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読書記録『レアリスム 再考諸芸術における〈現実〉概念の交叉と横断』

レアリスムは時代や地域の「現実」に応じて激しく流動する。
美術史、文学史、写真史、映画史といった人文学諸分野が「レアリスム/リアリズム」とむすんできた関係を考察し、従来、自然の模倣という一元的な視点から議論されてきたこの概念を再検討する。

「レアリスム」と言うと、ありのまま(「現実」)を描写する姿勢や芸術の作品を指すが、一口に「現実」と言っても、その捉え方は時代や社会状況によって異なってきた。
本書は、複数の著者がそれぞれの視点で「レアリスム」(「現実」)について、その多様さを論じた、論考集となっている。
「現実を表現する」ということはつまり、「『現実』についての思考」が存在することである。その違いを認識することで、実は私たちが見ている「現実」も、あくまで一時代の在り方でしかない、という視点に気づくことができる。

「レアリスム」の歴史とは、現実を模倣した表現の歴史におさまるものではなく、むしろ現実をめぐる思想と、その実践の歴史であると言えるだろう。
作品に表現される現実とは私たちの知覚に浮かび上がってくる存在の仮象でしかないのだろうか。もしそうではなく、作品や作者の外部に存在する現実、そしてそれは持つ固有の構造に、作品を介して触れることができる(少なくとも接近することができる)のだとすれば、それはどのようにして可能になるのか。そうして触れる現実の「表象」そのものが、既存の社会構造を受け入れ本質化するような、イデオロギー的抑圧の媒介者となってしまうことを避けるには、どのような戦略が可能だろうか。

28頁

例えば、先日読んだ『水族館の文化史』では、書籍等のメディアの普及によって、観客の水族への理解が高まることで水族館の在りようも変わっていった、という話があったが、新しいメディアの登場によって、人びとの現実認識が変わるということが十分にあり得るのは理解できる。

本書では、それは「写真」という視覚メディアの登場に触れた部分で読み取れる。
写真の登場はレアリスムに関わる諸芸術のあり方を変化させたらしい。

写真という新しい視覚メディアの問題がある。ダゲレオタイプから始まった写真術が、一八五〇年代に同一イメージの複製生産が可能なカロタイプの黄金時代を迎え、ディスデリの考案した名刺判の肖像写真が一八六〇年代から爆発的な流行を見るのは、写真史の常識であろう。絵画にとって写真は写実性の追求という点で、画家たちに有用な手段を提供したが、と同時に絵画の存在自体に影響を与える、両義的な視覚メディアであった。
このように、一八六〇年代のパリとは、複製画像を通して美術に関する歴史意識が濃密化すると同時に、質的に多様化した膨大なイメージ群が混在した時代なのである。無秩序なイメージの環境が史上初めて現出した時代といってもよい。そうした中にあって、アカデミックな紋切り型を否定し、クールベ以後の絵画における現実表象の新しい在り方を探求するマネら「ポスト・レアリスム」世代の画家たちは、どのような方向に向かったのだろうか。
おそらく、問題は絵画における「現実」の捉え方、表し方にあったと思われる。

106頁

そこで画家たちが取った行動は、写真というメディアによってもたらされた新しい感覚を作品に取り入れることであり、それによって「現実」への認識も変わっていった、という。
それはさまざまなものが複製され、大量に生み出されるようになった「近代」という時代への対応とも呼応しているというのも興味深い。

実は、一八六〇年代のレアリスム絵画は初期の写真術と浅からぬ関係がある。書き割りのような背景の前で、人物が動きのないポーズをとり、感情の交流が希薄な点は、露光時間が長かった当時の肖像写真の示す特徴と酷似している。たとえ演出はしていても、思いがけない「現実」を切り取ったかのような、予測できない「偶然」が紛れ込んだかのような、曖昧な「現実感」を感じさせるところも、写真と共有する特性と思われる。

115頁

マネを始めとするポスト・レアリストたちが参照したイメージには実作品もあり得るが、多くの場合、複製画像を媒体にしていたという点にあらためて注意を促しておきたい。むろん、複製版画を通して絵画のイメージが流布する現象は一九世紀以前にも存在した。しかしながら、既に指摘したように、美術館の整備が急速に進み、シャルル・ブランの美術全集が出版され始めたこの時代は、複製版画を通して特定の名作をリスペクトしつつ引用する段階から、体系化された膨大な画像のアーカイヴから任意のイメージを自由にピックアップして、大胆にコラージュできるような段階への移行期に当たっているのである。写真が美術品の複製媒体になり始めるのも時期的にちょうど符合する。
ベンヤミン風に言えば、複製技術時代にアウラを喪失した美術品は、画家たちのニーズに応じて提供されるイメージの貯蔵庫に収まることになるのである。

123頁

また、写真自体も、「専門的な技術であった時代」から「あらゆる人がカメラを気軽に扱えるようになった時代」への変化に伴って、その存在の在りようがいくつもに分かれていったという。その過程も非常に興味深い。

写真史において、素人写真家という意味でのアマチュア写真家の増加が決定的になったのは、一八八八年にアメリカのイーストマン社が、小型カメラ、コダックを発売したのちのことだ。それ以前の写真は、カメラをはじめとする撮影のための機材や種々の薬品についての専門的な知識を必要とし、写真プレートの感光処理や現像の工程も複雑だった。その上、それらすべてを撮影者みずからの手で行う必要があった。それに対して、「あなたはボタンを押すだけ。あとは私たちがやります(You press the button. We do the rest.)」という有名なキャッチコピーとともに売り出されたコダックは、「ボタンを押す」、つまり対象にカメラを向けてシャッターボタンを押し撮影する以外のすべてをイーストマンの工場で請け負うことで、撮影者を複雑かつ面倒な工程から解放した。

355頁

芸術写真の実験と発展は時間的・金銭的余裕のあるブルジョワ層に属した「専門家」たちが担ったのである。彼らはコダックの普及を機に質の低い写真が大量に作られるようになったことを憂慮し、写真の大衆化と低俗化に歯止めをかけるべく、その質と芸術性の向上を追求していった。

355頁

この二つの動向に共通するのは「イメージの流通量が圧倒的に増えた」ということであろう。そうした社会の避けがたい動きに対して、人びとの既存の芸術や写真に対しての認識は再考され、変化せざるを得なかった。
「イメージの流通量が圧倒的に増えた」という部分は、今まさに私たちの時代でも起きているようなことであり、ここから私たちの既存のものへの認識も変わらざるを得なくなっていくのだろうか。


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