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イラン映画のご紹介

物語能力は民族により差が有る。外交能力、戦略能力は物語能力にだいたい比例する。日本は文化的に豊かな国です。豊かですから、他国を評価すると実は点が辛くなる。しかしあんまり悪口言うと、言う本人が人間的ランクが下がる感じがあるから、言いづらい、だから他国の文化についてはさほど比較して論じた文章見たことないのですが、各国の文化の程度は物凄く差が有ります。どうにもならない超えられない壁なのです。そして文化の程度は必ずしも一人当たりのGDPに比例しません。 文化の中で最も重要なのは「物

九去堂さん

以前金文で論語を読むページを紹介した より徹底的なサイトを発見したので紹介する。最近はこちらで勉強している。 孔子は金文時代に生きた。当時は篆書も隷書もない。でも今日の論語は隷書以降しか存在していない。つまり孔子の言葉を書き写した時点と中身がかなり変化しているはずである。だからとりあえず全部金文に直す。で書き下す。論語には金文にない文字を使っている文章も多いが、そういうのは当然後世の偽作の疑いが濃くなる。それを論語20篇約500章いちいち検討してゆく。すばらしい仕事である

野蛮と思想 ・4

前回はこちら 「豊饒の海」第二作「奔馬」は、漱石の「草枕」を下敷きにしている。 主な共通点としては、 1、熊本を舞台とする 2、ヒロインが出戻り 3、能と徒然草 である。以下説明する。 1、熊本を舞台とする 「草枕」は全体が熊本での物語である。「奔馬」は、全体は東京での物語だが、神風連の物語が途中挿入されており、無論熊本での話である。 2、ヒロインが出戻り 「草枕」の那美は出戻りである。「奔馬」の神風連のヒロイン以幾子は出戻りである。本編のヒロイン鬼頭槙子も出戻りであ

野蛮と思想 ・3

前回はこちら。 犬の話つづきで言えば、太宰治に「畜犬談」という小品がある。名作である。文章の出来は太宰作品中屈指である。ひょっとすると最高傑作かもしれない。 犬の野蛮性を嫌っていたが、野良の子犬になつかれてやむなく飼うことにする。しかし引っ越しもあり、犬の皮膚病もあり、処分のため毒殺することにする、という話である。結末はお読みいただきたい。 なんてことはないホノボノ間抜け系の話なのだが、驚異的な文章力だけで読ませる。なぜ作者はこんなに文章に気持ちが乗ったか。それは犬の持つ

野蛮と思想 ・2

前回はこちら。 インドと日本の比較から野蛮と思想の関係を考察しはじめたが、やっていることは国民性、民族性の考察といえなくもない。 民族性という観点では、家畜を観るのが一番だと思っている。人間同士は比較しずらい。相手も自分と同じサイズの脳みそを持っているからである。わかったつもりでもわからない。動物相手なら、多分私のほうが少々頭がよい。よって客観的に比較できる。 シェパード(ドイツ) ドイツ犬といえばドーベルマンとシェパードである。 敵に回すと恐い。「訓練を好む性格」らし

野蛮と思想

インド思想の本を読んでいたのだが、さっぱりわからん。わからないのは当方のオツム性能の問題なのだが、頭を使う以前に、そもそもなんでこんな設問をするのかが、感触的に全く理解できない。世界が有から始まろうが無から始まろうが、それがあんたになんの関係があるんだ。 そんな時には側面攻撃である。インド文化を理解するために、youtubeで色々見た。シンクロムービーというそうだ。映像はインド映画だが、音楽は日本のものだから、インドの特徴がオリジナルよりよくわかる。 最初にインド映画に触

金文から見た論語

死ぬまでには論語の読み解きしたいと考えているが、全く進捗しないのは漢文もろくに読めないからである。つまり無茶なのだが、夢というのは往々にして無茶だから価値があるのである。 最近面白い研究サイトを発見したので、今回はその紹介である。著者は書家。サイトスピードが歴史遺産級に遅いので、その点は要注意である。私は手元に全文コピーして読み返している。 http://www.seikeikai.net/essay/date_12-10-2010.html 以下雑に要点しるす。 1

漱石は構築的だが論理的ではない

こちらの記事への批判である。 山口謠司の責任か、曽根牧子の責任か不明だが。 1、文芸は論理的であってはならない 言葉には一義的用法と多義的用法がある。両者の境界線はあいまいだが、グニャグニャごまかす文章もあれば、明快に決めつける文章もある。 一義的用法の文章は論理的になる。多義的用法の文章は情緒的になる。文芸は多義的用法を駆使して情緒を掻き立てる。文芸を論理的と言うのは、契約文章を情緒的と言うに等しい。 2、文芸を教育できる環境にない 漱石の「こころ」を教材にするには、

中江兆民と漱石作品

前回玄洋社の中村天風をご紹介しました。漱石作品では、「草枕」の那美および元亭主、「門」の坂井弟と安井、「彼岸過迄」の森本と田川などが中村天風系の右翼大陸浪人であると。 そこから考えれば、これら右翼の登場する漱石小説は中江兆民の「三酔人経綸問答(「坊っちゃん」の19年前の作)」の後継作品ですね。 今では素晴らしい現代語訳で読めます。一読をおすすめします。驚異の名作です。 三人が日本の方針について討論するのですが、漱石作品によく登場するキャラの基本のようなものが既に表現され

玄洋社の中村天風

玄洋社という右翼団体について「彼岸過迄」で少し触れました。 中心にいるのは頭山満と言いまして、暴力的で、命知らずで、かつ非常に知的で仁義も厚い。だから人望があった。こういうタイプはほぼ絶滅して今日ではイメージがわかない。ですのでここではよりわかりやすい、頭山の子分の中村天風取り上げてイメージ持っていただこうと思います。1876年生まれ。夏目漱石より9歳年下です。 中村天風は最終的には宗教者になりました。心身統一法をうたっています。今でも「天風会」は活動中です。大谷翔平が天

国語教育・4

文学教育がなくなると読解力がなくなる、と思いがちである。 読解力を2つに分けて考えるべきである 1、言語力 2、物語理解力 言語力、つまり漢字や言い回しの意味がわからないのは、例文で教育するがよい。しかし物語理解力の養成は映画でも代替可能であるし、現代人の教養としてはむしろ映画の読解力のほうが重要なのではないか。そして、「ゴッドファーザー」「パルプフィクション」あるいはいくつかの宮崎アニメに匹敵するような文学作品は、実はそれほどない。存在はする。しかしいずれもかなり難しい

国語教育・3

今日の教育の実態についてはよくわからないが、私の高校生時代の教育について考えると、現代文ではできるだけ一義的な読み方、回答を指向しており、古文、漢文では伝統的な多義的な読み方、回答が許容されていた。両者は矛盾する。 古文、漢文(ここでいう漢文とは、日本語としての漢文である)の上に、現代日本語が成立している。しかし現代日本語の扱いと古文漢文の扱いが違う。かたや一義的に読まねばならず、こなた多義的によまねばならない。つまり両者は切り離されたものとして教えられる。その状況で古文漢

国語教育・2

読み解きをやっていて一番不思議なのは、 研究者たちがまるで読み解きに無関心なことである。 そしてそのことと今回の国語改革は整合的である。大学で文学を教えている研究者たちが、実は文学を信じていない。本当言うと文学が嫌いなのである。だから今回のような方針が出てくる。信じないのはよく分かる。読めないからである。どうせ読めないなら、滅ぼす方向に思考が向くのは当たり前である。グニャグニャとして理解不能な文章について考えたくない。だったら教えたくもなくなるはずである。 でも連中の尻を

国語教育について

が話題になっている。こういう議論は到着点から逆算しないと意味がない。この場合の到着点とは努力によってどうなるというポイントではななく、紆余曲折ありながら社会としてどうなるという点を予測して、無理なくそこに合わせてゆくという意味での到着点である。 1、日本語は原則横書きになる 2、デバイスはスマホやPCが主力、紙は補助的なものになる 3、日本語文章の中にアルファベット、ひらがな、漢字が共存するスタイルになる 4、カタカナはアルファベット使用に反比例して減少してゆく。最終的には