200302嫌われる勇気イベントチラシ-thumb-450x636-85480

幸せになる勇気は、愛する勇気

昨日、「幸せになる勇気」について書いたわけですが、読み返すと中身にちっとも触れていませんでした。

もう少し考えてみましょう。

主な目次

第一部 悪いあの人、かわいそうなわたし
第二部 なぜ「賞罰」を否定するのか
第三部 競争原理から協力原理へ
第四部 与えよ、さらば与えられん
第五部 愛する人生を選べ

各章とも刺激的な話でした。

細かい目次を見ると、さらに流れが見えてきます。

第1部 悪いあの人、かわいそうなわたし

アドラー心理学は宗教なのか
教育の目標は「自立」である
尊敬とは「ありのままにその人を見る」こと
「他者の関心事」に関心を寄せよ
もしも「同じ種類の心と人生」を持っていたら
勇気は伝染し、尊敬も伝染する
「変われない」ほんとうの理由
あなたの「いま」が過去を決める
悪いあの人、かわいそうなわたし
アドラー心理学に「魔法」はない

「悪いあの人、かわいそうなわたし」とは何か

まずは、青年が再び現れた理由、すなわち彼の現況となぜ絶望したかが語られます。

そして、哲学とは何か、科学とは何か、つまり哲人の思考の前提が語られます。

その上で、「課題の分離」「自立」「優越性の追求」というアドラーの用語が説明されていきます。

この中で難しいのは、「介入」と「援助」の相違について知ることかもしれません。教育者や親は、子供に対して「介入せず援助しなければならない」そのためには「子供に尊敬の念を持たなければならない」。

これには青年は激怒します。

子供を尊敬していては教育にならない。

そう思うからです。

そこに哲人はエーリッヒ・フロムの尊敬の定義を説き、さらにアドラーの最難関である「共同体感覚」を持ち出します。

そのやり取りの中で出てくるキーワードは、中見だしの通りです。

そして、カウンセリングに用いる三角柱を持ち出します。

三面に文字が書いてあるが、向かい合っている青年からは2面しか見えません。そこには「悪いあの人」「かわいそうなわたし」と書いてあります。大概、カウンセリングに来る人は、この二つの話しかしていない。でも本当に語り合うべきことは、最後に一面に書いてあります。

ではなんと書いてあるのか。

「これからどうするか」

この1点だけを語り合うのがカウンセリングの目的だと哲人は語ります。

なんと厳しい。なんと辛い行動を選択させるのでしょう。

哲人の言葉、そしてアドラーの思想は、現実に疲れ果てた青年には、辛く厳しいものばかりだと、ここまで読んでも思います。

だから、昨日、幸せになる勇気は、辛い、と書いたのです。

そして、その議論はさらに続いていきます。

教室は民主主義国家たりうるのか

第2部 なぜ「賞罰」を否定するのか

教室は民主主義国家である
叱ってはいけない、ほめてもいけない
問題行動の「目的」はどこにあるか
わたしを憎んでくれ! 見捨ててくれ!
「罰」があれば、「罪」はなくなるか
暴力という名のコミュニケーション
怒ることと叱ることは、同義である
自分の人生は、自分で選ぶことができる

この章は、教育の難しさに悩む現在の教師の皆さんに読んでいただきたい内容だと思います。

教室は、教師による独裁の場ではなく、国民に当たる生徒が民主主義国家として運営されるべきというのは、青年ならずとも、反論したくなる話です。

しかし、思い出すと、わたしが子供の頃、小学校5年生の時の担任だった渡辺先生は、当時の北海道で多かった北教組所属のリベラルな先生で、悪いことをすると怒られはしましたが、クラスの運営は子供たちで話しなさい、という人でした。

何かというと学級会で議論させられました。班編成も班長による合議で、放課後何時間かかってもイイから議論で決めるというものでした。

わたしは、多くのことをこの先生から学んだと思っています。学校の成績が良いことが人間としての評価にはつながらない、人の上に立つべき人ならば、範たる姿勢を見せなさいということを教えてくれた先生でした。

ああいうことなのでしょうか。

協力原理という横の関係

第3部 競争原理から協力原理へ

「ほめて伸ばす」を否定せよ
褒賞が競争を生む
共同体の病
人生は「不完全」からはじまる
「わたしであること」の勇気 
その問題行動は「あなた」に向けられている
なぜ人は「救世主」になりたがるのか
教育とは「仕事」ではなく「交友」

メサイヤ・コンプレックスという言葉が出てくる章です。

ここで「幸せになる勇気」という言葉が出てきます。タイトルの言葉がなかなか出てこないのは、「嫌われる勇気」でも同様でしたが、ようやくタイトルに関わる議論が始まるわけです。

「仕事、交友、愛」の3つのタスクについての議論です。

ギブ、ギブ、ギブ。それが信頼の証。

第4部 与えよ、さらば与えられん

すべての喜びもまた、対人関係の喜びである
「信用」するか? 「信頼」するか?
なぜ「仕事」が、人生のタスクになるのか
いかなる職業にも貴賤はない
大切なのは「与えられたものをどう使うか」
あなたに親友は何人いるか
先に「信じる」こと
人と人とは、永遠にわかり合えない
人生は「なんでもない日々」が試練となる
与えよ、さらば与えられん

仕事の関係は「信用」の関係であり、交友の関係は「信頼」の関係だと哲人は説きます。そして、アドラーが見事な洞察から解き明かした、仕事とは何か、人はなぜ働くのか、あらゆる仕事が平等なのはなぜなのかを説明します。その内容については、読んでみてください。

この賞で感動的なのは、「先に信じる」こと、そして「与えること」が優先だということです。与えられるのを待つのではなく、相手を信じ先に与えることで、自分もまた信じてもらえる。

勝間和代さんの「ギブの5乗」みたいな話ですが、アドラーを知らなくても、与えることで人生が開かれることを彼女は語っていたのかもしれません。

愛とは「二人で成し遂げる課題」

第5部 愛する人生を選べ

愛は「落ちる」ものではない
「愛される技術」から「愛する技術」へ
愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である
人生の「主語」を切り換えよ
自立とは、「わたし」からの脱却である
その愛は「誰」に向けられているのか
どうすれば親の愛を奪えるのか
人は「愛すること」を恐れている
運命の人は、いない
愛とは「決断」である
ライフスタイルを再選択せよ
シンプルであり続けること
あたらしい時代をつくる友人たちへ

そして最後に「愛」です。

それも「神の愛」でも「動物の愛」でもない、「人間の愛」です。

この章で衝撃的なのは「愛は落ちるものではない」ということではないでしょうか。青年も激したり、叫んだり、落ち込んだり、忙しいです。

でも、「恋は落ちるもの」ですが、「愛は落ちるものではない」というのは納得できる話です。なぜならば、恋は一人でするものですが、愛は二人でするものだからです。これは、この本を読む前からの私の定義です。

愛については、この章でも引用している、この本が欠かせません。

そして、アドラーは「愛という「ふたりで成し遂げる課題」について、私たちは、なんの教育も受けていない」と言っていると哲人は説きます。

仕事の関係を成立させるのが「わたしの幸せ」が誰かの幸せにつながっていくというギブアンドテイクの関係であり、交友の関係を成立させるのは「あなたの幸せ」で、ギブの5乗の関係。

そして、愛の関係は、「わたしたちの幸せ」を築き上げることだという。

ここに至って、ちょっと読んでいて叫びそうになりましたね。そう来たかと。

愛、自立、共同体感覚

愛は、わたしたちを主語にし、わたしからの解放だという言葉は、さらに、自立とは「自己中心性からの脱却」だという言葉につながります。これはすなわち、子供時代を脱して、大人になれということです。

そして、本当の意味で世界を受け入れて、ふたりで始まった「わたしたち」は人類全体にまで広がっていく、つまり共同体感覚である、というのです。

青年ならずとも、ああ、と呻いて、崩れ落ちそうになります。

ここで、ちょっとした寄り道として、第1子と第2子、末っ子、一人っ子の「傾向」という話が出てきます。

心理学を学んだものとして、こういう「傾向」を分析し、相性占いにつなげるような話をするように、話を振られることはよくあります。わたしは傾向分析は好きですが、占いはあまり得意ではないです。

そういう時は、こういう本を読んでもらった方がいいかと思います。

心理学者が嫌われるのは、こういう「人を型にはめて語ろう」とする時なのですが、アドラーもそういうところがあるわけですね。

その人は運命の人ですか

そしてアドラーは、というか哲人は、恋愛にこがれる若者に一番言ってはいけない言葉を言ってしまいます。

「運命の人などいない」

ある意味で、あらゆる相手が運命の人であり、この先に運命の人が待っていると考えて、今目の前にいる人を排除するな、ということなのですが、それは使い方によっては、プレイボーイの文句ですがな。

傷つくことを恐れて、一歩踏み出す勇気が足りない自分を肯定するために「出会いがない」とか「運命の人がいるはず」と思うのは勝手なのですが、そんなものはいないのです。

ここで思ったのは、見合い結婚とか許嫁というシステムと「運命の人」のことですね。

今は恋愛結婚が主流ですが、日本でもつい60年ほど前までは見合い結婚の方が多かったわけです。でも、その見合い相手と結婚後に築いていく家庭があって、幸せが生まれれば、それは運命の相手だったと思うわけです。

運命の相手は、どこにいるかわからない人ではなく、目の前の人を運命の人に変えるプロセスが、愛というタスクなのでしょう。

これを哲人は「運命だと信じることを決意する」と説きます。

そしてダンスホールの壁際に立って、ただ踊る人を傍観しているのは、運命の人が手を差し伸べてくれるのを待っているのだと指摘し、「そばにいる人の手を取り、今の自分にできる精一杯のダンスを踊ってみる、そこから運命は始まるのです」と説きます。

これは見事な例だと思いました。

でも、それを信じすぎて、ダンスホールで踊る人ばかりでも困るような気もしますが。

そして、この言葉に二人は到達します。

「愛し、自立し、人生を選べ」

見事すぎます。

あとは読んでみるだけ

結局、書いてしまった。

でもわたしが書いた粗筋などどうでもいいので、ぜひ読んでみていただきたいです。わたしも何度も読もうと思います。

200万部突破新装版だそうです。

二部作セットも有るそうです。

講演会開催中もお知らせしておきましょう。

東京はこちら

いくかどうか、まだ悩んでいます。









サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。