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品とは何か 『コルシカ書店の仲間たち』を読んで考えたこと

母の口癖は「品のない人にはなるな」だった。小さい頃、よく言って聞かされた。

しかし「品のない人」の定義を教えてくれない。どこで地雷を踏むかわからないのは怖い。ご飯をがっついて食べない、とか、なるべくスニーカーを履かない、とか、いくこと名前で呼ばないで必ず「私」というなど、その時々で暗黙のものがあった。

しかし、そんなことはしょせん気取ってるだけじゃないかと思い始めた。次第に母の言葉を意識しなくても生きられる年齢になり、問い自体をすっかり忘れていた。

それなのに、先日、ふと考えることがあった。


須賀敦子さんの『コルシカ書店の仲間たち』という本を読んだ。読み始めたら夢中でページをめくっていて、あっという間にあとがきになった。切なかった。本を閉じながら、なんて品がよいんだろう、と感動し、余韻に浸っていた。

この本はイタリアに留学した須賀さんが、ミラノのコルシカ書店に迎えいれられ、出会った人たちを描いたエッセイである。

ただ、コルシカ書店は普通の本屋とは一味も二味もちがう。詩人のトゥロルド司祭を中心にした共同体づくりであり、教会権力と闘いながら理想を目指す仲間がつどう拠点となっている。あちこちで政治談義が交わされる。だから当局に目をつけられることもある。

著者は書店の店主ペッピーノと夫婦になって暮らす。そして仲間と一緒にご飯を食べたり旅をしたりしながら仲を深めていく。こうして知り合った人々の姿を描いていくのがこの作品である。

仲間の中にはミラノ上流階級出身のツィアテレーサもいれば、じゅうたん売りとなって消息をたったエリトリア人のミケーレ。若くしてドイツ人と結婚したが今や嫌で仕方なくて嘆いてばかりのニコレッタ。

身分や暮らしぶりもそれぞれであるが、理想に破れて山にこもったり、恋人と仲違いばかりしてしたり、家族と絶縁していたり、人には言えない商売をしていたり。みな、人生思うようにいかない。

でも、須賀さんの筆力にかかると、うまくはいかないことこそがその人を生きることのように思えてくるから不思議だ。苦悩も美しくみえる。孤独になってしまった姿は、その人であろうとした証のように感じる。

一人一人がもつ危うさを決して裁かず、いい悪いで判断せず、同時に決して誇張もしない。よく観察し魅力的にかきあげている。

人生が思い通りにはいかない事に対して深く許している。そして仲間といってもわかりえないそれぞれの孤独を豊かな想像力で包んでいる。

こういった著者の眼差しには「品」としか表現できない良きものを感じるのである。

どうやったらこういう眼差しが身につくのだろう。天性のものか、異国に行って苦労した結果だろうか。

須賀さんは裕福な家庭で育ちイタリアに留学、出会った夫ペッピーノは貧しい家庭出身で、決して暮らしは楽ではなかった。そして夫を病で亡くしてイタリアから帰国。その後20年してからエッセイを書き始めたという。

様々な経験をしたあとで、過ぎた月日が記憶をまろやかにし、品のよい眼差しになったのだろうか。

もう一つ、須賀さんのエッセイには、街の歴史や街並みの描写、そして歴史がたくさん出てくるのが好きだ。街はそこに住む人の気配を静かに食べている。一人一人の人生の嘆きや喜びは、いずれ抱かれて吸収され、街は街として生き続ける。そういった人の生き死にを超越したもっと大きな視座が作品にある。それゆえに、それぞれの人生に対しては突き放した見方もできるのだろう。

ある種冷たくて温かい。その両方があることに、確かな知性とそれ以上に品性を感じる。

品という曖昧な言葉に悩まされドキドキしてきた記憶がある私としては、自分なりに「品」の中身の解像度があがるのは、自信がつく。

『コルシカ書店の仲間たち』に代表される須賀さんの本を開ければ、そこにはそれがあると思うと、道しるべとなるお守りが一つ増えたような気分だ。


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