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男のコンプレックス Vol.13「亀頭男子の生理的嫌悪」

【注記】
これは、マガジンハウス「POPEYE」2010年2月号〜2012年5月号に連載していたコラムの再録です。文中に出てくる情報や固有名詞はすべて連載当時のものです。現在では男尊女卑や女性蔑視、ジェンダーバイアスに当たる表現もあり、私自身の考えも当時から変化している点が多々ありますが、本文は当時のまま掲載し、文末に2023年現在の寸評を追記しました。

亀とか海老とか言ってますが
おめでたい話ではありません。

 どんなに言葉を尽くしても、どんなに理屈を重ねても、人は結局、生理的感情で動く生き物なのだ。生理的に嫌い、生理的にむかつく、生理的に受け付けない……など、人は“生理”の前であまりにも無力である。

 たとえば、君が女の子から「今は誰とも付き合う気ないの」「しばらく恋とかいいかな…」みたいな、ゆるふわポエミーな理由でフラれたとする。本当の理由は十中八九、君のことが「生理的にムリ」だったからだ。彼女が2週間後、市川海老蔵のような生理的に抱かれたい男と生理的に付き合っている可能性は、生理的にきわめて高い。

 そう、海老蔵がどれだけ謝罪し、誠心誠意へりくだってみせてもバッシングされてしまう理由。それは、彼が“男から生理的に嫌われる”要素を持っているからのような気がしてならない。男は、彼のような“確実に子孫を残しそうな顔”を本能的に敵対視するようにできているのではないか。

 海老蔵、確実に精子濃そうですしね。パッと見、亀頭に似てますしね。あ、ヘアスタイルのことじゃないですよ。中村勘太郎だって坊主頭ですけど、彼からはまったく亀頭臭しませんもん。逆に、ダルビッシュ有とかは確実に亀頭顔ですね。顔立ちが実に亀頭然としていますね。

 いや、本人には悪気も落ち度もない。ただ自然体で生きているだけだ。それなのに、彼を見ているとなぜだろう。男湯でいきなり勃起した“シャウエッセン”を見せつけられ、「どう? 僕のはこんなにそそり立っているけど、キミのは“ポークビッツ”だよね? ね、なんで?」と挑発されているような、そんな気分になってしまうのだ。

 常に“生きざまが勃起”しているがゆえに、周囲の男に無言の脅威とプレッシャーを与え、生理的に男のコンプレックスを刺激してしまう。海老蔵の悲劇は、男の生理を敵に回してしまったことだろう。

 男は虚勢を張り続けていなければ萎えてしまう悲しい生き物だが、常にずるむけで屹立させていては反感を買う。同性を味方につけたければ、時には皮をかぶったふりをして自分を小さく見せることが、かえって“ひとつ上の男”への近道だと心得よう。

(初出:『POPEYE』2011年2月号)

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【2023年の追記】

こんな文章、言いがかりにも程があるというか、市川海老蔵あらため團十郎 白猿の顔を亀頭に喩えるなんて、今だったらギリギリ誹謗中傷の域に足を踏み入れてるレベルですね。

ただまあ、このときの私が言いたかったこともわかります。私たちは、理性や理屈で言語化できるものだけがみずからの行動原理だと思いたがるけれど、実際はもっと生理的な感覚や本能的な直感と呼ばれるものに左右されていることを自覚しようよ、ということでしょう。

それは、「人間はしょせん生物学的な本能に左右されている動物にすぎない」といったシニカルなペシミズムでは決してありません。むしろ、本能を否定して生きることにこそ人間の倫理や人間性は宿るのであり、だからこそ無自覚に支配されている領域があることを認め、そのことに自覚的であろうよ、と私は言いたいのです。

それは、ジェンダーバイアスや構築主義的な性別役割を否定するあまり、生物学的/先天的/本質主義的な性差までないことにしようとするのが本末転倒なのと似ています。本質的な性差はあると認めた上で、「人間なんだからそこから自由でいいじゃない」と主張するのが、文明的であり文化的な人間のあるべき態度ではないのでしょうか。

昨今のトランスジェンダーをめぐるTRAとTERFの思想対立が先鋭化するのを見ていると、「人間にあるのは身体的性別だけであり、性自認など存在しない幻である」というTERF側の主張は性自認をあまりにも社会構築的なものだと捉えすぎていると思いますし(私は、器質的/先天的に生じる性自認というものはある程度存在すると思っています)、かといって、トランスジェンダーやトランスセクシュアルをする人の中には、強固なジェンダーバイアスに囚われるあまりその押し付けや違和から逃れようとトランスする人もかなり多いように見えて(そういう人に必要なのはむしろミソジニーの矯正や、ジェンダーからの解放、ノンバイナリーの受容だと思います)、性別区分の基準をなんでも性自認にしようとするTRA側の考えもまた違うなと思ってしまいます。

話題がだいぶずれてしまいましたが、私たちは先天的/本質主義的なものに支配されている生き物であることから簡単には逃れられないし、かといって、後天的/構築主義的なものにアイデンティティをどっぷりと預けていて簡単には否定できない。その両輪を回していくしかないんだってことです。


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