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ヱリ子さん思考日記「樹海と母性、校長先生のお話について」

8月某日、青木ヶ原樹海を散歩する。ちょうど森に関する小説も書いていたから、土の匂いや葉影の様子に目が行く。根っこが手足のように地面にとび出して這う様子は、真昼間の陽光の中ではおどろおどろしい趣もなく、森はどこまでも優しい。木の根がうねり高く浮き上がって自然の鳥居を作り、その陰に指先ほどのシメジのような由緒正しきキノコが凛と立っていたりすると、胸の中で襞がムズムズと嬉しくなる。

末井昭さんの著書『自殺』では、青木ヶ原樹海での自殺防止ボランティアさんのインタビューに触れている。その目的のために森へ入る人というのは、慣れると直観で見分けられるのだと言う。しかし、すでに睡眠導入剤などを服用していると、見えない場所へ突進していくかのように歩く速度が異様に早く、二次被害の心配やそもそも追いつけないという理由で、もう声は掛けられないらしい。また子どもの自殺というのは、少なくともこの本の刊行当時はまだなく、ただ母子で、という事例は時たまあったそうだ。テントを張って、その中でクリスマスパーティのようなことを最後にやって。その夜の月明りや、森の匂いや、温かなランプの光など、ある意味美しいであろう風景を思うとき、わたしはどうして泣く直前の歪んだ顔になってしまうのだが、その一方で、心中や子殺しの背景にある母親の苦悩に肩入れしがちな日本の世論の風潮には、どうしてもかつてHarakiriや天皇陛下万歳を美談にした民族の病巣を感じてしまう。「同情されるほどに派手にやってしまえば、返って顔が立つ」とでも言うような隠微な共同体思考の残骸は、まだまだ空気の中に散らばっているし、わたしたちはその空気を日常的に吸って、体内に取り込んでいる。
 それでも、現実にやるかは別次元として、子育て中にこの子をどうにかしてしまいそうだとふと頭を過ぎった瞬間がある人は、決して少なくはないだろう。そして、その心理が、たとえば「息子のためなら、喜んで命を投げ出すわ!」とフィリピンのオカアサンから通訳を通じて伝わった言葉に対して、温かな賛同の拍手が自然に沸き起こった母親サークルの、当たり前のような世界共通の覚悟に実は深く根ざしているのなら、こんなにやるせないことはない。そのフィリピンのオカアサンの息子さんは日本人とのハーフで、保護者会では、日本語の分からないオカアサンの隣に座って耳元で内容を伝えたし、オカアサンがあまり理解できていないときはいつも保護者向けのプリントを自分で読んで、必要な提出物を出した。そんな母子の強い絆が、腹を出てのちもなお生命の一体感に深く繋がってゆくとしたら、それは言祝ぎにも呪いにもなる。言祝ぎであってかつ呪いである、という方がいっそ正しいのかもしれない。
 
 本で得た樹海に対するイメージや、それに基づくわたしの思考とは裏腹に、森の中は強い夏の日差しを適度に遮る葉陰に守られて、どこまでも長閑だ。見えない場所へ向けて早歩きをしたその人も、テントの中で最後の笑い声を響かせたその母子も、まるで存在しないみたいだ。存在しないなんてあんまり酷いと思うのに、わたしの身体は森の空気に気持ち良くなりすぎていて、どうしても存在しないことにしたいらしかった。ああ、空気が美味しい。何かが蠢いたと思ったらそれは揺れる葉陰で、もうそれだけでなぜか嬉しい。真っすぐに伸びる木もあれば、途中ひどい怪我のようなものを負い、しかしそこから這い上がるようにうまく間隙を見つけて斜めに伸び、存在感を発揮する木もある。自分はどちらかと言えば後者の木のようなものにしかなれないだろうから、どうしても重苦しく感じてしまい、真っすぐな木のほうを好んで愛でた。結局森は、樹木という群衆の集まりなのだ。
そして、それがどんな木であっても、うまく陽光が当たる条件を得た位置には必ず実生が生えていて、それはひどくわたしを感動させた。さらには、その感動が、あまりにもありきたりであることにもまた、なぜか同時にショックを受けた。なんて天邪鬼だと自分でも呆れるが、しかし、もしわたしが校長先生だったなら、夏休み明けに森で見た樹木や実生を人間の成長に準えて長い話をしてしまい、猛暑の校庭に並ぶ学生たちを白けさせること請け合いだ。どうしよう、とわたしは意外に真剣に悩みながら森を歩く。二学期最初のお話では、もっと生徒にちゃんと刺さるような路線で話をするべきか、しかしそんなに生徒に日和る必要は果たしてあるのか.......。校長という一個人として、その時々の感動を素直に伝えればよいのではないか。そもそもわたしは教員でもなく、この先の人生で校長先生になる可能性が限りなくゼロに近いはずなのに、校長先生になったら気の利いた話を自分はできると漠然と思っていたけど、やはりできないのかもしれないと思い悩みながら、気持ちのいい森の中を散歩する。いつの間にか思考は、校長先生のお話問題という樹海を彷徨っていた。
それにしても、気の利いた校長先生になれないことに森の中で悩むことすらできるなんて、思考はなんて自由なんだろう。命を投げ出さなくても自由はきっと探せるし、それは不意にやってくるんだよ。森に溶けている誰かにそう言ってみたかったけれど、もう知ってるよ……と言われそうな説教くさい話にやっぱりなってしまったことを、わたしの中の校長先生のために憐れみながら、森を愉しんだ。
 

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