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「好きなことのはずなのにめんどくさい」の原因と対処法

最近、小学生のように「時間割」をつくって生活している。

1時限目「執筆」8時間
2時限目「遊ぶ」3時間
3時限目「仕事」3時間

という感じ。

時間割をつくると、「執筆」の時間は執筆以外のことを考えなくて済む。急ぎの仕事を思い出しても、それは「仕事」の時間にやればいいや、と、健康的に思考を先延ばしにできる。

ただし、時間割をつくればめちゃくちゃ集中できるかというと残念ながらそうでもなくって、「執筆」だけに集中しようとしても、気が散るときは散る。

好きなことだけど、集中できない。飽きる、めんどくさい。なんてことはざらにある。



自分は「文章を書く」のは好きなほうだ。

好きなことだけに没頭できる時間を8時間も確保したのに、やっぱり書くのめんどくさいな、書くの飽きたな、もう書きたくないな、他のことをしたいな、と思う瞬間がある。

好きだけど飽きる。好きなはずなのにやりたくない。

実はこの矛盾の中に、自分を理解する大きなヒントがあったのだった。



書くのに飽きたと感じる瞬間の自分をよくよく観察してみると、

・次に書くべき内容が思いつかない
・今書いている内容が本当におもしろいのかわからない

みたいな瞬間、「つかれた」と感じるらしい。

一方で、つかれず何時間も没頭してしまうときは

・頭の中の思考をひたすらキーボードで叩いている
・その過程で、どんどんまた新しいことをひらめいて手が追いつかない

みたいなときで、こういう時間は最高にキモチがいい。

なるほど自分は、

・脳内のモヤモヤを言葉に置き換える
・モヤモヤとモヤモヤがつながって新しいひらめきが生まれる

ときに快感を感じる。その快感を「書く」という作業を通して得ていたらしい。



一方、好きだと思っていた「書く」という作業の中で、実は一部、めんどうだと感じていた作業があって、それはどうやら「他人の目」を気にした作業であるらしい。

ひらめくままに書き綴った文章(ここまではただただ愉しい)は、それだけだと読みにくいので、体裁を整えなくてはいけない。

自分以外の人が読みやすいように、と文章をなおしているうちに、今度は

(自分はおもしろいと思ったけど、この文章、他の人が読んでもおもしろいのか……?)

という疑問が生じてきたりする。


こういう作業は、実は僕はそこまで好きではなかったらしい。もっと正確に表現すると、

「自分の書いた文章に共感してもらえる」ことは好きだから、そのために文章を整える作業は、それ自体あんまり好きじゃなくてもやれる、という感じだ。

思えば私は、自分で書いた文章をあまり読み返さない。書くという行為そのものが快感なので、書き終わった文章はその役割をすでに終えているからだ。

でも、バズった自分の文章を読み返すのは好きだ。それは自分の文章が共感してもらえたことの証明だからだ。

このあたりは個人差が大きいところだろう。あなたは自分の創作物を、他者の評価関係なしに自分で楽しめるタイプだろうか。



この「快感の違い」を認識しておくことは、とても大事なことなんじゃないかと思っている。特に自分みたいな「承認欲求駆動タイプ」の人間は、どんどん「人に面白がってもらえる文章を書く」ことばかりを追求しがちになる。

実際に面白がってもらえているうちはそれでいいんだけど、がんばってつくったのにあまり反応がもらえない時期が続いたりすると、創作に対するモチベーションが失われる。創作自体が自分のアイデンティティでもあるから、自信が失われ、自己肯定感が低下し、生活全体が乱れていく。

でも、元々自分にとって、書くのは誰かに見てほしいからじゃなくって、思考を言語化するのがただキモチよくて続けていた行為であり、他者からの評価は存在していなかった。

それがインターネットによって、「共感される悦び」にたやすく上書きされてしまったのだ。

しかもそれによってお金を稼ぐとなるとさらにやっかいで、そこに「お金を得る悦び」まで加わって、自分の根源的な快楽がどんどん見えにくくなってしまう。

だから自分にとっての根源的な快楽を見失うことのないよう、いつもはっきりさせておくことで、他人からの評価はさておき、お金が儲かる儲からないはさておき、その創作活動から根源的な快楽をいつも得られる時間をつくっておくことが、創作によって生きていくなら必須の習慣なのではないだろうか。


まとめ

✔一日の中に「好きなことだけに没頭できる時間」をつくる
✔その時間の中で、めんどくさい、飽きた、と感じる瞬間を観察する
✔その感覚を手がかりに、自分がその活動から得ている個人的(根源的)快楽と、それ以外の快楽を区別する
✔そうして発見した個人的快楽だけを追求できる時間を、一日の中につくる


自分の場合、「ひらめきの快楽」が根源的快楽だということがわかったが、それは実は、必ずしも「書く」必要はないということがわかった。

そこで散歩中、ラジオでひとりで話しているような体で、自分の思考を言語しながら歩くのが、今、一日の中でいちばん愉しい時間になっている。

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