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月明かりと この世の終わりと

 夜なかに起きると、窓のそとになにか白いものと木の影とが、ぽわぽわと見えていた。

 なんでこんなに明るいんだろう、とふしぎに思いつも、裸眼だから、すべて世界はぼんやりとしている。

 ベランダに出てみようかなあ、でも眠いしなあ、それにもう寒いからなあ、と思って、その日は寝た。

 次の晩も、満月だった。

 ふたたび目が覚めて、トイレに立つと、窓のふちで、なにかがしろく輝いていた。

 月光を浴びて、まるで神々しいくらいに。分かっていた、それがおしりふきと消臭剤のボトルであることくらい。なのにあまりにうつくしくて、感動してしまった。

 そのまま部屋に戻ると、ふたたび窓のそとは、夜とも思えぬほど明るかった。ええい、と思い、メガネを掛け、もふもふの靴下を履いて、夜のベランダに出てみた。

 満月は、わずか西の方から、木々のあいだに覗いていた。月の明かりに照らされて、まるで昼間みたいに、木漏れ日がゆらいでいる。鮮明な光のもと、打ち捨てられた青い虫取り網さえもが、フォトジェニックに見えた。

 やっぱり呼ばれていたのだなあ、と思った。神さまは、わたしが出て来るのを、待っていてくださったのだなあ。

 森が礼拝堂で、天井は青空だったらいいのに、とかなんとか赤毛のアンが言ってはいなかったか。エミリー・ディキンソンにもそんな詩があった。

 夜の森の木々は、艶のある葉が月を宿して、白い実がたくさん生っているみたいで、とても華やかだ。満月は、クレーターがはっきりと見えるほど、大きい。

 わたしは怖くない、と、そう思ったのは、ちらと垣根越しに、隣家のおおきなテレビにニュースが流れているのを、見たからだろうか。

 わたしに不安はない。ウクライナに続いて、イスラエルでも始まったこの戦争が、どう展開していくか。この隙に中国が台湾を攻めたら……だとか、ニュースを見ていれば考えるような想像はしている。たぶん、このぬるま湯は続かない。

 わたしは黙示録を読み返した。七つの教会時代、七つの封印を読み、説教を聞き返して、いま自分がどこを生きているのか、確かめ直した。

 祭壇の下で叫ぶひとたちについて読み、いまイスラエルで殺されているユダヤ人たちに思いを馳せて、ぱらぱらと捲りながら、黙示録の19章に飛んだ。小羊の婚姻のところまで。

 わたしは教わっている。黙示録6章の、第四の封印のあと、次にキリストの花嫁が登場するのは、その婚姻の場面であると。

 だからわたしは、あたらしいエルサレムの輝きを読み、水晶のような川の流れる都を想像し、霊と花嫁とひとつになって、「イエスさま、早く来てください」と言った。

 わたしに不安がないのは、わたしのなかにイエス・キリストが生きているから。わたしにとって、彼がだれであり、彼にとってわたしがだれなのかを、啓示によって知っているから。

 非常用袋も、核シェルターも、備蓄も、金を貯め込むことも、ひとを確実に救ってくれはしない時代に、わたしは、目には見えない隠れ家のなかで生きている。だから、恐れはしない。

 イエス・キリストと、一緒に生きているかぎり、なにが起ころうとも、わたしは大丈夫。ますます暗くなっていく世界も、わたしをもっとキリストに近づけるだけ。

 こうして、ぴったり寄り添えばより添うほど、わたしの思いは確かになっていく。もうすぐ、キリストは迎えに来てくださる。もう長いこと、ここにはうんざりしている。

 そんなことを、月明かりのもとで、考えていた。いまは見えない太陽の光を受け、暗い夜に、燦然とかがやく満月を眺めながら。キリストが太陽なら、その花嫁は月だと、だれかが言ってたっけ。

 月が、西の山に隠れてしまうまえに、わたしも眠ることにしよう。おやすみなさい。

 


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