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2022.7.13:納豆、植物、砂の日

13日は、動きまわって、くたくただった。いい運動をしたという感じ。4月〜6月は家族のことやら体調も整わず気持ちもぐったりしていたなかだったので、ようやく無理なく動けるようになってきた気がする。日記にしないと溜まるなという日は特定少数日記を書こうと思えるぐらいにまでなった。(例年のことか)朝8時半に自転車で出勤、諸々の事務仕事。納豆マガジンvol2の入稿日なので最終校正を11時ごろから行う。お昼はうどんを作った。集中力が切れ始めるので、30分休憩に植物園。植物の中を歩く。涼しい、きもちいい、ここちいいの3拍子。ありがとうと言って事務所に戻る。午後も校正、ちょい作業。14時半から次の出版の本の造本設計打ち合わせ。この紙もかっこいいなと盛り上がる。表紙案がおぉ〜と声がでるほどかっこいい。手作業が入りそうだが、手をかけられるほど理想だ。いいなやるぞと気合いが入る。校正の戻しが予定より遅れているので、京セラ美術館の『砂のはなし』の展示へ駆け込む。この展示のアーカイブブックをつくることになりそうで。これまたよくわからん展示で面白い。「砂、さわって見てください。みんな手がさらさらになりますよ〜」と言ってくれたおばさん。なんかよかった。何回も言ってくれた。展示を見ているようで自分を見ている。砂を見ているようで自分を見ている。『はなし』には『話す』ことと『ストーリー、物語』の両方の意味があったんだと、当たり前のことに。話すことで、そこに物語」が生まれる。一方で『離す』という動詞も音。自分から離れることで、そこから音になり、物語りがはじまるのかと考えたりした。砂が手につく分、はほんとわずかですがそれは自分が見える範囲のくっついている砂で。もっとちいさな目にみえない微粒子な昨日触った砂が今も手についているんじゃないかと思った。目に見えないぐらい、わからないぐらいが何事もちょうどいいのかもしれない。展示は何か不思議な空間で答えがどこにもないのが不思議な空間で居心地がよかった。われわれはすぐに意味や価値を求めてしまうんだろうけど、暮らしや生活の中にある気づきが、一番の贈り物であり宝物なのかもと。砂は掴めないのがしっくりきた。そのあとは京都岡崎のスタバで桃フラペチーノみたいなのを飲んで、雀が寄ってきて、校正をして、急いで帰宅。その後も校正やりとり。うちの人がトマトパスタ大盛りを作ってくれた。私は豚肉を茹でてトマトを切っただけ。事前に用意してくれていたオクラとシン玉ねぎに乗せた。美味しい。くたくたになって、寝た。こっからは納豆マガジンvol2を販売するフェーズ。あ、思い出した。梅さんが頼んでなかったのに、営業リストを更新して送ってくれたのだ。それがそれが涙が出るほど嬉しかった。

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