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drive my car #1

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 光陽自動車の荒木が紹介してくれた運転手は若い女だった。

 若い女と聞いて気後れするかもしれないが、なりは男の子のようだし、口数が少ないからなにかと気兼ねしなくて済むというのが荒木の意見だった。それになんといってもドライブテクニックが抜群であると。サーキット仕様の86を乗りこなすのを見て、この車はこう乗れと言わんばかりの圧巻の走りだった。
 自宅と稽古場の往復のドライバーだから特別なテクニックはいらない、と言わずもがなのことを言うと、
「まあ、そう言わずに、一度会ってやってくださいよ。いろいろと苦労してる子みたいで。オレとしてはチャンスをやりたいというか、親心というか」
 意味深長な梶原の視線に気がついて、いやいや、そんなんじゃないから、と荒木は言下に否定した。
「女として意識することはまずないから。その点も安心ですよね」
 返す刀で射すくめられて、若い女はもうこの年になるとなにかと鬱陶しいんだよ、とは梶原は言わずに、微笑で受け流した。

 梶原の愛車は先輩俳優から結婚祝いに譲り受けたものだ。車好きのその大物俳優は、アラン・ドロン主演の『サムライ』公開時に主人公が盗むシトロエンDS21に一目惚れし、早速それを並行輸入した。いざ手にしてみて自分には似つかわしくないと判断され、数回乗ったきりガレージにしまわれた。筋金入りの車好きだから、乗らなくなった車でも、整備や維持には相当の金をかける。
「二十年以上前の代物だが、新品同様だ。君はどことなくあの映画の主人公の哀愁を彷彿とさせるし、ぜひ乗ってもらいたいんだが、迷惑だろうか」
 喜んで、と引き取って、あれからはや三十年である。ここ数年は毎年のように不具合があるが、相応の時間と金をかけて大切に乗ってきた。この手のクラシックカーの修理にかけては日本で随一だろうと、光陽自動車を紹介され、なにかあればすべて光陽の荒木に委ねている。
 その日はスターターの不調を診てもらっていた愛車の戻る日で、取りに出向くと、そこで佐波響可を梶原は紹介された。
「荒木さん、困ります」
 梶原が言うと、荒木が取りなそうとするのを制するかのように女は深々と頭を下げ、
「わたしがご無理を申し上げました。わたしが運転するお車に乗っていただいて、それで判断してはいただけないかと」
 ずいぶんと押し付けがましいんだな、これだから若い女は……と辟易するも、ちょっとからかってやりたいような気持ちも萌して、
「いいでしょう」
 と鷹揚に答えて、ちらりと荒木に視線を送ってから後部座席のドアのノブに手をかけると、
「あの」
 と娘。
「お車の性格を見たいので、五分だけお時間をいただけないでしょうか。この辺りをお車で一周させてください」
 梶原は改めて娘を見た。小柄な女だ。化粧気はなく、表情に乏しい。美しくはない。髪は後ろで団子にまとめ、その上から男物のキャップを被っている。黒のタイトなブレザーに白黒のストライプのカットソー、下はややゆったりめのベージュのチノパンに足元はコンバースの白のスニーカー。とてもアプリカントの服装とは言えんな、などと品定めするような目になる自分がたちまち嫌悪され、相応のカジュアルさで、
「いいよ」
 と言ってキーを放った。受け取ると、再び頭を下げてから、娘は運転席に乗り込んだ。
 娘がキーを回す。エンジンは一度でかかった。荒木が会心の笑みを浮かべる。一速の出だしはまずまずだが、問題は二速へのシフトアップだ。これはまずスムーズにはいかない。運転がうまいと自称他称する誰彼が、これ、整備不良なんじゃ……と難癖をつけるくらいのもの。梶原でさえいまだに半クラッチの位置を間違える。そうすると車体は大きくがたついて、眠っている者は必ずや目を覚ます。案の定、公道に出る間際に娘はシフトアップして車体をつんのめらせた。梶原が笑い、荒木が肩をすくめる。お車の性格ねぇ……と梶原はひとりごちる。
 五分きっかりに娘は工場のガレージに戻ってきた。車を降りると、
「よくわかりました」
 とだけ言って、キーを梶原の手に戻した。今度は頭を下げなかった。
 どうします、という荒木の視線のうながしをとらまえて、それじゃ、ドライブに行きましょうか、と梶原は軽口を叩いた。
 後部座席に身を置いて目を閉じた。エンジンがかかる瞬間はメゾフォルテ。それから瞬時にピアニッシモ。ここからクレシェンドであってほしいが、どうしたって音は中途で跳ね上がる。その不快を理由に断ればよい。ピアニッシモがつづく。それもモデラート。なにをもたついている。早くガレージを出ないか。左折して公道に出るがいい……。目を開けた瞬間に梶原は息を呑んだ。車はとうに国道に出て、軽快に走っていた。止まっているときのエンジン音とほとんど変わらずに。ピアニッシモ。そしてモデラートに。
 死んだ妻のことが不意に思い出された。この車をうまく乗りこなせたのは、妻のほかはいない。初めメゾフォルテでじきピアニッシモ。そしてモデラート。妻の運転はこれだった。あたかも幽玄なクラシック音楽に耳を澄ますようにして、幾たび彼は妻の運転するこの車の走り出しを味わったことだろう。この車を愛したというより、その発進の滑らかさをこそ愛したのだと言えた。そして今、彼のこよなく愛した音楽が図らずも耳に蘇った。梶原はその動揺が表に出たのではないかと少々不安だった。
「これより戻ります」
 言って、佐波響可はしなやかにハンドルを切った。

(つづく)

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