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野生の絵画──淺井裕介の泥絵について・肆

ただ、淺井裕介の作品に通底する神話性のうち、わたしがもっとも強調したいのは、陰陽五行との関係性である。これまでレヴィ=ストロースの思想や理論を手がかりに、淺井の泥絵を詳しく考察してきたが、淺井の泥絵の本質的核心がレヴィ=ストロースの言う「野生の思考」にあるとしても、それはあくまでも西洋近代に由来するパースペクティヴだった。「野性の思考」が人類に普遍的に共通する、まことに原始的で根源的なものであるならば、この概念を今日応用する者は、少なくともそれが西洋近代に出自をもつという偏りに自覚的でなければならない。西洋近代が嘯く普遍性が、そのじつ普遍性を装った特殊性のひとつにすぎなかったことは、当の西洋近代自身がすでに反省的に解明しており、それは今日の西洋現代思想の大前提となっているからだ。であれば、必要なのは、淺井裕介の泥絵の神話性を「野生の思考」という西洋の光によって浮き彫りにすることだけではなく、同時に、それが中国で制作され発表された経緯を踏まえた上で、中国の思想によってその内実を把握することではないか(もっとも、レヴィ=ストロースは数々の著作において中国思想に部分的に言及しているので、西洋思想の偏向性に決して鈍感だったわけではない)。中国の思想は豊かな伝統と蓄積を誇り、そのいくつかは日本の思想にも継承されているが、わたしがとりわけ注目したいのが「陰陽五行」である。なぜなら、それは中国の思想のなかでも、もっとも基底にある、ひじょうに根源的なものだと考えられるからだ。神話性、すなわち原始的な根源性を検討するには、これ以上適切な事例は他にあるまい。

陰陽五行とは古代中国の哲学である。在野の民俗学者、吉野裕子によれば、「原初、宇宙は天地未分化の混沌たる状態であったが、この「混沌」の中から光明に満ちた、軽い澄んだ気、つまり「陽」の気が上昇して「天」となり、次に重く濁った暗黒の気、すなわち「陰」の気が下降して地となった」(吉野裕子『陰陽五行と日本の民俗』人文書院、p25)。すなわち、世界の構成原理を陽としての天と陰としての地に求めること、これが「陰陽」である。また、中国の漢族に伝わる「盤古開闢神話」によれば、天と地を分けたのは巨大な卵の中で眠りから覚めた巨人盤古であり、盤古は両手で天を支え、両足で地を踏みしめ、天地が再び接合しないように一万八千年ものあいだ立ち続け、その天と地のあいだに世界が創造されたのだという。つまり、天と地、すなわち陰陽とは、本質を異にするがゆえに、本来的に互いに交感し交合する働きをもつ。そのような陰陽の往来から生まれたのが、木、火、土、金、水という五原素であり、それぞれの働きのことを「五行」という。

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重要なのは、中国における陰陽五行は自然の摂理と厳密に対応して理解されているという事実である。木と木をこすり合わせると火が起きる。火は燃え尽きると灰を残し、やがて土に還る。土は長い時間をかけながら鉱物を育み、鉱物の表面には湿度が高いと水滴がつく。そして、その水が植物を育むというように、自然の循環構造と五行は明確に照応しているのである。それだけではない。陰陽五行は時間と空間の体系も含んでいた。木、火、土、金、水という五行は、それぞれ、春、夏、土用、秋、冬という季節に対応しており、また、東、南、中央、西、北という方角にも合致していた。つまり、陰陽五行とは、古代から伝わる神話というより、むしろ世界を把握するための知の体系、もっと言えば、世界の根本原理なのだ。

注目したいのは、やはり土である。空間的に言えば、土は中央に位置づけられており、時間的に言えば、それは土用に位置づけられているので、五行のなかでもとりわけ重要な役割を与えられていることがわかる。土用とは、日本においては「土用の丑」として知られているので馴染み深いが、本来は季節と季節とのあいだの18日間を指している。つまり、合計すると、1年のうちに72日間が土用となる。吉野によれば、土用には季節と季節とをつなぐ両義性が認められるという。そこには死すべき季節を殺し、生まれるべき季節を育む両義性が通底しており、この強力な転換作用により季節は移ろっていくと考えられているわけだ。つまり、死滅作用と育成作用を兼ね備えた土は、いわば自然を循環させる動力源なのだ。もちろん、西洋近代の科学的思考によれば、季節の変化は地球がわずかに傾きながら太陽の周囲を公転しているからであり、そのように考える地動説が疑いの余地のない真実とされている。だが、陰陽五行という「野性の思考」は、わたしたちに別の真実を教える、ある種の神話なのだ。

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先に、淺井裕介の泥絵は自然の循環構造との同期というコンセプトを内蔵していると書いた。だが、陰陽五行という世界原理を背景にして再検討してみれば、自然を循環させる動力源をメディウムとしているがゆえに、自然の循環構造と同期していると言い直さなければならない。土を土地から採集し、再び土地に返すから自然と同期しているというより、土そのものがすでに自然の循環を促す原動力なのだ。言ってみれば、淺井は二重の方法で泥絵という人工的な絵画と自然そのものを同期させているわけだ。そして二重の方法であるがゆえに、それが発生させる絵画的イリュージョンもまた倍増する。真下から見上げると、あたかも北極星を中心にゆっくり回転する星空を幻視すると書いたが、そのイリュージョンはたとえば遠近法のように額縁というパレルゴンを不可欠とする絵画の形式に由来しているのではなく、むしろ土というメディウムそのものの働きに起因しているのだ。土はそれ自体としてはほとんど動くことはないが、土以外の五行を動かす原動力になりうる。だとすれば、《空から大地が降ってくるぞ》に小宇宙という神話的イメージを見出すことができるのは、それが主題として森羅万象を描いているからではなく、もしかしたらメディウムとしての土が空間を動かしているからではないか。やや大胆に言い換えれば、泥絵が動いているように見えるのではなく、じつは土が空間や私たちを動かしているのではないか。《空から大地が降ってくるぞ》は、天動説から地動説への反転に匹敵する、そして並大抵の現代美術では決してなしえない、イリュージョンのパラダイム・チェンジを引き起こしているのだ。

淺井裕介の泥絵は、言ってみれば「野生の絵画」である。それは、西洋の現代思想によっても、そして中国の古代哲学によっても、論じられうる神話的なイメージを持ち合わせており、その根源的な原始性は作者である淺井だけでなく、鑑賞者であるわたしたちにも共有しうるイリュージョンを生み出しているからだ。動植物の融合や主客の転倒は、その具体的な現われにほかならない。このような「野生の絵画」は、世界的に考えてみても、おそらくは淺井裕介しか成し遂げていない、きわめて稀少な絵画である。その意味で、《空から大地が降ってくるぞ》を見ることができる苔蘚館は、世界でも他に類例を見ない、すぐれて神話的なトポスであると言えよう。

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それにしても《空から大地が降ってくるぞ》は、いったいどんな神話を物語っているのだろうか。もとより、この泥絵は視覚芸術であるから、文字や口承伝承で伝えられる神話のような、明快な物語的構造をもっているわけではない。しかし、神話の基本的原則が、語り手による部分的改変を繰り返す、「語りそびれ」にあるとすれば、視覚芸術としての泥絵にも同じような構造を見出すことができる。淺井の泥絵は基本形を維持しながらも、その都度、新たな図像を登場させているし、小さな工夫や新たな技法をつねに試しているからだ。動植物や人間の個体が基本的な形態で一致しつつも、わずかな差異によって個体として自立化しているように、淺井は泥絵というかたちをいくども反復しながらも、一回限りの独自性を確実に生み出しているのである。たとえば前述した「D4」という新たな画材の導入や、魚類を図像に加えた点は、そうした新たな挑戦の具体例である。とはいえ、こうした同じことの繰り返しという特徴は、近代的な価値観にもとづく現代美術の世界ではあまり評判がよくない。というのも、それは類型的な表現を繰り返すマンネリズム、すなわちオリジナリティーの欠如、いや、むしろその怠惰な断念として見なされるからだ。しかし、同じ点を「野生の絵画」という基準から考えてみると、それは別の意味と表情を持ち始める。たとえば、レヴィ=ストロースは、究極的には「神話はただひとつ」であると考えていた(レヴィ=ストロース「神話論理Ⅳ-2 裸の人」みすず書房、2010、P699)。つまり、レヴィ=ストロースにとって、神話とはたったひとつの「構造」の現われであり、世界で語り継がれている数々の神話はその「構造」の変奏曲だった。だとすれば、つねに同じような泥絵を描いているように見える淺井は、ある特定の「構造」にまなざしを向けながら、それをそれぞれちがったかたちで顕在化させていることになる。

それはいったい何なのか。はたして淺井はどんな神話を語り直しているのか。最後に、私見を開陳するならば、それは「存在の肯定」であると思う。泥絵の世界を構成する有機物と無機物は、時として融合することはあっても、いずれもその場に存在していることを肯定されているように感じられるからだ。消滅と生成を繰り返しながらも、決してそれぞれの生命体の存在が否定されているわけではない。個々の断片が全体の統括のもとで存在することを許されているというわけでもない。それぞれの断片が断片のまま自立的に存在しており、結果としてゆるやかな全体を構成しているように見えるのだ。だからこそ、《空から大地が降ってくるぞ》には不思議な抱擁力が感じられる。全身を包み込むような一体感のなかで、わたしたち鑑賞者もまた、そこに存在していることを肯定されるのだ。あるいは、そこに「神」を感じ取る人もいるだろう。この世界で存在することを無条件に肯定されること。改めて文字にすると、単純きわまりない、しかし、人が生きるうえで、もっとも根源的な原理ともいえる、この神話を、淺井は絵画的言語でいくども語り直しているのである。

神話はこれまでも語られてきたし、これからも語り直される。淺井裕介はいずれ他の場所でまた同じ神話を語り直すだろう。それは、わたしたちにとって大いなる祝福の瞬間となるにちがいない。
[了]

野生の絵画──淺井裕介の泥絵について・壱

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