学は医薬系の大学なので流石にパンデミックに言及している部分は避けての出題。策問側の配慮とはいえ拙著を取り上げるのはリスクのはずだが、冷静な人がいるのか。さて何人の受験者が拙著に辿り着くのだろうか。

●4月10日/10th Apr
 ほとんどの入試では拙著の第1章「常識」からの出題だが、戦争の一歩手前まで布陣が固められつつある今の流れだと、本当は第3章の「平和」から出題された方がいいのだろう。
 戦争のことなど何も知らないでいると、楽しくスマホの前で踊っていられるのかも知れない。だが準備がないと有事になればあっという間に従うしか方法がなくなる。
 無闇に拳を振り上げるのは愚かな事だが、指をくわえて見ているだけなのはさらに愚かなことになりそうだが。今はまだ情報戦だが、相当入り組んでいると見ている。

●4月11日/11th Apr
 これまで社会人の大学院教育ばかりしてきたので、20代の若者がどういう生命体なのかにあまり触れる機会がなかった。なので今日から始まる大学院生向けの「デザインサイエンス特論」で何を教えるべきかを考えあぐねていた。
 用意していたのは、生命表象学研究の一部。なぜ自然や社会はこのようなデザインや形態を取るのか、そして自然に寄り添うデザインやテクノロジーとはいかなるものか、果ては宇宙と我々はどのように関係しているのかという可能性を、神聖幾何学をベースに様々な学問領域から紐解く内容。
 自分としては超絶面白い話を用意したつもりだが、それは僕が教えたいことであり、学生たちが知りたいこととは違うかもしれないと思った。幸い大学院なので人数も少なく、ひとまずじっくりとディスカッションを試みることにした。
 彼ら彼女らの中での興味関心がどこにあり、何が見えていて、何が見えていないのか、今の社会がどう映っているのかを一通り確認する。その中で感じたのは学生たちが研究課題として掲げた問題意識のリアリティの薄さで、社会人学生と大差はないように思えた。
 もちろん知識や情報レベルでも、台湾有事や緊急事態条項、食糧危機やコオロギ、乳牛の殺処分も通貨の崩壊のことも、何も知らなかったという問題はある。それ以前に、生きるという切実な問題に対してどこか置き去りにしたままでここまで来ているような気がした。
 その一方で、救いだと思ったのはこちらの容赦ない問いかけに対して真剣に悩んでいることだ。大人のように神妙そうな顔して適当にやり過ごす感じではない。むしろもっと聞いて考えたそうな態度には見えた。そういう意味でまだこの年齢でも鍛え甲斐があるかもしれないと思った。
 以前にポットキャストでも「子供を教育してはいけない」というテーマで話したことがある。そこでかなり大事なことを話したつもりだが、学生たちには届いてはいないだろうし、おそらく大人だって聞いていないだろう。誰も拡めるつもりはないのだ。
 僕の本も読んでいない、ポッドキャストも聴かない、その存在すらSNSやメディアでは取り上げない、知る機会がなかったとしても、そしてたとえ目の前に数人しかいなくても直接話すしかないだろう。指をくわえて社会が崩壊していくのを見ているよりは、何か一つでも自分にできることを模索する方がいい。
 誰も話さないのであれば、誰かが言わねばなるまいし、それは出来るだけ早い方がいい。そう考えるとやはり制度とは別で独自に教育をしていく必要があるようにも思えてきた。何かテーマを決めなくても、ただ子供たちの前で何かを話すだけでもいいような場を少し考えてみるか。

●4月12日/12th Apr
 本日でひとまず半断食期間の終了。明日より回復食に入る。春は毎年デトックスとして玄米とごま塩のみの七号食をするが、今回は初めから終わりまで全くストレスがなかった。このままずっと続けてもいいがひとまず終えるかという感じ。
 世間では食糧危機の不安感が煽られているが、飽食にままれ食欲が開放されている現代人は、食糧を握られるとあっという間に自由を明け渡すのではないか。そういう意味ではこうした断食期間は身体よりも、心のデトックスの意味合いの方が大きいのかもしれない。
 食欲は欲の最もベーシックな部分を作っているが、このコントロールが出来ないと他の欲のコントロールは出来ない。いくら立派な理念を唱えていても基本的な欲のコントロールが出来ないのであれば、あまり信用には値しないのだろう。
 2018年にバルセロナで「Body in Food」という食と身体にまつわるパフォーマンス作品を発表したことがあるが、その時はほぼ絶食に近く苦労した覚えがある。だがその頃よりも確実に食欲のコントロールは出来るようになっている。

●4月14日/14th Apr
 文化人類学者で環境アクティビストの辻信一さんの新著「ムダのてつがく」の書評を、ハナムラが書かせて頂きました。共同通信社から全国の地方紙を中心に配られており、続々掲載されているようです。
 本日、共同通信社の記者の方からいくつかの地方紙での掲載分を頂きましたが、まだまだあるようです。辻先生のメッセージを受けて連歌のように僕なりに書きましたので、お見かけした方は是非、著書とセットでご覧ください。

●4月18日/18th Apr
 I got a new ballpoint pen named "007"!! It's a very smooth movement and looks naturally with my notebook.

●4月19日/19th Apr
 脳は心とは別物ではあるが、人間は普通の生活をしていると大脳がうまく機能しないので、感情の拘束を受けてしまうという問題がある。だから配線を繋ぎかえる必要があるのだが、それが瞑想の目的の一つではある。おそらく脳梁と松果体がゲートウェイになると思われるが、実践する上での実感にはあまり関係ない。

●4月20日/20th Apr
 今日は金環日食で新月の日。まなざしの革命放送の配信日です。今日はいくつかの社会問題を取り上げて、私たちとの関係を少し考えてみます。「偽装留学生」の話なども後半で少し話しておりますので、ご存じない方は是非。

まなざしの革命放送シーズン2
Vol.038 私たちが社会を危険にしている

今夜の革命放送では、いま社会で起こっているにも関わらず、一般的にはあまりフォーカスされることがないようないくつかの問題を取り上げて考えればと思います。乳牛の殺処分の問題や外国人窃盗団などの増加の問題は、私たちにとって人ごとではありませんが、それらは果たして私たちには責任がないと言えるのでしょうか。私たちのささやなかな楽しみや便利さが、積み重なって引き起こす社会問題について、少し考えてみます。

●4月23日/23th Apr
 テレビは持っていないし、番組など見る機会は全くないが、たまたまマツコデラックスが話しているところを見てしまい、この人物の複雑な内面について理解してしまう。そのうち早々に芸能界など辞めてしまうだろうな。

●4月23日/23th Apr
 陰では何を言われているかは知らないが、自分は本人のいない所で陰口を言う人間にはならぬように気をつけたいものだ。

●4月24日/24th Apr
 この週末は僕がかつて勤めたデザインオフィスのボスを偲ぶ会に参加する。昨年末に70歳で亡くなられたが、いつでも明るくユーモアに満ちた方だったので人望も厚く、大勢の方が参加されていた。
 ランドスケープデザインのイロハを教えて頂いた方で、今でも実務をやれているのは彼のおかげだ。学生時代に僕がプレゼン資料を取り仕切ったシンガポール植物園のコンペ以来、オフィスに入ってからも色んな現場に連れて行ってもらい、沢山経験を積ませてもらった。
 公園、マンションの屋内空間、邸宅の屋上緑化、植物園、里山管理、埋立地、シンガポール大使館の庭、中国の大規模都市開発、ミャンマーの仏塔近辺のランドスケープ、果てはレジャーランドの計画に至るまで、民間、公共、海外と色んな案件に携わらせて頂いた。
 シンガポール政府から表彰されたり、マレーシアやミャンマーでのプロジェクトも多く、中国の大学で教鞭もとられているなど、国際的に活躍されている方で、淡路の植物園の館長職に就いたばかりの訃報だった。
 長らくお会いしていなかった方々にもお会いできて、嬉しい再会も沢山あった。こんなにたくさんの方々をつないでいたプラットフォームになっていたのだなと敬意を抱くと共に、自分はプラットフォームになり得てないなと自戒も。ともあれご冥福を心よりお祈りいたします。

●4月25日/25th Apr
 本日の大学院の講義は欠席者がいたので、急遽予定変更して、自分のまなざしの診断をするエゴギョウを解説。アメリカの心理学者エリック・バーンの交流分析と陰陽五行思想を融合させた冨田先生独自の性格診断法で、拙著「まなざしのデザイン」の第9章に掲載している。
 こちらとしては学生たちの診断結果が出る前から、どういう特性を持っていて、どんなまなざしで世界を見つめているのかは事前に気づいている。だからチャートを見るのは単なる確認でしかないが、手に取るように思ったままの結果が出るのが面白い。
 この補助線を持って常日頃から人を見ているので、少し会話をすると言葉の端々からその人の性格が読み取れる。訓練すると、その人が本当のことを言っているか嘘をついているのかも、ある程度見抜けるようになる。そんな便利な方法を授けたので、今日の出席者はラッキーだったのではないかと。

●4月26日/26th Apr
 本買ったペンが描きやすいので、研究ノートに書き込むのが楽しすぎる。メキシコから南米にかけての聖地をプロットしているが、文字だけでなく地図やスケッチも手書きが充実。

●4月28日/28th Apr
 3月の長老との対談後に改めてエジプトの信仰を調べてみているが、なぜ当時の人々が「復活」にこだわったのかを理解し始めている。なぜ我々が文字を必要とするようになったのかとも関係するが、この先はアートも含めて文字ではない方法でないと統合できないのではないかと。聖地研究の先へ。

●4月30日/30th Apr
 S地点で雨が降るときは瞑想と思索に最適な時間となる。樹々に跳ね返る雨音に耳を傾け、虫たちの避難場所を提供し、山が雨を飲み込む様子を時折眺めながら、宇宙の循環に想いをはせる。下らない理屈からも、有害な電波からも、世間の意識からもエスケープして、神々や精霊たちと対話する時間。

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