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敬いの気持ちが服装に表れる

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昨日の投稿で紹介した中江藤樹先生のエピソードで、私が好きなものがあります。

藤樹先生が亡くなられて後、一人の武士が先生のお墓を訪ねようと小川村にやって来ました。
ちょうど畑を耕している農民がいたので案内を頼むと快く応じて、先に立って案内をはじめました。

お墓に向かう途中で農民は自分の家に寄り「準備があるのでしばらく待っていて欲しい」と言い中に入ります。
かなりの時間が経って、武士が『どうしたのだろう」と訝しんでいると農民が羽織袴を着け出てきます。
武士は「この農民は武士である自分を敬って、このような格好をしたのだ」と気分よく案内してもらいます。

先生の墓所まで来ると、農民は入り口の戸を開け武士に中に入るように促し、自分は戸の外で地面に跪いてお墓にお参りし、「先生のお墓にお参りする時はいつもこのようにしています。」と言います。

その時に初めて武士は、農民が着替えたのは藤樹先生を敬うためであり、死後も先生に対する敬意が変わらないことに感銘を受けます。

藤樹先生の映画が作られた時に、このエピソードの武士は大塩平八郎という設定になっていました。
大塩平八郎は幕末期ではありますが同じ陽明学者。
映画のシナリオライターはそのあたりに感じるところがあったのかもしれません。

農民が羽織袴に着替えたのは、そのようにルールが決まっているからではありません。
また周りの目や意見を気にしたのでもありません。
敬愛する先生の墓所に行く時に「そうせずにはいられない」気持ちがあったから着替えたのです。
行動する意識の対象が先生に向けられているのです。

私のお寺で法事や葬儀を行う際の質問で一番多いのは「●●をした方がいいんですよね?」またはその真逆の「●●をしない方がいいんですよね?」という質問です。
なぜそのような質問が多いのかと言えば「そうした方が御利益があるから」「そのようにすると罰が当たるから」「そのようにしないと周りから非難されるから」です。
つまり行動する意識の対象が自分に向けられているのです。

服装でも、読経でも、作法でも、自分にメリットがあるから、もしくは自分にデメリットがないから、という目的からの振る舞いに敬虔な気持ちがあるとは思えません。
よく見かけるシーンですが、親の法要の際に施主が親戚から「なぜ●●をしていないんだ」と詰問されることがあります。
もしその後、施主さんに何か不都合な出来事が起きたら、親が怒って祟りをなしたのでしょうか。
自分にデメリットが降ってきたら、親でさえ鬼か悪霊に捉えてしまうのでしょうか。

先の農民も、先生を神格化して崇めているわけでもないと思います。
先生の教えが今も自分の中に息づいていることを感じ、その教えを教えてくださった、伝えてくださった先生への敬意を表さずにはいられないのでしょう。

皆さんは親兄弟をはじめ、周りの人々を自分のメリットやデメリットで神や鬼にしていないでしょうか。

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