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他人と異なるとは

ふと電車に乗っている時周りの人間を見てみる。


ほとんどの人がスマートフォンを見ている。
YouTubeやTwitterなどのいわゆるSNSをチェックしたり、スマートフォンでゲームをしている人もいる。

電車内で本を読んでいる人などせいぜい2,3人だろう。

本から学ぶことは多くある。
まずは文章中の漢字の読みや意味といった
【言葉】を知れる点である。
本を読んでいると必ず見たことない表現や今まで使ったことの無い言葉に出会う。

例えば、「吟味」という言葉はどうだろうか。
評論文でよく使われる表現で、意味は

「何かについて念入りに調べること」である。

知らなかったことを知れるという喜びは
一定の感受性がある人ならば感じることができるだろう。
知らない→知った、できない→できた、
わからない→わかった、など何かを初めて知覚
できた時の喜びは子供でも感じることができる。

次に
色々な人間の考えを知ることができるという点である

入試問題は作者が何を言いたいのかを
文章を読み、設問に答える。

何を言いたいかは、作者によってバラバラで、
A=Bだと言う人もいれば、A≠Bという人もいる。

そこで注目して欲しいのは、
なぜ両者の意見が食い違っているのかである。
ただ単に2人の意見が違うなと思うのではなく、
そこに自分の考えを加えて、なぜやどうしてなどの疑問をかけることでより両者の意見の本質が見えてくる。

いちばん重要なのは自分はこの両者の文章を読みどう感じたのか、どう考えたのかである。

結局自分は
A=Bと考えたのかそれともA≠Bと考えたのかである。

ただ文章を読むことなどだれでもできる。
わからない言葉を辞書で引いたり、その文章を読んで何を学んだのか要約し、自分の考えを表すことは、並大抵の人間にはできないことだろう。

最近『スマホ依存症』という言葉をよく耳にする。いわゆるスマホ中毒のことで、スマートフォンのせいで日常生活に支障をきたすことである。

私はスマートフォンを一種の薬物と考えている。
確かにスマホは色々なコンテンツがあり面白いのは認めるが、それが自分の人生に取って必ず必要かと言われればそうは考えない。
私が敬愛するローランドさんの言葉を真似るなら、

最期自分が死ぬ時の走馬灯でスマホの画面が浮かぶことが1番嫌である。

四六時中スマートフォンに触れている人は、必ず走馬灯にスマホのLINEの会話や好きなYouTubeの
動画などが浮かぶのだろうと私は考える。

自分の人生の最期にスマホの画面が浮かぶなんて
絶対に嫌である。

まだ私は19歳で死を考えるのは早いかもしれないが、人間いつ死ぬかわからない、人間50年と言われていた時代もある。歴史を辿れば自ずと答えが見えてくる。

今この瞬間何をやらなければいけないのか、
スマートフォンを四六時中いじることが自分の
人生の中で本当に必要なことなのだろうか?
その答えを見つけるために
私は先人や色々な考えを持った人の文章を読むのである。

かつて日本には、文学が国を創造していたと言っても過言ではない時代があった。人々は本に関心を大いに持ち、素晴らしい作家があまた生まれた。

今現在、本がスマートフォンに変わっている。
このことが、ただ単に悪いことだとは考えていない。
時代の進歩や技術革新により、便利なものが世の中に増えている。素晴らしいことである。
ただ少なくとも私はスマートフォンに囚われる人生ではいたくない。走馬灯がスマートフォンの画面では嫌である。

本から大いに学び、自分で考えて行動し、
そして困った時に便利なスマートフォンを使う。このぐらいでいいのではないだろうか?


世の中の何が正しくて何が間違っているのか
自分で考えて「吟味」する
自分の行動や言動に責任を持ち、
いつ死んでもいいように毎日を悔いなく過ごしたい。


優れるな異なれ

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