見出し画像

【小説】おいしいものを、すこしだけ 第12話

 思えばその日は朝からろくなことがなかった。
 
 エスカレーターの故障であと一歩のところでいつもの電車に乗れず、ようやく乗った電車は異常信号で十数分停車した。車内は地獄のような混雑で、その間ずっと私は悪臭を放つ人の背中に押しつけられていた。遅刻寸前で会社に駆けこみ、ロッカーの扉を閉めたところでビッという嫌な音がしたかと思うと、スカートの裾をまつった糸が全部ほどけていた。仕事中も、前日ささいなミスをしていたことが発覚して、前から嫌いだった人に「あなたこの仕事向いてないんじゃないの」とネチネチ嫌味を言われた。
 深谷さんがいなくなってから仕事はきつくなった。代わりの人員は補充されず、部署内で同じ立場の人間がいなくなったので、必然的に私の負担は増す。わからないことがあっても頼れる人がいないので失敗が多くなった。仕事量が増えても残業の許可が下りないので定時までにすべて終わらせなければならない。
 夜はジロと久しぶりに会うことになっていた。クリスマスは仕事で会えないけれど二十六日なら定時で上がれそうだという連絡が来ていて、私はクリスマスにはべつにこだわらないのでかまわなかった。職場で浮かない程度に綺麗な格好をして、その後の成り行きに備えて泊まる用意もして、スカートのほつれは両面テープでごまかした。こう不運続きでは何か一つくらい慰めがないと救われない。
 
 夕方六時半にジロの会社の近くで待ち合わせだ。ゆっくり会えるのは三か月ぶりだった。最近は会社近くの公園で五分ほど立ち話、というスパイの情報交換みたいな会いかたしかしていない。それも代理店との打ち合わせがどうとか、企画書がどうとかジロの仕事の話を聞かされただけだ。
 待ち合わせ場所にジロはいなかった。六時半に「ごめん、少し遅れる。暖かい所で待ってて」という連絡が来た。近くのカフェに場所を移して、持っていた文庫本を読み始めた。
 七時過ぎに「ごめん、もう少しかかる」という連絡が来た。この時点で嫌な感じはしたけれど、さすがにあと三十分もすれば終わるだろうと見当をつけて読書を続けた。
 一冊読み終わっても連絡はなかった。八時をだいぶ過ぎている。この近くで今から食事のできる店があるだろうかと検索していると「本当にごめん、終わりそうにない。今日はなしにしよう」と来た。
 ああやっぱり、と思った。こうなることは目に見えていた。これほど朝からろくなことがない日に、ささやかでも楽しい時間が過ごせると思うのが甘いのだ。
 店の外に出てジロに電話した。いくらなんでもひどすぎる。リモコン操作ひとつで呼び出したり追い払ったりできる存在だと思われているのが腹立たしかった。
 かなり何度も呼出音が鳴ってからジロが出た。どこかへ向かって歩いている気配がする。
「本当に悪かったけど、仕方ないだろ。終わらないんだよ」
「だったら最初から言ってくれればいいのに。ひどすぎる」
「こっちだって会いたくて一生懸命だったんだよ。わかってくれないか。仕事なんだから」
「私だって一日働いたあとでここまで出てきて、二時間待たされて、明日も仕事で朝早いのに」
「九時五時の仕事なんか働いてるうちに入らないだろ」
 これには私もカッとなった。
「そっちこそそんなごたいそうな仕事なの?言っとくけどあんなまずくて体に悪い菓子パンがこの世からなくなっても誰も困らないよ」
「うるさい。黙れ。仕事中に電話して来るな」
 私の知っている男の子はどこへ行ってしまったのだろう、とぼんやり考えた。学食前のベンチでひなたぼっこをしていた男の子、生活保護を受けられなくて餓死した人をかわいそうだと言った男の子は。
 そのうちに向こうから通話が切られた。かけ直してもっと文句を言ってやろうかと思ったけれどむなしくなってやめた。目の前をジロの会社の配送車が通った。あんな会社潰れてしまえばいい、と本気で呪った。
 
 駅前の大通りはイルミネーションが眩しく、人であふれていた。昼から何も食べていなかったけれど、この賑やかさのなかでどこかに入って一人で食事をする気分にはどうしてもなれなかった。両面テープの粘着力が落ちてスカートの裾がだらりと下がり、歩くたびにブーツを擦った。亜紀さんには遅くなるから夕飯はいらないと言って出てきたので、あまり早く帰ると変に思われるだろう。路地を一本入ったところに夜九時まで開館している区立図書館があったので、閲覧席に座ってぼんやりと雑誌をめくった。記事はまったく頭に入っていなかった。やがて閉館の音楽が流れ、不安そうな顔の職員に追い出された。

ここから先は

2,603字

現役図書館司書が書いた、図書館司書の登場する小説です。 (全20回連載予定)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?