日曜日は不安だらけ
10歳くらいの頃。日曜日は不安だらけだった。
食卓の上の、手付かずの炒飯。母が作ったお皿はもう冷めていて誰も食べていないままだ。私も食欲がない。
長引く梅雨のように、部屋には空気が滞っていいる。
無事に1日が終わるのだろうか。
これから家族で買い出しにいく。ダイクマとスーパーへ週末の買い溜めをしに。
ダイクマは今でいうドンキホーテのような雑多な安売りの店だ。ダンボールが積んであって、1番上の箱を開けて商品がてんこ盛りになっている。
靴、服、カバンなどから、新品のゴムやビニールの匂いがする。この人工的な匂いが鼻についてイライラして、体調によっては吐き気がした。ダイクマを通り抜けるのが最初の試練だった。
ダイクマの隣にはスーパーマーケットがあった。
たくさんの家族が一週間の買い溜めに来ていた。お母さんかお父さんがカートを押して、子どもたちがカゴに乗せられたり、周りをたわむれたりして、見て回っている。
そういう同じ年くらいの家族がたくさんいる中にいると、ザワザワと胸騒ぎがして、緊張した。
どの組が1番「家族」らしいか、判定されている気がした。
本当に笑っている子どもはどこか。誰かが見張っている気がした。さながら、品評会のようだった。
判定中なので、私は、温かい家族に見られるように、真心があるように、努力をしなければならない。
そうしないと誰かが本当のことを突きつけにくるような予感がした。
我が家がダメと絶対に言われてはならないし、子どもは大事なパーツであるのだ。
当時の日曜日は休日ではなかった。私にとって。たぶん両親にとっても。
両親には過保護なくらいにたくさん目をかけてもらい育ってきた。2人は役割に対してとても真面目だった。
しかし、私が小学校2から4年の頃に感じていた「家族」への不安は切実だった。
不安なだけではなく、壊れてしまいそうな繭玉を守らなければ、という責任感があった。
時に子どもらしく振る舞うことで、時にみんなを和ませることで責任を全うできた。
しかし、私の責任感を親たちは喜んではいないようで往々にして、砂地で回り続けるタイヤのように空回りした。
この気持ちを誰にも言えなかったので、自分の中だけでどんどん膨らんでいった。
そういえば、壊れそうなのに大丈夫そうに見せかける共犯のような喜びもあった。確実にその時は私は家族の一員だった。
いつもそうやって自分の意識や感情が回転し続けるので、安心している状態とは程遠かった。
不穏な記憶はちょうど10歳の頃がピーク。原因について何も知らないが、家族が具体的に危機にあった時期なのかもしれない。
子供は、大人が見てみぬふりをしているものをよく見ている。それを空気のように吸ってしまう。なんだかわからないままに。
私の抱えた感情も、半分は自分の感性、半分は母の無意識の感覚に影響されたものだと思う。
大人たちが見てみないふりして平穏を保っているつもりでも、子どもは敏感に気づき、影響を受けてしまう。
それをコントロールすることはできない。なにしろ他に行き場がないのだから。
気分を変えるために数日旅に出ることはない。お酒やタバコを飲んでストレスを発散することはない。好きなチョコレートをバックに忍ばせることすらできない。意思を表明しようにもその力がない。癇癪をおこすくらいしかできない。
与えられた家族に決められた学校。住んでいる地域は選べない。彼らは子どもであるがゆえに、圧倒的に不自由だ。
小さな私は大人に対して、内心怒っていた。
子どもに期待するなよと。
自由で力があるはずの大人が、不自由な状態の子どもに対して、希望のような存在でいることを期待するのは一体なんなのだ、と。あなたたちはよっぽど力があるだろうに、なぜ向き合おうとしないのかと。
大人の問題が子どもの問題にすり替えられていく場面をみて、内心冷ややかな目線を向けていた。
今、よい大人の年齢になってみると、年をとっても生きるのは大変なときがあり、たいして自信もないままだ。
しかし、それでも幼い人と比較してみれば紛れもなく、自由で力を持っている。
そのことを認識して初めて、子どもたちの為に何かしたいと思った。
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