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読書感想「絶滅できない動物たち」

気になっていた本を読みました。図書館で借りたので、備忘録として綴っときます。

『絶滅できない動物たち』

【感想】
環境保護は倫理観の問題やと思いました。
人間は絶滅した動物を復活するだけのテクノロジーを持ったけど、

「これ、どーやって使うねん」

っていう状態なんでしょうね。

サピエンス全史でユヴァル・ノア・ハラリは科学技術も新しい宗教だと言いました。科学以前の宗教である聖書やお経は書き換えが不可なルールだった。でも、科学技術は研究により日々ルールが更新される宗教だと言っていたと思います。

しかし、本書を読むと科学技術という道具をつかうために、別の宗教的な規範がいると思いました。こんな一文がありました

環境保護は、生活の質、全体を通じてあなたがどんな地球に住みたいかにかかっている。
ゴリラがいる世界といない世界と、どちらがよいのか。これは科学ではない。価値観の問題だ。

自分たちがどうありたいか?過去にいた動物をセンチメンタルで復活させるのではなく、将来どうしたいのか?なんのために復活させるのか?なぜ保護するのか?といった視点が大事だな~と思いました。

そして、もう一つの視点としては、人間として”種”に想いを馳せるのではなく、”種”として”種”に想いを馳せる。
人間の開発により生きる場所を無くした”種”、現代社会で害をなす動物として扱われた”種”、そんな”種”を復活させ保護したとき、その”種”はどんな生き方をするのか?極端な言い方かもしれないけど、引きこもりの人を無理やり社会に連れ出すのと同じ行為ではないのか?と思いました。

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ルネッサンス以降、人間中心の社会が発展し、今その真っただ中に僕たちはいると思います。だた、それでいいのか?

『人間』と『自然』

そうやって切り離して考えていいのか?それって、人間の傲慢ではないのか?ヨーロッパを起源として広まった科学技術の考え方は人間を不遜にし、自分たちが頂点のような振舞いをさせる。
レヴィ・ストロースはヨーロッパ以外の国の人たち、原住民が持つ優れた知識やシステムを紹介しました。本当は自然の一部として人が居るはずなのに、欧米的価値観により自然と切り離されてしまった人間はどこに行くんだろう?

ゾウやサイは人の欲望により射殺され、シロクマは人の経済活動による地球温暖化の影響で生活圏が狭くなり、ブタや牛、ニワトリはケージの中で自由を奪われ必要に応じ処理される。

僕にできることは何だろう?ヴィーガンになるつもりは無いし、お肉も食べたい。いま、主体的に何かを始めるってことは無いけど、知るということは大事だし、知って何か出来ることと言ったら、こうやって書き連ねることくらいかなと思います。

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【キーワードメモ】
・内在的価値
・ハイパーオブジェクト
・人新世

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以下に各章を簡単に書きました。お時間あればどーぞ。

第1章 カエルの箱舟の行方
停電に悩まされるタンザニア国内でダム建設予定地付近に生息していた”キハンシヒキガエル”という黄色いカエルにまつわる話でした。ダム建設が既定路線となっていた場所に見つかった固有種の保全について書いてありました。
キハンシヒキガエルはダム建設予定地にあった滝の水しぶきが生み出す湿潤環境だから生息出来た生物でした。ダム建設により湿潤環境が失われるためスプリンクラーで環境を保護するも、機器の故障や維持費、人間が立ち入ったことによる菌の影響から現地では生息できなくなりました。そして現在はいくらかのカエルを採取し、人間の飼育下で個体数を増やし、元の場所に戻すプロジェクトが進行しているそうです。
開発により動植物に与える影響をどう考えるか?といった内容でした。

第2章 保護区で「キメラ」を追いかけて
パンサーの行動パターンを熟知した元ハンターが絶滅寸前の”フロリダパンサー”を保護する話でした。パンサーはある程度広い範囲を生息域としていますが、フロリダパンサーの場合、周辺の開発により生息域が小さくなり、個体数が維持できないまでになりました。そのため、ピューマをパンサーの生息域に放ち、遺伝的多様性を回復させようとしていました。フロリダパンサーの個体数は増えましたが、ピューマを掛け合わせたフロリダパンサーはフロリダパンサーと呼ぶのか?

第3章 たった30年で進化した魚
アメリカにいるホワイトサンズパプフィッシュというメダカの仲間の魚の話で、その魚は30年間で形を変え進化をしたと書かれていました。進化の過程はゆっくりで僕たちの目には見えないものだと思っていましたが、たった30年という月日を経て魚が進化したそうです。もともと絶滅の恐れがある魚だったので捕獲し、他の地域に放流した結果、形が変ったそうです。変わったのは形だけではなく遺伝子も変わったことがわかりました。進化とは急激に進むときもあり、期せずして人の手が進化を助長した例として挙げられていました。

第4章 1334号というクジラの謎
この章はタイセイヨウセミクジラの話でした。タイセイヨウセミクジラはバスク人の乱獲により個体数が減ったとされていました。でも、タイセイヨウセミクジラの主食となるオキアミみたいなエビの量が原因で出産する周期の違いがあったそうです。クジラは生きるのに一日40万キロカロリーを必要とするそうですが、出産する場合は400万キロカロリーを必要とするためエサの量が少ないときは出産を控えているそうです。クジラのエサであるオキアミみたいなやつは海の気圧が変ることで量が変るようで、クジラの頭数も気象変動に左右されているのではないか?という話でした。
クジラは200年も生きるため、人間がクジラの一生を追いかけることは不可能だそうです。人間による影響と気象変動による影響を考えたとき、人間がクジラを保護する資格があるかどうか?という問いかけのように思えました。

第5章 聖なるカラスを凍らせて
ニューヨークの地下には世界の動物の遺伝子を凍らせた貯蔵施設があるそうです。昔、ハワイにいたハワイガラスを復活させるという話でした。ハワイガラスは枝を使ってエサをとったり、多彩な鳴き声で鳴いたり、ハワイの野生環境には無くてはならない動物でした。そのハワイカラスを復活させるということでしたが、復活したハワイガラスは枝でエサをとったり、多彩な鳴き声で鳴いたりするのか?先天的なものなのか?群れの中で学んでいった知識なのか?環境が変ったとき、ハワイガラスは人々が思っているハワイガラスらしさを持っているか?という話でした。
日本のカラスはクルミを割るために、道にクルミを置き自動車に割らせます。自動車が無い時代にはできないことです。それって先天的な行動だろうか?遺伝子の記憶だけで僕たちが思っている動物が復活するか?を問いかけている話だと思いました。

第6章 そのサイ、絶滅が先か?復活が先か
コンゴ共和国はヨーロッパほどの大きさを持った大きな国です。そこにはいくつもの国立公園があり、さまざまな動物がいます。本章の主役となるキタシロサイもその一つです。でも、周囲の政情不安や内乱で密猟者が絶えず、国際保護もままならないまま、絶滅の危機に瀕しているそうです。もちろん冷凍保存された遺伝子もありますが、どうなるかわかりません。
僕は人間が貴重だと思っている動物をお金や権力闘争など人間の欲望により消滅さそうとしていることが人間や社会の矛盾であり、それに翻弄される生物の脆さを感じました。

第7章 リョコウバトの復活は近い?
200年ほど昔、アメリカには50億羽のリョコウバトがいたそうです。リョコウバトの群れは大地を覆い隠し、恐ろしいほどの轟音を立てていたそうです。そんなリョコウバトも開拓者たちにより撃ち殺され100年で消滅したそうです。いま、近縁種のオビオバトにゲノム編集を行い、リョコウバトを復活させようとする取り組みがあるそうです。取り組みを推進する人たちは「人間は過去1万年で自然に大きな穴を開けた。今なら、私たちはその被害の一部を修復する能力があるし、そうする道義的な責任もあると思う」と言っています。また、一方では「これらは存在論的に見ても、元のものとは違う。元のものとは、存在として、本質的にも違っている。新しい種は自然の種ではない。種のようにみえるし、そうふるまうかもしれないが、実際には人間の創造物だ」と言っています。
それぞれの言い分があるしどちらも分るような気がします。ただ、人間が作ったものを以前あった種と呼ぶのは違うように思います。

第8章 もう一度”人類の親戚”に会いたくて
ネアンデルタール人は僕たちホモ・サピエンスに近い種族でした。そして、ヨーロッパやアジアに住む人たちにはネアンデルタール人のゲノムが含まれているそうです。多分、僕にもあると思います。ネアンデルタール人を復活させる。それは、懐古主義的な発想もありますが、ネアンデルタール人を復活させることで、ホモ・サピエンスの遺伝子的多様性を担保しようという話もあるそうです。また、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスに比べ劣っているという一般的な評価について「現代の生き方が客観的に見て優れているという自分たちの頑なな信念が、私たちに偏見を抱かせる。」「現代人の精神は支配欲というよりは適応面での優位性から生まれたとわたしたちは考えてしまう。」と書いてありました。
そこで「ハイパーオブジェクト」という言葉が出てきました。それは非局所的で壮大、何十億年もつづく物体(オブジェクト)として扱うものだそうです。難しいですが、僕たちが認知するしないに関わらずそれは存在する。地球温暖化はオブジェクトであり、天候もそう。この考え方はオブジェクト指向存在論という理論らしいです。難しい理論ですが、筆者が書いているのは「森の中で木が倒れたら、誰かがそれを見ていようといなかろうと、木は実際に倒れたと理解する」と書いています。僕なりの考えとしては、現代の主要な考え方である人間中心の考え方に対するアンチテーゼみたいなものかと思います。

全部で4168文字でした。(タイトル除く)

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