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今日の涙は明日の糧に

突然だった。
あまりにも突然。

令和2年2月28日。
コロナウイルスの感染予防対策のため、全国の小中学校・高校の多くは、この日が3学期最後の登校日となった。

各自治体によって対応が異なり、また、地域ごとに感染の拡大状況も異なるため、一律に従わなければならないという内容ではない。
ゆえに「要請」という、やや曖昧な言い回しになっている…はずだ。

そんなこと、言わずもがな。
良識のある大人だったら、3秒くらいで理解できると思うけど。

我が家の状況はと言うと。
残念ながら、神奈川県相模原市在住のため、危機感は非常に高い。
我が家は、小学生が二人いる。
主人は持病持ちで、感染すれば重症化リスクが高い。
義母はケガで入院中だが、高齢のため重症化リスクが非常に高い。

それでも、私は在宅ワークなので子供を自宅で見ることが出来る。
急に長い長い春休みがスタートして、子どもたちはきょとん顔だ。
ご近所さんも、皆一様に困り顔だ。

私の住んでいる場所は、1〜10年以内に分譲された住宅が密集しており、小学生がうじゃうじゃいる。
一人が表で遊びだしたら、あっという間に10人規模で小学生が遊びだす。
そういう場所だ。

というわけで、庭で遊ばせることすらためらわれる。
なんということだろう。
と言っても、ガチで市中感染のリスクが大きいので、もう背に腹は変えられない。
我が家は、出来る限り自宅に籠城する方針だ。

唯一、なんの持病もなく、働き盛りで殺しても死なない肉体の私だけがまあまあ外出をする程度。
憎きは新型コロナウイルス、それだけだ。

でも、別に我慢できないことじゃない。
だって、命には代えられないって私は理解できるから。

でも、人生の節目に当たった人は?
卒業・入学・就職を、この春に控えていた人は?
唐突に、小学校生活の最終日がドカンと目の前に現れたら?

昨日、私がたまたま庭に出ているときに、6年生の女子グループがとことこやってきた。
3人組の女子たちは、ちょうど我が家の前が分岐路らしく、毎日そこで5分程度立ち話をしてからそれぞれの方向に帰っていく。

毎日繰り返されていた光景を、私は知っていた。
だから、瞬時に理解した。
毎日繰り返されていた光景が、今日で終わりなのだと。

6年生の女子3人は、ランドセルと体操着などの荷物を抱えて、いつものように立ち止まった。
何を話しているのかはよくわからないけど、いつもより沈黙が多かった気がする。
でも、いつもより遥かに長い時間、彼女たちはそこに居た。

離れがたい思いが、ちょっぴり切ない後ろ姿から痛いほど伝わってきた。
いつもはコロコロとよく笑う彼女たちだけど、昨日は笑い声すら切なかった。
涙は見せなかったけれど、それをひた隠しにするのがわかった。

別れ際、彼女たちはいつもよりたくさん振り返った。
大きな声で、こう言っていた。

「春休みになったら、遊ぼうね」
「電話するね」
「絶対に遊ぼうね」
「コロナにかからないでね」

青春時代を忘れた私には、そのドラマは新鮮すぎた。
刺激が強すぎた。

もう会えないわけではない。
同じ中学に通うのだろうと、容易に想像はつく。
でも、その別れは彼女たちにとって一つの時代の終わりを象徴する別れとなるのだと思うと、どうにも胸が苦しかった。

少年少女達は、きっとこの日のことを忘れないだろう。
一生胸の奥から離れない、青春時代の切ない想い出として刻み込まれることだろう。

それでも、彼女たちは成長する。
時が流れれば、中学の制服に袖を通し、新生活が否応なしにスタートする。
それも、まだまだ先行きは不透明だけど。
きっと、一年後には笑って過ごせる日常がまた訪れる。

その日のために、今私達は唇を噛み締めても耐えなければいけない。
今、この一瞬のために未来を踏みにじってはいけない。

青春の切ない1ページと引き換えに、人生を途絶えさせてはいけない。
今は耐えるべきとき。
いつかこの思いは報われる。
ささやかな日常を満喫できる時は、再び訪れる。

そう、思わされた。
今、この一瞬を私は忘れまいと。
今日の涙は明日の糧に。
たくましく、今を生きよう。
半年後、1年後の未来のために。

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