見出し画像

仮初めの時

「なあ、兄ちゃん」
 少年は男の数歩先で反転し、男に向き直った。
「今晩はどこへ行くんだい?」
「そうさなぁ」
 男は応えて、周囲を見渡した。
 石を積み上げて建てられた同形の家々が立ち並ぶ、古い通りだ。道路に面して並ぶアーチ状の門から、壁に取り付けられたライトから暖色の明かりが投げかけられ、通り全体がオレンジに染まっている。遠く離れた時計台まで明かりは続き、9時を過ぎようとする針の並びまでくっきりと見える。
 道を疎らに行く人々の顔は明るい。時々連れと笑い合う声が聞こえる。いつも通行者を蹴散らすように爆速で駆け抜ける循環バスさえも、今夜はこの暖かな夜を楽しむかのように速度を落として走っている。
 お陰で天を仰いでも夜空は黒く塗りつぶされて星はほとんど見えないが、この暖かな光の中にいると、そんな事が些末に思えてくる。
「あの角にある店はどうだ」
「いいねえ」
 少年が男の横に並んだ。いつも以上に大手を振って、スキップでもするかのように軽快な足取りで歩く。
 男はまだ自分の胸の高さほどしかない少年のつむじを見下ろし、小さく笑った。いつも大人ぶろうとしてはいるものの、やはりまだまだガキだ。いつもなら耳聡くからかうような男の笑い声に反応する少年も、通りの様子に気を取られて変わらずご機嫌に歩いている。
(やはり、ここに来て正解だったか)
 男は視線を上げて、遠くから向かってくる通行者を見た。中年の男二人。肩を並べて歩いてくる。その足取りは多少重いが、一仕事終えて帰るところだろうか。男たちの表情は解放的で、少し小太りな方が冗談でも行ったのか、二人で声を上げて笑った。背の高い方が小太りな男の肩を叩き、尚も笑う。……不自然な様子はない。追手ではない。ただの通行人だ。
 ――何でも疑ってかかる、なんてのは、人生の無駄遣いだわね。
 いつか幼い頃に聴いた祖母の言葉が脳裏を掠める。しかし意識の中で頭を強く振って、その言葉を振り落とした。
 もう「疑う」という習性は男の骨身に沁みて、決して洗い落とすことができない。
 中年男二人とすれ違う際に、男は少年に気づかれない程度に息を詰めた。今にもその小太りな男の手が閃いて此方の首筋に伸びて来ないか、のっぽな男が懐に手を入れないか、中年たちの一挙手一投足に気を配る。
 しかしそんな男の心配は杞憂に終わり、中年は明るく何かを言い交わしながらすれ違い、通り過ぎてゆく。
「なあ、兄ちゃん」
 ふと漏れた少年の声が先ほどとは打って変わって暗く、男は足を止めた。数歩先を行って少年もちょうど街頭の真下で立ち止まる。ゆっくりと振り返った少年の顔は、少し伸びすぎた前髪の影に隠れてよく見えないが、不安げに瞳が揺れているのがわかった。
「……何時までここに居られんのかな」
「さあな、お前が飽きるまでだろ」
 男はあえて少しぶっきら棒に言い、少年の髪を右手で掻き乱した。
 ふくれっ面に変わった少年が脇の下から睨め上げるも、あまり迫力はない。口元が微妙に弧を描いているせいだ。
「子供扱いすんなって」
「何を言ってる、ガキが」
「ふんっ」
 顔を背ける寸前の少年の顔は、すでに笑っていた。
 少年に合わせて男も笑いを作り、歩き出す。
「行くぞ、ほら」
「言われなくとも」
 ……僅かに視線を天に向け、男は願った。たとえ仮初めだとしても、一瞬でも長く、少年がこの平和を享受できますように、と。

どこか遠くかもしれない。会うこともないかもしれない。 でもこの空の下のどこかに、私の作品を好きでいてくれる人がいることが、私の生きていく糧になります。