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何故証明を読むのか


本文の対象者

理論系院生以上を除く方に対して証明とどういう風に向き合えば良いのかを書こうと思う。特に証明を読む意味合いは
1, 学部生
2, 趣味勢
3, 院生以上
で違ってくると思うのでそれぞれにてどういうモチベーションで読むのかを、私の場合に説明できれば良いかな、と思っている。

証明は読む必要がない

まず証明は社会や数学界に還元する意味合いでは読む必要はない。何故ならば本に証明が出てきた時点で、定理はエライ人が認めたとして正しい事が言えており、わざわざ一個人が重複してそれを認める必要はないからだ。故に既知の証明を読んだとて社会に還元する事は出来ず、そういう意味では意味がない。
つまり証明を読むのは自分の為であり、その性質故読む事を誰からも強制されるべきでないものであり、もし強迫観念が働き読んでいるのなら別に今すぐそれを辞めても問題は起きない。
また、自身の中にある数学世界の完備性に拘る方も多いと思うが、数学世界の完備性も一個人において満たされておく必要はないと個人的には思う。他学問や実社会と同じように分業的にカバーしておけば良いのだ。
これに関して数学的に美しい人は個人で完結したいと思うかもしれないが、完結したつもりになったとして誤読による錯覚を数学的に埋めることは哲学的に不可能なのだ。即ち数学的命題の正誤はこの世が存在する前から普遍的に存在するものであるが、その理解は不完全なる一個人由来であり、突き詰めると実は経験則である。つまり人間の存在が実現値としか見做せない以上、人間が出来るのは経験則による誤解確率を無限小にする努力のみである。そう考えるといくら数学が神聖であり、証明が公理からの演繹とは言っても、「複数人の凄い人が認める」という俗物的妥当性から逃れる事は出来ない。残酷だがこれは覆せない。

学部生が読む意味

学部生が数学的証明を読む意味は主に自己研鑽の為だと思う。
勿論人にもよるが大体の学部生は論理的思考に弱い。つまり証明を読むのはその訓練である。今は社会人趣味勢であり、証明はあまり読まない私も学部生の頃は読んでいた。しかも多分その4年間についてはギャップを1行たりとも逃さなかったと思う。今考えると無駄であるが、しかし数学(数学に限らないかもしれないが)ではその無駄の積み上げこそ重要であるように思う面もある。

・・・少し前に「本を読んでも頭が悪い人がいるのは何故か?」という質問を見たが、これは当たり前である。本を読む目的は多くあるかもしれないが、自己成長の為に最も重要なのはそこに書いている知識を習得する事ではないと思うからだ。つまり「本を月にX冊読みました凄いでしょ?」というのは知という側面からしたら(仮に習得してたら)凄いかもしれないが、次に言う意味からしてはダイレクトな価値表現では無い。
最も重要なのは「思考している状態を生み出す事である」。本当に必要な能力と言うのはこの状態が続くことで習得できるものである。即ち本は思考の触媒としての価値を持つのだ。ここにおいては「読めた」、「読めない」は関係ない。本の良い所は経験則から価値のある思考方向へ向きを持っている、と、ある程度信用していいから安心して思考の土台にすることが出来る所にある。

話を元に戻そう。つまり言いたいのは論理的に未熟であり修行僧的側面がある学部生においては、(先にどんどん進むことも勿論価値は高いものの、と言うかもし出来るならそうした方が良いと思うものの)知識量や読んだ冊数などは度外視し、証明と言う筋トレをすることが重要なのではないかと思う。
・・・しかしこれは趣味勢には当てはまらない事であろう。

趣味勢が読む意味

話を戻すと社会還元的観点からは結局証明を読む意味などない。私もそうだが然らば何故証明を読むかと言うと
1, 命題の意味が分からないから。
2, 命題付近の感覚を洗練させたいから。
3, 自己のアイディアのヒントを得たいから。
この3つが思いつく。
このうち3番目の読み方は院以上の専門家がする読み方ではないかと思っており、私はしないものの院生の頃はこの観点が確実にあった。
趣味勢としてはもっぱら1と2である。まず1はややこしい事は考えずにストレートな意味である。つまりぱっと見で命題が何を意味しているのかその本質的な部分が分からない事は度々ある。著者の誤植も疑ってしまうと、自身の中で命題が意味確定的でない場合もある。命題の意味を、その本質を、確定させたいから読むのである。この意味の場合は読む事はほぼ必須になる。ラッキーな事は長く複雑な証明が付属している命題についてあまりこれを感じたことが無いので、個人的には長いのはほぼ読む必要がないと思っている。
2については結局数学は理論構造、その全体の感覚や雰囲気が分かる事が命だと思っているので(そういう意味では証明のつかない学問と変わらない)、その感覚を磨きたいという意味で読むプラスアルファの部分である。これもラッキーな事に長い証明が必要な時はあまり無いように思う。

まとめ

証明を読む理由、或いは読まない理由を場面によって紹介した。
個人的には趣味勢として本業もあるし、忙しいしであまり証明を読まない。読んでも短い証明だけである。そして読む読まないの判断は経験上何となく予想はつくので、あまり証明の読み方に迷いが無い。しかし昔は証明と言うものと「どう向き合ってよいのか?」とか「理解とは何か?」とか哲学的な部分で長く悩んでいたのでその時の私の為に楽観派としての意見を書こうと思った。

今回は一趣味勢にしか過ぎない私の場合の証明の読み方を紹介してみました。


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