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高田冬彦 アナーキズムの肉体

黒ダライ児による『肉体のアナーキズム』は画期的な著作である。戦後美術史から排除されてきた、おもに60年代の肉体表現の系譜を「反芸術パフォーマンス」として初めて歴史化したからだ。糸井貫二をはじめ、小山哲男、ゼロ次元、集団蜘蛛などの活動の実態を解き明かした意義は、ひじょうに大きい。

高田冬彦の作品は、反転した反芸術パフォーマンスとして考えられるのではないか。それは過剰にまでに強烈な身体性を共有しつつも、その舞台を広場や路上といった公的領域から自室という私的領域に転じているからだ。隔絶された空間で繰り広げられる、きわめて私的で過激な秘儀的行為。反芸術パフォーマンスは、その熱を帯びた私秘性をマスメディアに回収させることで社会化せしめたが、高田は映像メディアを駆使することで、自らそれを世界と直結させるのである。

それゆえ高田冬彦は「美術の下半身」を露出する反芸術パフォーマンスの、もっとも正統な後継者と言えよう。

しかし今回の個展で明らかになったのは、高田冬彦の作品には反芸術パフォーマンスの欠落を補う、より積極的な意味が含まれているということだ。その欠落とは、反芸術パフォーマンスに内蔵されたジェンダー的な偏りである。

反芸術パフォーマンスの主体は圧倒的に男性だった。女性が関与した事例がないわけではないが、あくまで少数で、見せられる肉体はおおむね男性のものだったと言ってよい。高田冬彦もまた、自らの男性の肉体を作品の素材としているが、そこで醸し出されるイメージは、じつはきわめて女性的である。

たとえば、生首の血糊で円を描く《Ghost Painting》は真円を、性的な夢想の中で妖精たちに全身を弄られながら牧神がセルフィーに興じる《Afternoon of a Faun》は水平性を、そして人間に憧れた人魚が脚を得るために自らの尾びれを刃物で切断する《Cambrian Explosion》は垂直性を、それぞれ強く打ち出していることは明らかだ。だが、それらの断片的なイメージをかけ合わせると、女性性を示す記号(♀)がたちどころに現れるのである。

とりわけ象徴的なのが《Cambrian Explosion》。両足で立つことを夢見るロマンティックな唄とは対照的に、尾びれの切断面からは恐ろしいほどの血しぶきが飛び散る。そのスプラッター的な迫力はすさまじい。けれども、その背後で暗示されているのは、抑圧的なボディ・イメージに苛まれる現代女性の、肉体改造へ向かう並々ならぬ衝動と快楽である。高田冬彦は、言ってみれば反芸術パフォーマンスをジェンダー・アートとして読み替えることで、それを今日的に止揚したのだ。

かつて若桑みどりは、女の子の一生を「夢想と幻滅の歴史」であると診断した。「リトル・マーメイド」や「シンデレラ」がその夢想を膨張させる夢物語であるとすれば、高田冬彦はその夢物語が吹聴する欲望を裏側から切り裂くことで、夢想と幻滅の果てしない歴史に終止符を打ったのである。その裂け目の奥にあるのは、アナーキズムの理想にほかならない。

初出:「美術手帖」2016年7月号

高田冬彦 STORYTELLING                     会期:2016年4月16日〜5月21日                   場所:児玉画廊

※以上の3点の写真は「高田冬彦 Love Phantom 2」(WAITINGROOM、2021年1月30日~3月7日)より。

#高田冬彦 #美術 #アート #レビュー #福住廉


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