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【ショートショート】きれい好き

「逃げろ」
 誰に言われたのかと思い、サトウはあたりをきょろきょろと見回した。
 ビルの屋上はビールを飲んだり、子どもと遊んだりする人たちでいっぱいだ。みんないっせいに動きを止めて、まわりを見たり、空を見あげたりしている。
「逃げろ逃げろ逃げろ」
 強い圧力を感じる言葉だった。
 子どもを抱えたお母さんが、休憩していた老夫婦が、酔っ払っていた若者のグループが立ち上がり、不安そうな表情でエレベーターホールに向かう。
 サトウは逃げろと言われたら逆に動きたくない。
 地上を見下ろすと、蟻のように小さな人が道いっぱいに広がっていた。集団心理というやつだろう。逃げる人をみると、自分も逃げたくなる。みんなが逃げ出すと、そのなかでも先頭に立ちたくなる。
 しかし、すでに渋滞した道で身動きがとれない。
 誰も彼もが半狂乱になっている。
「逃げろ逃げろ逃げろ」
 頭のなかには同じ言葉がエンドレスで流れている。なぜ逃げなきゃいけないのか。どこに逃げるのか。誰が逃げろと言っているのか。なにもわからない。
 狂乱の一夜が過ぎ、頭の中から「逃げろ」というフレーズが消えた。
 地上を見下ろすと、都心に人の姿がひとつもない。
(まるで掃除のあとのような)
 と思ったそのとき、天から大きな指がおりてきてサトウの全身をつまみ上げ、ぽいっと東京湾に投げ捨てた。

(了)

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