生きづらさが役に立つ日がとうに来ていた。
過去にも何度か書いているけど、私は幼少期から「まわりと馴染めない」とか「ここにいてはいけないような違和感」をビシバシ感じて生きてきて、それは思春期に明確な「生きづらさ」として自覚されるものになった。
生きづらさは常に側にあり私をつついてくるので、そこから目を背けることはできない。かと言って、生きていて楽しいことも幸せなこともごまんとあるこの世界を離れることもできない。
なので、私にとって、「内省」「自己探求」は、この世界でなんとか苦しみを制御可能な範囲にして生きていくための、単なる術(すべ)であり、呼吸と同じようなものだった。
文学や哲学は水を飲むように欲したし、人間のあらゆるはたらきを科学的に明らかにしようとする学問である『心理学』およびその周辺の学問を学ぶことになったのも、当然の流れだったと思う。
生きづらさを感じる自分自身を知ること、すなわち人間のメカニズムそのものを様々な角度から学ぶことを通して、楽になるためのハックを手にして身につけて実践してどんどん楽になってきた、これがここまでの人生だったなぁと思う。
私は少しずつ、確実に、楽になってきた。
今では自分をこの世界の中にすんなりと位置づけられているし、ほぼほぼ年がら年中ごきげんで、適度に鷹揚で包容力もあり、様々な「こうあるべき」からゆるゆると解放され、殆どの場合自分を偽ることなく生きている。適度に「いい加減」になってきていて、それは自分でもとても好ましいなと思う。慣れ親しんだ生きづらさは消えはしないが、私と仲良く同居していて、私の邪魔はしない。
そんなわけで、私の中で体系化した専門知識および様々な経験や体感値を、誰かのために専門家として使うことを生業にしているのは、私のこれまでの道程そのものを、誰かの役に立つために全投入しているという確かな手応えを得られる行為であり、支援しながら同時に承認されているというあたたかい循環の中にいるのを、いつも感じている。
なんというありがたい毎日だろうか。と思う。こんなに自分の生を肯定できる日が来るとは思わなかったなぁ。クライアントの皆さま、そして友よ、ありがとうございます。
さて、気づけば40代も半ばに近づき、日々の仕事やプライベートでの様々な関わりの中で、「ああ、これが私の天命というものか」と、”降りてくる”場面に、時々、出会う。
それはこんな感じ。
これが私の命の使い方なのだろうな、つまり天命があるとするとこれなんだろうな、と、改めて自覚しています。
ここ数日での色んな人との関わりで、それを強く自覚したので、言葉にして残しておく。
読んでくださってありがとうございます。力が抜けたり元気が出たり、人間ってそんなもんかーと思ってくれたら嬉しいです。