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そっと載せておく愛らしいエンタメ青春小説~「MY FAVORITE SONG」

(約15000字くらい)
 物心ついた頃から、周期的に見る夢がある。俺は自転車に乗っている。乗っていると言っても俺は漕ぎ手ではなく、まだほんの四歳か五歳のガキとして母親の自転車の後方にちょんと乗っかっている。母親はピチリと体に張り付くようなTシャツを着て、俺に背中を向けている。寒くもなく海も穏やかで、多分うららかな陽気の中、自転車は弧を描いていくつものカーブを爽快に曲がってゆく。ガキの俺は視野が狭いのか、ほとんど風景は目に入ってこない。カーブを曲がるたび、母親の肩甲骨がそこだけ別の生き物みたいに蠢くのを、俺は凝視している。だんだん、その肩甲骨の動きがなんだか気味悪くなってきて、ガキの俺はぐずり始める。はいはい、りんくん大丈夫よ。母親は自転車の操縦を気にかけながら、優しい笑顔で一瞬だけ俺を振り返り、あやすように、鈴の音みたいに澄んだ声で歌い始める。ラブイズオーヴァー悲しいけれど/終わりにしようきりがないから。ガキの俺は、しみじみと母親の歌声と哀感のある切ないメロディに聴き惚れる。私はあなたを忘れはしない/誰に抱かれても忘れはしない。夢を見ている方の今の俺は、いつも夢に向かって突っ込みを入れる。おいおいなんだよ、それ。ガキの子守りに歌うような歌じゃねえだろ。歌声にあやされて恍惚の呈でアホ面をこきはじめるガキの俺と、自転車を漕ぎながら熱唱する母親。おい、お前らふざけんな。何でしっかりあやされてんだよガキの俺。いくら叫んでも、母子は後光でも背負っていそうな神々しい幸福感に包まれている。おい俺、そこのガキの俺。何度呼んでも声は届かない。そうして最後は、ふざけんなだのお前らやめろだのという自分の声で目が覚めるのだ。
 それほどしょっちゅう見るわけでもないけれど、あまりにも長い間俺の定番の夢になっているので、インターネットで曲名を調べてみたら、欧陽菲菲という歌手の流行歌『ラブ・イズ・オーヴァー』だった。ずいぶん昔に流行ったらしい。でもこの夢は、単なる夢でもない。と言うのもガキの頃、確かに俺は真知子の自転車の後ろに乗って毎朝保育園まで通っていたし、実際、真知子が自転車を漕ぎ漕ぎ、ピンク色のイヤホンを耳の穴に突っ込んで鼻歌で歌っていたのはこの歌だった。小学生の頃は、まだこの夢が好きだった。少し小さい頃の幸福な記憶の追体験。そう、確かにそれは幸福だったのだ。俺が気付いてしまうまでは。あの頃からすでに、俺の人生はちょっとズレた場所で展開し始めていたことに。


 「いいじゃないのよ、そんな夢のこと。甘えん坊だねえ、琳太郎。母ちゃんの夢見てグチグチ言ってるなんてさ。もっとおおらかに行こうよってんだ。真治を見習いなよ、この真治を」
 酒井のオッサンは伸び放題の髭にうずもれた唇をすぼめて、軽快に煙草の煙を吐いた。汗と油と金属の匂いが入り混じった店内は、それだけでもう十分にむさ苦しいのに、酒井のオッサンはもうもうと副流煙をまき散らす。
 「琳ちゃん、やっぱこれが一番かっこいいよ」
 「俺のことちゃん付けで呼ぶの、いい加減にやめろよ真治」
 真治は、このところずっと憧れているネイキッド250に見とれながら、こっちを見向きもせずににんまりしている。最近茶色く染めた髪が、スタイリング剤でぬらぬらとテカっている。
 「真知子さんだって、ちゃんとコレでまっとうにやってんだからさあ。ああああっと、真治、気軽にいじくるんじゃねえぞ。まだテメエに売ったわけじゃねえんだからよそのバイク」
 酒井のオッサンは煙草を咥え、右手を鋏にして髪を切る真似をしたかと思うと、即座に煙草を口から離し、バイクに触れようとした真治を目敏く一喝した。
 「そりゃわかんねえよ。オッサンにはさ」
 バイクへの憧れをむくむく膨らませている真治と一緒に、この中古バイク店に出入りするようになって、四か月ほどになる。たった四か月で、この見るからにアウトローなオッサンに俺のことがわかってたまるか。
 「何?K高の優等生の琳太郎サンのお気持ちは、アウトローなバイク屋のオッサンにはわかんねえってわけ?ケツの青いこと言ってんなって。この前オシメ取れたようなもんだろ、琳なんて」
 酒井のオッサンは、瞬時に顔を赤くして頭に上った怒りをドバッと放出したかと思うと、自分の物言いに自分でぐふっと笑った。オッサンの鼻から鋭く煙が吐き出され、俺の顔を直撃する。おうおう自覚あるんじゃん、アウトロー。
 「いいじゃん、真知子さん美人なんだから。恋人くらいできちゃうのは仕方ないよ」
 真治はいつもの腹に力の入らない不抜けた声で、真知子を擁護する。十五歳、高校一年生。まともに声変りしていないのは、もう真治くらいだ。
 「そうだよ、真知子さんあのお色気じゃあ、そりゃ仕方ねえよ」
 なあ、ねえ、とオッサンと真治は、頭の上に花でも咲いたようなアホ面で笑う。だめだこりゃ。結局、真知子を語らせると皆がこういうところに落ち着く。ミニスカートから突き出た真知子の脚は男たちの論理的思考を中断させ、本能に訴えかけるシロモノらしい。
 「真知子さんは、琳ちゃんのことベタベタに可愛がってるんだからさ、それでいいじゃん。母親の役目、ちゃんとやってる人だと思うよぼくは」
 真治が屈託のない笑顔を見せる。
 「真治は十二月が誕生日だっけ」
    酒井のオッサンは、頬をほころばせて嬉しそうだ。真治の誕生日はもう何度も聞いているのに、また同じ質問をしている。十六歳になったら真治にバイクを売ってやる。二人はそう約束して、小さい子供のように誕生日を待ちわびている。真治のバイク熱は、酒井のオッサンの純情を刺激するらしい。
    それにしても。真治のテカった茶髪を見ながら俺は思う。最近、真治のことが妙に引っかかる。真治とは、保育園から中学校まで一緒だった腐れ縁だ。真治の来し方と言えば、それはひどかった。健康不良児みたいに白い顔に、ぎょろりと落ちくぼんだ目をくしゃくしゃにして、いつも意味のない笑顔でいる。小学校時代、俺たちが缶蹴りだの泥警だのやいやい楽しくやっていると、何の脈略もなく満面の笑みでパンチの振りをしながら割り込んできたりして、皆を興冷めさせた。仲間うちに坊ちゃん育ちの度量の小さい奴がいて、真治を本気で不快がって、いつも何倍返しで殴り返してたっけ。真治はやっぱり意味なく笑って、わざとそいつにばっかりパンチの振りを仕掛けに行き、結局自分からいじめられっ子になっていた。真治のどの時代を思い返しても、見た目も振る舞いもやたらと幼くて、何歳か年下の奴が一人紛れ込んでるようにしか思えなかった。小学校高学年頃からさっぱり勉強にもついてこられなくなり、中学時代はもはや亡霊みたいな存在と化していた。誰もが、真治を居ないものとして扱った。友達も、先生も。中三のとき、狡い奴らにつけこまれて、言いなりになって万引きの常習犯になり、補導された。もちろん、指図した奴らはあざとく立ち回ってお咎めなし。それでも、真治は独り補導されたことより、もう友達にかまってもらえないことを悲しんでいるかのように、生白い顔を歪ませた。さすがに見兼ねて、たまに声を掛けてやるようになったのはその頃からだ。ずっと、別に仲が良かったわけじゃない。ただ何となくの善意、いや偽善、いや欺瞞か。真治なんて実際、取るに足らないしょうもない奴だ。底辺の私立高校に進学した真治は、入学後ほどなくバイクに憧れを燃やしはじめた。ちょっと顔つきが変わってきたのは、気のせいだろうか。さっきみたいに真知子のことを批評したのだって、初めてだ。自信とも違う何か。希望とも違う何か。何が真治の顔つきを変えたんだろう。たかだかバイクで、そうそう人間が変わるとも思えない。生まれてこのかた十五年、真治は皆に遅れをとり続けてきた。でも、ヘラヘラと笑う真治の顔の真皮で、たぶん何かが形成されつつある。

 
  有線放送から昭和の流行歌が流れている。
   「琳ちゃん、お帰んなさい」
    手を止めて、真知子が少し振り返る。いつもの明るい真知子の声。
  「ああこの子、息子さん?大きくなって。へえ、K高の制服だねえ」
   還暦にさしかかるくらいの近所のおばちゃんは、べったりと濡らしたワカメみたいな髪のまま、鏡越しに俺を見る。K高はこの辺りの公立ではトップ校だ。おばちゃんの髪に、真知子は几帳面に鋏を入れていく。長い睫毛に守られた真剣な瞳は息子の俺から見てもどこか清楚で美しく、三十路を過ぎてもまだ履いているミニスカートは、テニススコートを履いた少女を彷彿させる。死んだ祖母から真知子が受け継いだこの店の客は、近所の年配者が七割を占め、残りは子供か、真知子に下心を抱くオッサンたちで構成されている。真知子が昭和の歌に詳しいのは、年配客に合わせて店のBGMを選んでいるからだろうと、俺は思っている。
  「どうも、いらっしゃいませ」
 俺は足を止めずにおばちゃんに頭を下げて、さっさと二階へ上がる。まったく、店を通らないと二階の居住スペースに上がれないとは、迷惑な造りだ。埃臭い階段を上がると、ニンニクとトマトのいい香りが漂っている
  「お帰りなさい、琳太郎くん」
  「あ、どうも」
 矢作さんが、新妻みたいなルンルン気分で夕食を作っている。今日はトマトソースがベースなんだろう。包丁さばきも軽やかにサラダ用の人参を細切りにしたと思うと、鍋の中のソースをスプーンで手際よく味見し、みじん切りの玉ねぎを使って手早くドレッシングを作り始める。ジーパンにエプロン姿がよく似合い、身のこなしを見ればすぐにプロとわかる。この人が、俺が物心ついてから数えるところの、第八代目の真知子の恋人だ。矢作さんが来てから、我が家の夕食はイタリアンの頻度が格段に高くなり、日々プロの味を贅沢に楽しんでいる。もっとも、矢作さんがいつも好んで盛り付ける青磁の器は、第六代目恋人だった陶芸家の上原さんの作品だし、今、矢作さんが使っている台所の蛇口は、第五代目恋人だった水道工事士の水田さんが上手に修理してくれたものなんだが。
    真知子が付き合う男は、たいてい手に職を持っている。大工とか左官屋とか畳職人とか、陶芸家とか水道工事士とかイタリアンの料理人とか。付き合い始めは皆、勤勉に働く模範的な成人男性だ。俺にも誇らしく熱心な姿で、自分の仕事を語ってくれる。それが、真知子との付き合いが深まるにつれて、次第に怠惰になってゆく。今回の矢作さんも二か月前、高校卒業後から十五年も勤めあげたイタリアンレストランをついにクビになった。無断欠勤が続く矢作さんを案じて、その店の店長は何度かこの家まで訪ねてきた。働く男の引き締まった表情は見る影もなく、昇天したように底抜けの笑顔を振りまく矢作さんに、店長は困惑した。この店長は情に熱く、その後も何度か家に足を運び、店の二十周年記念パーティの料理を任せたいと頼んでみたり、『こころの声を聴いてみよう ~人生に疲れたあなたへ』と書かれたカウンセリングの案内を持ってきてくれたりしたけれど、店長は二か月前、矢作さんにとうとうクビを告げ、男泣きに一筋の涙を流した。真知子の男たちは職場で買われていた人材が多いらしく、彼らの失業に際してはしばしばグッとくる見せ場があるのだが、今回の矢作さんの失業劇はこの店長のおかげでかなりイイ線をいっており、俺でさえ思わず目頭を熱くしたほどだ。

 午後七時。真知子が美容院の営業を終えて、二階に上がってきた。
 「お疲れさま」
 「あなたも夕食準備、ありがとうね」
   矢作さんと真知子が目配せして微笑み合う。矢作さんの料理はもう仕上げを待つばかりなのだが、ここで夕食開始、とはならない。仕事を終えた真知子はロングヘアの黒髪を簡単に束ね直して、すぐに台所に立つ。矢作さんと俺は食卓の椅子に腰かけて、バラエティ番組を眺める。矢作さんが夕食を作っても、真知子は必ず自分で一品は作る。琳ちゃんには私の手料理が一番だから、というのが理由らしい。矢作さんの動きとは打って変わって、緩慢な動作で包丁や鍋を扱う。真知子の長いポニーテイルがふわりと揺れる。しばらくすると、焦がし醤油のいい香りが漂ってきた。
   そんなわけで今日の夕食のメニューは、矢作さんの娼婦風パスタとキャロットラぺ、それに、真知子の作った厚揚げと青梗菜の炒め物だ。こんな感じで、俺は物心ついてから、たいていの夕食を三人家族のように過ごしてきた。もっとも、そのうちの一人は入れ替わりが激しいのだが。
  「さ、食べましょうよ。ね、あなた。琳ちゃんも」
   真知子が矢作さんのグラスにビールを注ぐ。矢作さんと真知子はいただきますと声をそろえ、おしどり夫婦のように同じ角度にビールグラスを傾げた。まったく、なんでイタリアンに厚揚げなんだよ。ちぐはぐな真知子のメニューの選択を、俺はいつものように内心で冷笑し、一口運ぶ。青梗菜の旨みと出汁を十分に吸ったジューシーな厚揚げ。ふうん、けっこう旨いな。けっこう旨いと内心で思うのも、これまたいつものことだ。

     夜、宿題になっている幾何の問題を解いていると、携帯電話の電子音がピロピロ鳴った。
  〈琳くん、窓の外見てごらん。サプライズだよん〉
  穂乃花ちゃんからのメールだ。カーテンを細く開けると、自転車に跨った穂乃花ちゃんの柔和な丸顔が俺を見上げている。目が合うだけで濃密に視線が絡むのは、紛れもなく俺たちが恋人同士だからだ。いそいそとサンダルを履いて外に出る。
 「琳くんごめん、会いたかったから来ちゃった」
 俺は穂乃花ちゃんの腰に軽く腕を回して、おでこにそっとキスをした。穂乃花ちゃんは二重瞼をきゅっと細くし、少し下膨れの白い頬を上げて悦ぶ。俺の至福の時間だ。
 「琳くん今、今日の幾何の宿題やってたんじゃない?あれ難しいでしょ。私もう諦めちゃったよ」
   「おう、でももう解き終わるとこ。明日の朝、学校で教えてあげるよ。ちょっと遅いけど駅前のマックでも行く?」
   「琳くん、やっぱり解けたんだ。すごーい。脳みそ交換したいよ。本当にすごーい。マックね、行こう行こう」
    穂乃花ちゃんの尊敬の眼差しは、俺に男としての自信をもたらしてくれる。まったく、この輝かしい気分は何だろう。俺は急いで服を着替えてワックスで少し髪型を整えてから、揚々と外に出た。
    穂乃花ちゃんの自転車を俺が漕ぐ。海沿いの国道から脇道へ入り、コンビニや学習塾のばかげて明るい光を受けながら、自転車は夜の澄んだ空気の中をすいすいと進んでゆく。俺の腰に回した穂乃花ちゃんの腕が温かい。夜だからって、俺は穂乃花ちゃんをあっちの公園の茂みとか、そっちの寺の陰とか、向こうのカラオケボックスの個室とかに連れ込んだりはしない。K高生同士の爽やかな男女交際なのだ。少しふくよかで、決して美人ではない。その分、すこぶる善良な容姿の女の子。それが俺の選んだ穂乃花ちゃんだ。サラリーマン家庭育ちの凡庸な彼女。真知子とはまったく別のタイプの子。そう俺は今、不可解な真知子ワールドから自力で脱出しつつある。まっとうな高校、まっとうな彼女。紺色の夜空は気持ちよく晴れ、ぽつぽつと星が光っている。海は今きっと、黒く艶やかに光っているだろう。

 

 晩秋の晴れた午後。真治のバイクが孤を描いてカーブを曲がっていく。一見すると順調な走行だが、教官は苦笑いをしている。走行ルートをまた間違えているのだ。
  「おいおい、大丈夫なのかよ真治は」
 酒井のオッサンは地団駄踏んでもどかしがった。
 十六歳の誕生日を見据えて教習所に通い始めた真治だが、俺の予想通り真治の走行は芳しくない。当初は普通自動二輪車の運転免許を取得しようと教習所へ赴いた真治だが、教官の強い勧めで小型自動二輪車の、しかもオートマ運転限定の免許取得を目指すことになった。ガキの頃から真治を知っている俺から見ると、本人と周囲の走行車の安全を第一に考えれば当然の措置だろう。真治、お前にバイクの免許は無理だ。俺はずっとそう思っていたが、さすがに言えなかった。小型自動二輪車のオートマ限定免許を目指すことになった以上、真治が酒井のオッサンの店で欲しがっていた中古バイクには乗れない。俺は教習所に事情を話して、酒井のオッサンに真治の走行を見てもらうことにした。バイクを売るにあたって、真治でも安全に乗れる車種をしっかり見極めてもらうためだ。
   「たあっ」
    酒井のオッサンは、思わず分厚い右手で両目を覆った。真治が転んでいる。低速走行での転倒だから別に危ないことはないけれど、あまりにも不格好で見ていられない。
  「ありゃ、相当だぜ」
 酒井のオッサンは嘆かわしげに俺を振り返る。まるで贔屓の野球チームが九回裏で逆転されたとでもいうように、しょんぼりと顔を歪めている。
 「そりゃそうだろ、真治だぞ。オッサン、真治に何を期待してんだよ」
 あくまで俺は冷静だ。人間には、持って生まれた限界というものがある。普通この年齢で限界を見る奴は少ないが、真治の限界は中学生あたりで来ていたわけで、今後は何をやるにも厳しくなってくるだろう。バイクを起こして真治は再び走り始めた。一緒に教習している大型二輪車が真治の横を通り過ぎると、真治の姿はまるで子供が自転車を練習しているようにしか見えない。
 俺は酒井のオッサンを置いて、飲み終わったたレモンサイダーの空き缶をゴミ箱に捨てようと、その場を立ち去った。とにかく、酒井のオッサンに見てもらえたのは良かった。やはり、真治の安全はきちんと確保してやりたいところだ。
   教習所の事務センターの自動ドアが開いて足を踏み入れると、なぜか嫌な予感が走った。自販機の近くで、俺たちと同じ年恰好のカップルが楽しげに寄り添っている。チノパンに白いシャツ姿の好青年と、美人ではないけれど人柄のよさそうな彼女。爽やかな男女交際だ。
   「すごーい。じゃあ、もうすぐ免許取れちゃうんだね。たっちゃん、すごーい」
    彼女が言うと、彼氏は彼女の腰に腕を回しておでこに軽いキスをし、彼女は下膨れの白い頬を上げて悦んだ。それは、穂乃花ちゃんだった。
  「琳ちゃん」
   酒井のオッサンの店に真治のソプラノ声が響く。先に店に帰ってる。そう告げて、俺は一足先にオッサンの店に来ていた。
  「おう、琳なんだよ、教習所から逃げるように消えやがって。女に振られたみたいな顔してんぞ」
 蒼白の俺を見てオッサンはひゃっひゃっと笑う。まったく、こんなときだけ勘がいい。
 「琳ちゃんと酒井さん、今日は見に来てくれてありがとう。地道に頑張れば、試験が受けられそうだよ。ぼく頑張るよ」
 「そうだそうだ、真治その意気だよお」
 酒井のオッサンは目をしょぼしょぼさせながら、背の低い真治の頭をくしゃくしゃに撫でた。
 「琳ちゃん、どうしたの。確かに目の下が青いよ」
 真治の高い声が、今は癇に障る。俺はむっつりと黙り込んだ。
 「なあんなのよ、琳」
 オッサンは煙草に火を点け、上を仰いで煙を大量に吐いた。
 「なあ真治はさ、どんな女の子が好みなの」
 「何、お前ほんとに女に振られたわけ。あ、わかった。あの事務センターでいちゃついてた女の子?あれ、お前が惚れてた女なの?」
 ひゃひゃひゃひゃっとオッサンはさも面白そうに俺を嘲笑した。
 「オッサンに聞いてねえよ。真治に聞いてんだろが」
 オッサンに本気で腹を立てながら、俺は続けた。
 「なあ、真治はどんな女の子が好みなのって」
 何で俺はこんなこと聞いてんだろう。我ながら情けない。
 「真治、俺のお勧めのバイク見せてやるよ。不景気な琳なんてほっといてこっち来いよ、な」
 真治はオッサンの声には応えずにしばらく考えて、
 「ぼくはさ、女の子のことなんてよく分からないけど」
 と小さな声で言った。
 「でも真知子さんは素敵だと思うよ、ぼく。保育園の頃から、琳ちゃんのママはなんて綺麗で優しいんだろうって、いっつも思ってたもの」
 「いやさ、なんでこの話の流れで急に真知子が出てくるわけ。あんな魔性の女のどこがいいわけ。だいたい、俺のかーちゃんだぞ」
 俺は苛々して真治に凄んだ。まったく、頭の弱い真治と真面目に話そうとした俺がバカだった。
 「琳ちゃんはさ、勘違いしてるんだよ」
 真治は自分のペースでぼそぼそと続ける。
 「琳ちゃんは、真知子さんが恋人を取っ替え引っか替えしてるって言うけどさ、真知子さんはそんなこと一度だってしてないじゃん。真知子さんは、今まで誰のことも傷つけていないよ。いつだって傷つくのは真知子さん自身なんだよ。真知子さんは愛をもらう女じゃなくて、愛を与える女でしょ」
 真治はなぜか、傷ついているのは自分だとでも言うように、寂しい眼をして言った。俺は絶句した。そうだ真知子は、最後はいつも男に振られる。君の愛が重いんだ。自分を取り戻したいんだ。男たちはそう言って、最後は真知子から離れていく。男が終わりを告げるまで、愛し抜くのは真知子の役回りだ。
 「琳ちゃんはさ、頭はいいかもしれないけど、本当は何にも知らないじゃん」
 俺は、穂乃花ちゃんのことを思った。真知子と正反対の女。そう、きっと愛をもらう女。
 「愛を与える人のこと、琳ちゃんは何にも知らないじゃん」
 真治は震えていた。かすかに目尻が濡れている。
 「真治、お前どうした」
 真治は近くにあったパイプ椅子に座り直して、溜息を吐いた。
 「四三万五千四百円のことだよ」
 「は?」
 「四三万五千四百円」
 真治のペースに巻き込まれそうになる。落ち着け、俺。
 「ああ、バイクの代金のことね。さすがにちょっと高すぎるんじゃねえか」
 「違うよ」
 今度はまっすぐに俺を見つめてきた。
 「四三万五千四百円。ぼくがこれまで友達にあげたお金。ぼくの愛の形だよ」
 今日、二度目の絶句だ。真治、そんなに払ってんのか。さすがに驚いた。真治の実家は代々この辺りにけっこう土地を持っているから、確かに金はあるんだろうけど。
 「真治、ぼくがあげたお金って、何だよ」
 要するに巻き上げられたんだろうが。
 「愛の形ってなんだよ、おかしいだろそんなの。金は愛じゃないよ、金は金だろうが」
 何で好みの女の子の話から、こんな方向になってんだっけ。
 「違う。ぼくにとっては愛だったんだ」
 真治の張り詰めた顔を俺は思わず凝視した。俺の知ってる真治じゃない。 
 「琳ちゃんはさ、どんなに頑張っても、誰にも振り向いてもらえない人の気持ちってわかる?友達にも、先生にも相手にされなくて。親は出来の悪いぼくをずっと恥じてる。ヘラヘラ笑ってお金払って、それでも誰にも愛してもらえない人の気持ちがわかるの。琳ちゃんみたに、思いっきり愛を与える母親の下に生まれた子供はさ、ぼくみたいに、愛を与えても愛されない人間の気持ちがわかるの。琳ちゃんみたいに頭いい人でもさ、そんなの知らないでしょ」
 愛を与える人。ああそうだ真治も。真治もきっと、誰のことも傷つけてはこなかった。傷つくのはいつも真治。真治は今、泣いていた。泣きながら、真治はどんどん俺の知らない真治になっていく。この数か月、真治の顔の真皮にあったものが、今いよいよ表皮に現れつつある。多分、殻を脱ぐ瞬間の蝉のように。真治は涙を拭いて少し微笑んだ。
 「ぼくさ、バイクに乗れたら家を出るつもりなんだ」
  おいおいマジかよ。
 「ぼく、この街にずっと住んでるでしょ。生まれて十五年、この街に居場所はなかったから」
  そりゃそうだろうけどさ。土地持ちの家の息子でバカなんだから、この街に居ろって。
 「でもさ、本当は世界は広いじゃん。ぼく考えたんだ。バイクで、日本を旅しようって」
  いや、今どきそういう奴は、引きこもってネット住人になるんじゃねえのかよ。旅ってなんだよ、真治。
  「世界は広いって言ってもさ、ぼく英語喋れないし。まずは、日本を旅しようと思う」
  小型二輪車で?高速道路にも乗れないのに?
 「それでぼく、ぼくが居るべきところを探すよ」
  真治の顔は、もう一ミリも曇ってはいなかった。頬は引き締まり、新しい世界を見ようとする純粋な瞳は、キラキラと輝いている。
  「ずっと、言おうと思ってたんだけど。ぼく遠慮してたんだ。琳ちゃん、エリートコースに居るから。でも思い切って言うよ」
  何、何。ちょっと何なわけ。言わないでくれ、何か知らないけど聞きたくねえ。
  「琳ちゃん。ぼくについてきてくれない?」
  三度目の絶句。
  「琳ちゃんが居れば、百人力だよ」
 俺は桃太郎のキビダンゴじゃねえよ。改めて確信した。真治はアホだ。紛れもないアホだ。アホが脱皮して大アホになったようなもんだ。けれど俺は、真治の考えを笑い飛ばすことはできなかった。何より、俺はうろたえていた。真治をアホ扱いしながらも俺の心は多分、本気で感動していた。真治の変化に。真治の成長に。幼い頃から、真知子の恋人たちが退化してゆく姿を嫌というほど見てきた。そんな俺が今、人生で初めて人間の成長を目の当たりにしている。そのことに俺は今、心震えている。
 「考えといてやるよ」
 俺は真治の目を見ずに言った。真治のキラキラした瞳を直視できなかったのだ。まさかこの俺が道を踏み外すのか。声変りもしていない、こんな奴のために?
 傍でずっと真治の独白を聞いていた酒井のオッサンは、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
 「琳太郎。世間的に見れば、俺や真治はお前よりアウトローなんだろうけどよ。愛に関しちゃあ、お前の方がずっとアウトローだぜ。要領なんてしょうもないもん顔に張り付けてねえで、もっと思いっ切り生きてみなって」
 酒井のオッサンは腹の底から重低音の声を響かせた。

 

 すっかり暮れてから家に帰った。もう午後七時をとっくに過ぎていて、真知子の店の電気は消えている。俺は店の扉の鍵を自分で開けて、二階へ上がった。
 「琳ちゃんお帰り。遅かったわね」
 真知子の美しい顔が振り返る。かすかに元気がない。食卓にはチーズハンバーグ、ひじきの煮つけ、キツネそばが、きちんと綺麗に並んでいる。矢作さんが居ない食卓は今日で三日目だ。真知子は多分悟っている。矢作さんがもうこの家には戻らないことを。数日経てば、真知子に別れのメールでも送られてくるんだろう。君の愛が重い、自分を取り戻したいっていうメールが。
 「琳ちゃん、今日もあの人出掛けたままなの。二人で寂しいけれど、ごはん食べよ」
  俺は真知子に同情した。愛を与える女。十代で俺を出産した真知子は、きっと子供の頃からアホだったんだろう。そして、思春期に脱皮して大アホになったんだろう。きっと、それしかできない人だった。愛を与える生き方しか。
  「いただきます」
  俺はキツネそばを啜り、チーズハンバーグを齧った。涙が出るほど旨かった。
  「琳ちゃん、今日何かあったでしょ」
  キツネそばが立てる湯気の向こうから、真知子が語りかける。まったく、母親の勘は侮れない。ずいぶん長い一日だったような気がする。そう言えば、穂乃花ちゃんの浮気を目撃したのも、今日のことなのだ。俺は傷付いているんだろうか。傷付いている気もするし、何だかもうどうでもいい気もした。穂乃花ちゃんの話はせずに、
  「真治と二人でさ、バイクで日本中を旅することになりそう」
  とだけ言ってみた。真知子は急に表情を固くした。箸でつまんだ油揚げから、そばのかけ汁がぽとぽと滴り落ちている。
  「そうか、そうなんだね、ママ嬉しい。琳ちゃんがそこまで大きくなって」
  真知子は左手で口元を押えて、涙声を絞り出した。昔から、俺の言葉をすぐに本気にする。俺は真治と二ケツでバイクに乗る自分を想像した。風を切って、日本中の下道を走る俺たち。今日、酒井のおっさんは言っていた。要領なんてしょうもないもん顔に張り付けてねえでって。俺の顔の真皮では、今何が形成されているんだろう。何にも形成されていないんじゃなかろうか。俺はこの上なくつまらない気分で、淡々とそばを啜った。
 「琳ちゃん、カラオケいこう」
   夕食の後、ソファで寝そべっていると、仰向けに寝転んだ俺の顔の上に真知子の顔がぬっと現れた。
  「は?何だよ急に。真知子とカラオケなんて、行きたくねえよ別に」
  真知子は黙ったまま、じっと俺の顔を覗き込んでくる。
  「お願い。カラオケいこ」
  ずいずいと顔を寄せてくる。長い髪が俺の頬にかかる。俺は仕方なくソファの上に起き上がった。真知子の目は張り詰めた色を湛え、真剣そのものだ。まったく、真知子といい真治といい。今日はやたら疲れる日だ。
  「わかったよ。そんな目で見んなって、付き合ってやるから」
  真知子を俺の自転車の後ろに乗せて、夜の商店街を走り抜けた。海風は冷たく、晩秋の夜の冷え込みが肌をひりひりと刺す。俺の腰に回した真知子の手のひらが温かい。駅前の雑居ビルの狭い階段を上がると、古びたカラオケボックスがある。
  「一時間八百円、ワンドリンク制になります」
   受付の店員はマニュアル通りに声を張り上げ、面倒くさそうに俺たちを個室へ案内した。埃と煙草の匂いが充満した密閉空間に、真知子と二人で取り残される。俺たちは隣り合って座った。暖房が部屋の空気をムッと熱くしていて、息が詰まりそうだ。真知子は俺の方を向いて座り直すと、きちんと姿勢を正した。かすかに膝がぶつかり合って、俺は俄かに緊張した。真知子のミニスカートから突き出た脚に、心拍数が上がる。いやいや、それはやばいだろ俺。
 「琳ちゃんも、これで私の元を離れるんだから」
  真知子は神妙な面持ちでゆっくりと話した。真知子の中で、俺が旅に出ることはもう確定しているらしい。
  「最後に聴かせたい歌があるの」
  真知子は冊子から見つけ出した歌の番号を、リモコンで入力した。安っぽい音色で懐かしい前奏が流れ始める。真知子が両手でぎゅっとマイクを握る。
 <ラブ イズ オーヴァー 悲しいけれど>
 <終わりにしよう きりがないから>
  体中の細胞がざわめき立つ。包むような温かさが、俺の全身を満たしていく。まだ未分化だった幼い俺の魂にするりと入り込んできたメロディーが、まるごとの俺で感受していた愛の音色が、今ここで響いている。俺は、あの夢の中にいるほんの小さな俺のように、その甘やかな愛に身をゆだねる。否応なしに。
 <私はあなたを忘れはしない>
 <誰に抱かれても忘れはしない>
  ガキの頃に聴かされてきた歌詞が、今この瞬間のリアルと符合する。そう、真知子にはたくさんの恋人ができるけれど、彼らは必ず去っていく。この十五年、真知子を見守り続けてきたのはこの俺だけだ。俺が旅に出たとしても、真知子は俺のことを忘れはしないだろう。この先もずっと、誰に抱かれても。
  俺の眼いっぱいに溜まった涙が、マイクを握った真知子の横顔を歪ませる。わずかにゆるみ始めた真知子の太ももが、すすり泣くように震えていた。(終わり)

 

 

 

                                  

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