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師匠の教え②「物語を作る」

最初の師匠に「とりあえず前に進むコト」を教えてもらった社会人1年目、2年目からもがんばろーと思っていた矢先に師匠が異動してしまいました。

師匠が居なくなり(;´д`)トホホとなっていましが、あたらに付いた人はとんでもない人でした。
その人が僕の第二の師匠となるのです。

その方は最初の師匠と違い、めちゃくちゃパワフル
話し出すと止まんないし、仕事しだすと怒涛の勢いだし、いわゆるブルドーザーみたいな人でしたね(笑)

仕事以外でもめちゃパワフルで、テニスに野球、スキーなどなんでもやってはりました。僕も巻き込まれ?一緒に楽しくやりましたね。特にテニス愛はすごく、仕事中でも突然、僕にむかって

「藤輪、球を打ちに行くときはラケットのフェースじゃなく、グリップから迎えに行くねん、それでな.....」

と言いながら、自分の持っているペンをラケットに見立てて話し出します。
いろいろ理論を語ったあと、最後に

「これが出来たら、もうペシペシやで!」

ペシペシ....だそうです(;^ω^)

野村克也ばりの理論で攻めたて、最後は長嶋茂雄ばりの感性で僕を陥落させます。(笑)

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そんなパワフルな第二の師匠は妥協を許さない厳しい人でした。特に打ち合わせ後の協議記録はつらかったです。打ち合わせの次の日は協議記録を書くのですが、一発OKをもらったことがありません。とにかく書き直し、書き直し、、、、
当時はまだ紙に手書きの時だったので、書いては消し、書いては消しの連続でした。一日かかるのはざらで、二日間ずっと書き直しの時もありました。今思うと、それだけ次の仕事に取り掛かるのが遅れるんですが、よく我慢してくれたなーって思います。

その時、特に教えてくれたのは

【物語】

「藤輪、この記録は物語になってない、あったことそのまま書いとるだけや。これ読んでも、どんな流れで次どうなるのかがわからん」

って言われました。僕はその時あったことを、その時のながれのまま、『事実』として書いていたんです。でも、打ち合わせって、話がよく逸れますよね。逸れて、回って、戻ってきて。結局、結論に行きついたり、違う取り決めが出来ていたり。複数の物語が絡み合いながら進むのが打ち合わせです。それはその時、その空間を共有した人でしかわからない『事実』で、それをそのまま書いちゃうと、他の人は”わけワカメ”(笑)なわけです。だからこそ、誰が見ても分るように、絡み合った物語を解きほぐし、一つの一つの事柄を丁寧に書き綴る。それが、師匠が求めている『協議記録』でした。

確かに、そうでないと他の人が読んでも分らない、誰のために書いているのか?そして、自分自身も後で読み返したときに訳がわからない。大切なのは【物語】でした。

そして、その【物語】は一つの協議記録には留まりませんでした。記録は記録簿に綴っていきます。異動が多い僕たち。次の担当者は記録簿を頼りに仕事をします。その記録簿がハチャメチャだと、こちらも”わけワカメ”なわけです。だからこそ、記録簿自身が【物語】を持っていないといけない。その打ち合わせは、何がトリガーとなったのか?次はどう繋がるのか?繋げるためには打ち合わせで、「次は...」というコトを決めておかないといけない。決まったら、それを記録に残す。そして次の記録が物語を繋いでくれる。そういった一連のつながりを大切に一つの仕事を【物語】として遂行することを教えてくれました。

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めちゃめちゃ厳しかった第二の師匠。僕が全力で立ち向かえば褒めてくれるのですが、褒められてちょっと気を抜くと見透かしたように怒られます。

師匠と一緒に仕事をしたのは3年ほどですが、その間に3、4回ほどは泣かされました。成人男子が本気でビビッて、たまらず泣きじゃくったんですね。泣きじゃくったというか嗚咽です(笑)
今の時代なら確実に『パワハラ』ですね( ̄д ̄)

まあ、今の時代であっても訴えないと思いますが.....(愛があったと思っているので)

そんな師匠は他にもいろいろ教えてくれました、

「自分で自分を評価をするな」
「お前は何がしたいんや」
「感覚でしゃべるな、理屈を積み上げろ」

たぶん、僕の行動の多くを形成してくれた人だと思います。
僕は三年間、第二の師匠にペシペシに言わされながら、【物語】の大切さを骨の髄まで教えてもらいました。

全部で1825文字でした。(タイトル除く)

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