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なぜ「あきらめる」と色々うまくいくのか

最近「他力」について考えている。


他力の語源である「他力本願」は親鸞の言葉だ。これは「他人の力をあてにする」という意味ではなく、阿弥陀如来の「衆生を助けずにはいられない」力をたよる、ということなのだそうだ。

阿弥陀如来にも人間のような業(どうしようもないこと)があって、「善人も悪人もなく、みんなのことをつい助けてしまう」という性質があるらしい。仏の業をたよることが他力本願。

今回は「他力」本来の意味については深入りせず、語源も含め自分なりに色々と他力について調べ、考え、経験したなかで構築されてきた「他力」の世界観について書いてみたい。



すごくざっくりと「他力」がどんなパワーなのか、自分のイメージを説明してみると、

・身近な人からの手助け

これはもちろん含まれる。さらに

・社会制度のような「仕組み」
・流行やテクノロジーといった「時代の流れ」
・災害や恵みをもたらす「自然」

といった自分の外で働く様々な力とか、

・自分の中から突然湧いてくるやる気
・困っている人をみかけるとつい何かしてあげたくなる衝動性

といった自分の意思とは無関係にはたらく力とか、

自力でどうこうならない力を全部ひっくるめて「他力」に含まれると理解している。つまり「自力ではない世界」は、すべて他力の世界。

だから「他力とは何であるか」を説明するのは難しいので、「他力とは何でないか」を説明することでその輪郭に迫ってみたい。



たとえば、他力の世界に時間という概念はない

10年後くらいにできるようになっていたらいいな、と思っていたことが1年後に叶っていたりするし、10代のころ夢見てすっぱりあきらめたつもりの夢が、20年後とかに叶っていたりする。


たとえば、他力の世界に「自分がやりたいこと」はない

「これこそ、自分がやりたいことだ」と思うことも、実はたまたま育った環境で、そう思い込んだだけかもしれない。あるいは親がやりたくてできなかったことを感じ取り、いつのまにか自分がやりたいことだと感じるようになっただけのかもしれない。

「自分がやりたいのか、やりたいと思い込まされているだけなのか」というのは自明なようでとても曖昧だ。

そして、別にそれはどっちでもかまわないのだ。


たとえば、他力の世界に「足りないもの」はない

インドには、修行のためにずっと座ったまま生活する修行僧がいるのだそうだ。昔テレビでその生活の様子をみたとき、彼は、移動するとき弟子の人たちに持ち運ばれていた。

彼は何もできないからこそ、弟子に「彼の世話」という役割が生まれる。それは弟子にとって、修行であり、仕事であり、生きる意味となる。

他力の世界において「できない=足りない」は、他者と連結するために必要不可欠な空白なのだ。


たとえば、他力の世界に「勝者と敗者」はいない

他力の世界にも勝負はある。勝つ者がいれば負ける者もいる。

しかしあるひとつの勝敗は、あるひとつの勝負の結果にすぎない。それによって勝者や敗者といったパラメータが人間に付与されるわけではない。バトルが終われば回復するタイプのステータス異常だ。毒じゃなくて混乱みたいな(人を選ぶ例え)。

他力の世界において、勝負の目的は勝負そのものを創造することにある。



他力の世界は、知れば知るほど「こっちが本来の世界なのでは……?」って感じがする。

我々はいつの間にか、「自力の世界」に生きていた。努力するのが当たり前。自立しているのが当たり前。何もしていないと不安になる。つねに”成長"していないとダメ人間になっていくような気がしてしまう。

でもやっぱり、「自力の世界」はどこかバグっている気がする。人工の世界、って感じがする。明日の食べ物にも困っている人がたくさんいる中で、配るほどお金が余っている人もいるのはやっぱりグロテスクだ。

ゲームバランスが狂ったソシャゲみたい。古参と運営がズブズブ。こんなんじゃ新規プレイヤーの参入なんて見込めない。

自力の世界は、ソシャゲであり魘夢の夢でありマトリックスだ。

でもこの世界が人工物だと気づいたとして、「起きる」のはやっぱり怖い。炭治郎は魘夢の夢の中で、目を醒ますために首を切った。自分にそれができるだろうか。モーフィアスの差し出す青い薬を、自分だったら飲み込めるだろうか。


しかし幸いなことに、この世界は魘夢の夢やマトリックスのように、特殊な方法で「起きる」必要はなさそうだ。自力と他力の世界は混在している。他力で生きている人も自力で生きている人も、この世界には同時に存在しているし、お互いコミュニケーションもとれる。

とはいえ自分はまだまだ、自力世界の住人だという自覚がある。人より優れていたいと感じているし、そのための努力もしたくなってしまう。

でも最近ようやく、他力で生きている人の見分けがつくようになってきたから、彼らを参考にして、少しずつ他力の世界に引っ越しを進めている、つもりでいる。首に刃を当てるよりよっぽどイージーだ。



そもそもなぜ自力から他力に移りたいと思うのか。ここまで読んでくださった方に理由をわざわざ語る必要もない気がするので割愛する。


だから今回は最後に、色々と試行錯誤する中でみつけた、いちばん手軽に他力の世界を実感できる方法を紹介したい。

そこそこ長い間、決断できずにいることや、解決していない悩みなんかがもしあれば、この方法を試してみてほしい。


やり方はとてもカンタンだ。

「これだけの期間、考えても対処してもどうにもなっていないのだから、もはや自力ではどうしようもない。もう自分で解決するのはあきらめた。あとはもう頼んだ。よろしく。」

と、他力にすべての対応を委ねるのである。


するとどうなるかというと、

突然、解決策をひらめいたりする。
ちょっとしたきっかけであっさり決断できてしまったりする。
突然、手伝ってくれる人が現れる。
何も起きずに何年も経つが、気づいたらどうでもいい問題になっている。

なんてことが起こる。

なぜそうなるのかを綺麗に説明することはできない。高度な人工知能が、人間には理解不能な解決策を導き出すのに似ている。他力は人間の理解を超える。

しかしこの他力による問題解決は、フラグが立って回収されるのに大体5年以上はかかるので、10代でこの法則性に気づくのは無理だと思う。20代は自我と肉体の欲求が強すぎて視野狭窄でなかなか気づけない。30代以降でようやくおぼろげに意識できてくる、くらいの感じ。

いやいやよくわからん、という方も、よくよくこれまでの経験をふりかえってみてほしい。あきらめた途端に問題の解決の緒がみえた、なんてことが、これまでたった一度もなかったといえるだろうか。

あんなに辛かった過去の思い出が、気づいたら些細な出来事、思い出のひとつになっていた、なんてことが一度もなかったといえるだろうか。



人間は自分で自分のことを考えるのが苦手だが、他人のことを考えるのはけっこう得意だ。

恋愛相談がわかりやすい。人の恋愛にはいくらでも冷静かつ客観的な意見を言えるのに、いざ自分の恋愛となると、あれこれ言い訳をしながら尽く、間違った判断や行動をとってしまう。

人間は「自分ごと」を解決するのがとても苦手なのだ。自分ごとになりすぎた問題のことを「悩み」というのだろう。

忙しいから、恥ずかしいから、どうせ無駄だから、まだ相談できるほど自分の中でまとまっていないから、とか何とか、いろいろと理由をつけて誰にも相談をせず、自分ひとりでなんとかしようとしてしまう。

悩んでいるとき、その問題はあなたによって隔離されている。

悩みを手放すと(あきらめると)、雰囲気が変わる。憑き物がとれたような感じになる。話しかけづらいような、触れづらいような雰囲気がやわらぐ。

すると周りの人たちが少しずつ、あなたに干渉しやすくなる。あなたへのアクセスが少しずつ開かれていき、隔絶されていた悩みに他力が流れ込みはじめる。


悩みも願望も、本質的には同じものなのだろう。執着を手放したときに、我々は他力に接続されるのだ。



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