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お母さん食堂の差別構造について考えてみた

前回「お母さん食堂はなにが問題なのか?」記事を上げました。

その後も「お母さん食堂」について色々な方が発言をしているが、その中でこのようなツイートが少し話題になっている。

 ことわっておきたいが、高校生やこのツイート主、いわゆる「フェミニスト問題」を批判するつもりは毛頭ありません。というのも、ジェンダーロールなど、この世界には間違いなく性別による構造的な差別問題は存在すると考えているからです。

だがそうではなくて「このツイートが提示する差別問題とお母さん食堂の問題」の“繋がり”に違和感を覚えた人も多くいたのではないだろうか。

今回はその違和感について記事を書いてみようと思う。

日本は同じことでも女がしたら金を渡さないのか?

「料理人は男が多くて、家庭で料理するのは女ばかりという現状」

この事実に対して「同じことでも女がしたらお金を渡さない」という帰結にツイート主は結び付けているが、筆者はここに違和感を覚える。

 細かく説明していくが、まず、「男性が経済仕事をすることが傾向として多くて、女性が家庭仕事をすることが傾向として多い」という事実がある。これは、妊娠などの女性特有(結婚して子育てをする場合)の役割などからこういう傾向に繋がるなど、とにかく様々な理由でその構造が現在でも続いている。この一つの家庭像が社会全体で浸透していてその前提が社会構造に組み込まれている。しかし、時代が変わってそういう一義的な家庭像や家庭を持たない属性がその前提を構造的に押し付けられているという問題は確かに存在する。

しかし、「男性が経済仕事。女性が家庭仕事」という事実は料理仕事とは直接的な関係がありません。「女がしたらお金を渡さない」のは女性だから渡さないのではなく仕事が経済仕事ではないからです。女性が飲食店などで料理を作れば当然お金はもらえるし、逆に男性の料理人でも家に帰って作る料理はお金が発生しません。だから、「同じこと(仕事)をしても」と書いているが、同じことをしていません。厳密に言えば料理すること自体は経済仕事の場合のみお金が発生するという話で、女性だから同じ仕事しても、もらえないという事実(性別的な給料差は存在する)は少なくとも日本にはありません。

精神論にかこつけて金を払わず労働力を奪う
=差別

という話に結びつけてしまっているのだが、
先ほどの指摘も踏まえてこの話を書くなら

「女性という属性だけで経済仕事という立場を与えて貰えない。もしくは与えられる機会や内容になにかしら不利益・不平等な構造がある」=差別

決して

「同じことをしても“女性”だからお金を与えない」「お金を与えずに無償で働かせている」

という差別問題ではない。

お母さん食堂のコンセプトの相違について

ファミリーマートとツイート主の
家庭料理に対する認識差を確認していく。

お母さん食堂とは、「家族の健やかな生活」を想って作った、美味しくて安全・安心な食事と食材を提供するブランドです。お客さまにとって「一番身近で美味しくて安心できる食堂」を目指しています。「家庭料理のようなものを出す食堂(商品カテゴリー)」というのはそこまで外れた推論ではない。しかしファミリマートのコンセプトをみると

ファミリーマートのサイト引用

「一番身近で美味しくて安心できる食堂(商品カテゴリー)」

同じ家庭料理でも
家庭料理に対するイメージが違う。

ファミリーマートに則って説明するなら「家族のことを考えて一番身近で美味しく安心できるものを提供する」というコンセプトを想起させるネーミングとして“お母さん”を選択したんだと推測できる。

ツイート主に則って説明するなら「家庭料理という無償で提供する」側面があるにも関わらず、そのネーミングに性別的属性である“お母さん”を利用してる。という主張をここでは伝えている。

そしてこれは「精神論にかこつけて金を払わない労働」という

搾取構造を肯定しているという
結論を展開している。

 ここのツイート主の展開についていけない人もいるのではないだろうか?

家庭仕事に金銭が発生しないのは一般的に事実である。しかし、「家庭仕事は搾取されているんだ」という搾取構造については異論を唱えたい。

家庭仕事は搾取構造か?

 最初に伝えた通り家庭仕事と経済仕事が存在する。そして、傾向として現在の日本では男性が経済仕事をして、女性が家庭仕事というのが傾向としてあります。まぁ、正確には男性は経済仕事を中心に、女性は家庭仕事を中心に両者が両方の立場を兼任しているという家庭モデルが多いと考えられる。(当然であるが【傾向】の話なのでこのケースに当てはまらない家庭はたくさん存在します。)

 わかりやすく男性が経済仕事で女性が家庭仕事というモデルを例に話していくと、まず金銭が発生するのは男性の仕事だけである。しかし、その金銭の享受は男性だけであろうか?特殊な例を除けば女性も享受する。そして、両者に金銭享受の格差が存在するのか?と言われたら一般的には大きな差はないと考える。男性だけ生活が豊かで女性は貧乏という話ではなく、経済的報酬に見合った生活を行うのが一般的だと考える。

 なぜ、この女性は経済仕事をしないのだろうか?答えは簡単で家庭仕事も必要だからである。そして、これは女性が必要なのではなく、男性も必要で男性が女性の分を稼ぐ代わりに、女性が男性の分の家庭仕事をこなすのだ。そして、その両者の同意が得られているから“家庭”という一つのコミュニティを形成している。つまり、搾取構造ではなく役割分担構造だ。これは共働きであっても説明手順が増えるだけで同じ話である。

このモデルケースの差別問題について触れる。

 先ほども伝えた通り経済的享受を男性だけが独占していたり、大きな格差を生んでいたら問題だろうし、役割分担なのになぜか経済仕事側の方が偉いという主張をぶつけてきたり、女性側が経済仕事をしたいのに「女性だから」という理由で男性が家庭仕事を強制的に押し付けていたら家庭間における差別問題になるだろう。

しかし

そのような前提がなければ家庭仕事自体は搾取構造ではないのだ。無償という側面だけを切り取り、「だから搾取している」という考えにはいささか疑問である。更にいえばその関係の中で家庭仕事は必要という認識があって、経済的享受が家族全体で格差なく享受しているのなら直接的な金銭は発生していないが「間接的に発生している」と考えるほうが自然だと筆者は思う。決してタダ働きを強制させられているわけではない。

 そういう“家庭構造”という前提を無視した「直接的ではない」という一面だけを切り取って『家庭仕事は無償で搾取されている』というのは違うと伝えたい。

二重の搾取構造とは?

利益を得ているのは殆ど会社の経営陣である。

・経営陣は殆ど男性である。
・家庭料理の殆どは女性が作っている。

だから

「経営陣(主に男性)が家庭料理(女性)の仕事を搾取している」という結論を展開している。

 まず、経営陣の話が出てくるのが謎である。企業が利益の享受は当たり前だけど、それはファミリーマートに従事しているすべての者である。男性も女性も関係ない。強いていうなら、経営者と労働者の格差問題の話であって、この辺は色々混ざっていると考える。

(どうでもいいが…この話を成立させるにはファミリーマートが様々な家庭に行って強制的に家庭料理を頂き、その家庭料理を販売して家庭に利益をばらまかずに経営陣だけで利益を山分けしているという場合なら成立する)

 ファミリーマートの経営者と労働の分配問題に搾取的構造があるのかはわからない。少なくともこの騒動からそのような結びつきに至る情報は出ていないのは事実だと思う。なので経営陣に対する主張は無理やり感は否めない。

次に

その1サービスが“女性性”を利用して搾取しているという話について検討してみたい


 “お母さん”というネーミング設定が女性性を利用した搾取に繋がるのだろうか?当たり前だけど実際の家庭料理などを強制的に搾取しているのではなく、(推測だが男性も女性もいる)職場でそれぞれが労働に準じて商品を届けている。つまり「家庭仕事は女性の方が傾向として多い」という事実と「お母さん食堂がほぼ女性の労働で作られている」という推測を混ぜていないだろうか?もしも女性だらけの労働がお母さん食堂のサービスを展開しているという事実がないなら、「女性の労働で作られている家庭料理から利益をあげる」というのは間違いになる。

 象徴として女性性を利用していることが問題かどうかの話は前回の記事で説明しているので割愛します。ここで伝えたいのは搾取構造になっているという事実は現時点では確認が取れないという部分だ。

先ほどの話も組み合わせると

ツイート主の2重の搾取構造というのは「お母さん食堂」からは見受けられない。「女装の男性」がグロテスクな構造というのはなぜグロテスク構造なのか?説明がないので筆者もここでは応えないこととする。

女性差別について

色々主張に対して指摘を繰り返してきたが…

「女性という属性だけで経済仕事という立場を与えて貰えない。もしくは与えられる機会や内容になにかしら不利益・不平等な構造がある」=差別

『差別構造が存在していて、その差別構造があるからファミリーマートは無自覚に“お母さん”というネーミングを用いているのだ』
というのがツイート主の主張だと考える。

そしてこのような構造に対して、かりに大衆が持っている認識に企業がマーケティングとして『合わせただけ』だったとしても、大企業がそのように『合わせること』でこの差別構造はなくならない。

という話をしてるのではないだろうか?

[料理する人=お母さん]という認識を利用すること自体が、搾取構造を『肯定』しているという主張になるのだろう。

 この考えが全く理解できないわけじゃないけど、搾取構造という事実とお母さん食堂の結びつきは強引であるし、ネーミングでそのような差別構造を『肯定』しているという話には繋がらないだろう。

差別とは?



そもそも差別というのは
【認識+その認識に伴い不平等な判断が行われること】だと筆者は考える。

 お母さんという言葉から『無償の家庭仕事を押し付けられている属性』と認識する人も世の中にいるんだろうし『料理してくれる人』という認識は少数派ではないだろう。そのような認識は神経科学的な話をするなら経験や学習から形成される。しかし、その認識をなくすことが差別構造を変えるのだろうか?どれだけ伝えても「お母さんに料理をしてもらった経験」は否定できないし、そこに懐かしいと感じて商品に手を伸ばす人を問題と置いていいのだろうか?

認識自体を問題と置くことで
認識する者自体を問題と置きかねない…


何度も伝えているがお母さんという属性の人に「料理」を押し付けるならそれは差別である。

しかし

『お母さん食堂』は家庭料理=お母さんという認識構造の元で判断された名前だとしても、そこに押し付けている事実はない。そして、これは1つのサービスという話を忘れてはいけない。

 例えば、猫カフェは「猫=かわいい」という認識を前提としたサービスです。当然、そこに該当しない人はそのサービスを受けないだろうし、そういうサービスが増える事をいいと思わないだろう。中には「猫=かわいい」を押し付けられてネコハラされた人もいるだろう。そういう被害経験を受けてネコハラを差別と考えるのは否定しない。しかし、だからといって「猫=かわいい」というサービス展開してるものは潰れるべきだ!という論調を許すのは違うし、「猫=かわいい」は差別構造だ!と置いてしまうのも違うだろう。

最後に

そして前回の記事で詳しく書いたが、問題提起としてわかりやすいからと言ってその主張を1企業に対して具体的に提案する方法論に疑いを持ちたい。

この一連の流れで伝えたいのは、批判するな!という話ではない。批判の方法論としてどうなんだ?という疑問であり、ツイート主の一連の主張も主張することが問題ではなく、その内容に対して違和感を覚えたので今回は記事を書くことにした。

この記事を見た人へ

 これを属性VS属性の構図にしてはいけないし、フェミニストを冷笑する方向に持っていってはいけない。もちろん、反フェミニストをバカにするのも違う。高校生やツイート主を炎上案件としてではなく、訓話として捉える必要がある。

認識することが悪ではない。それを元に“押し付けてくる”差別的事実に目を向けよう。そして、互いに押し付けてきた対象の属性を全称化させずに、社会全体がその差別的事実に目を向けていくことがこれからの時代は重要になってくる。

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