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【卒論】なぜ自己啓発書は心の「処方箋」になるのか ~ポジティブ・努力の信仰と「自己責任」について~ 第三章 二〇〇〇年代のスピリチュアルブーム

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第三章 二○○○年代のスピリチュアルブーム


・「スピ系」と「スピリチュアリティ」

 
第一章では、自己啓発書の発端を探っていった。アメリカで始まったポジティブ・シンキングや、日本で明治時代から伝わる「修養」、そして現在のオンラインサロンなど、自己啓発書に関連するものの流れを辿った。しかし、駆け足で辿ってしまい、昭和や平成の企業の集団での修養などは触れられたものの、抜け落ちている部分が多くある。オンラインサロンなど直近の事例にも触れたが、そこから少し時代を戻して、今度は平成の自己啓発書についてみていきたい。

 二○○○年代は、スピリチュアル系の自己啓発書のブームが到来した時代だった。自己啓発書は、ビジネスで成功するためのハウツーを学ぶ上昇志向系の本と、見えざる力を語るスピリチュアル系の二つに、非常に大きく分類すると分けられると考える。あまりにも雑な言い方ではあるが、前者は「意識高い系」、後者は「スピ系」になる。

「スピリチュアル」という言葉自体は、世の中に浸透していると考えて良いだろう。少し不思議な発言をする人のことを、「スピってる」と揶揄することもしばしばだ。「スピってる」はネットスラング的で、良い意味で使うことはほとんどないが、全く持って話が通じない相手に対して使う言葉というよりも、ひと昔前なら「天然」と言われていたような人に向けて使っていた言葉が「スピってる」なのではないだろうか。
 では、ネットスラング化する程度には、使いこなしている「スピリチュアル」の定義はどのようなものなのか。『現代スピリチュアリティ文化論 ヨーガ、マインドフルネスからポジティブ心理学まで』(伊藤雅之 明石書店)によれば、スピリチュアリティの定義は、

(1)おもに個々人の体験に焦点を置き、当事者が何らかの手の届かない不可知、不可視の存在と神秘的なつながりを得て、非日常な体験をしたり、自己が高められるという感覚をもったりすること

とされている。不可知・不可視の存在の例には、(2)「大自然、宇宙、内なる神/自己意識、特別な人間など」が挙げられる。
 つまり、スピリチュアリティはあくまで個人的な体験が主軸となっている。だから、第三者が「そんなものは存在しない」と言うことはナンセンスなのだ。そして、現代のスピリチュアリティ文化では、(3)「『ありのままの自分』や『本当の自分』など自己の内面、および自然や宇宙との結びつきをとりわけ強調する傾向」にあるという。

 歌手のマハラージャンの曲に「僕のスピな人」という曲がある。二〇二一年にリリースされたこの曲は、現代のネットスラング「スピってる」と、本来のスピリチュアリティの定義どちらをも融合させた歌詞で構築されている。歌詞の一部を抜粋する。

 見上げた瞬間 ビルの明かりがついて 何かが起きそうな予感がした
 スピってスピってスピって 全て一瞬にして 今宇宙の正体がわかった 気がした
 
「見上げた瞬間に、ビルの明かりが灯る」という、個人的な体験から、宇宙の正体まで繋がるというのは、スピリチュアリズムの定義と重なる。曲全体を通して見ると、「好きな人」のことを「スピな人」と言い換えた、少し奇妙なラブソングなのだが、スピリチュアルソングとも捉えようによっては捉えることが出来る。けれども、最後に「気がした」と口を濁しているため、スピリチュアルに振り切ってはいない。スピリチュアル全盛期の二○○○年代ではなく、二〇二〇年代らしい新ジャンル、「スピ系ラブソング」なのかもしれない。


話題をスピリチュアルに戻そう。伊藤の同書に書かれていたスピリチュアリティ文化の変遷を参照すると、一九六〇年代以降の現代社会では、(4)「未来志向で理性を重視し業績主義的な『近代志向性』と、(中略)感性を重視し自己肯定を掲げる『脱近代的指向性』のせめぎ合いが起こっている」という。「近代志向性」は高度経済成長期の「追いつけ、追い越せ」の圧の典型的な例だとも述べている。
どちらもスピリチュアリティ文化の中のせめぎ合いと伊藤は見解を示すが、「近代志向性」はスピリチュアルの枠を超えた自己啓発書の「意識高い系」に区分されるだろう。
伊藤も一九六〇年代から一九九〇年代前半には対をなしていた両者が、一九九〇年代後半から現在にかけては、「相補的に」になっているとしている。かつてのスピリチュアリティ文化は、カウンターカルチャー的立ち位置だったが、それが次第にメインカルチャーへと変わっていった。それは、スピリチュアリティ文化自体が劇的に変化したというよりも、「近代性」そのものが時代とともに変化していった結果かもしれない。

・「オーラの泉」旋風

二〇〇五年にテレビ朝日で放送が開始された「オーラの泉」(二〇〇九年まで放送)は、記憶にある人も多いのではないだろうか。「スピリチュアル・カウンセラー」の江原啓之がゲストの霊視を行い、美輪明宏と共にアドバイスをする番組である。筆者も放送開始当時五歳と、未就学児だったにも関わらずこの番組のことは記憶している。美輪明宏のインパクトの強さで強烈に印象に残っているのかもしれないが、人の「オーラ」が見えるという江原啓之のことを、特に疑うこともせずに見ていた。二人と話したことで最終的に涙を流すゲストがたくさんいたことも覚えている。「スピリチュアル・カウンセラー」という職業が何をする仕事なのかは分からないし、美輪明宏も何者なのかよく理解していなかったが、それこそ只者ではない二人の「オーラ」が何よりもこの番組に説得力を持たせていた。

 江原啓之とは一体何者なのか。そもそも、日本で起きたスピリチュアルブームの原因は何なのか。『現代思想 スピリチュアリティの現在』(二〇二三年一〇号 青土社)の島薗進の、「スピリチュアルの未来に向けて」によると、日本におけるスピリチュアリティの興隆は一九八〇年代に遡る。(5)「既存の枠組みに従う宗教にかわって、自己変容を追求するポジティブなスピリチュアリティの興隆は米国で一九七〇年頃から、日本ではおよそ十年後から」とされている。この時期に「精神世界の本」という言葉が出現し、書店でのフェアも行われるようになる。ちなみに、日本で最初にこうした特集をしたのは、新宿の紀伊國屋書店だという。筆者が人生で最も通ったであろう書店が、「精神世界の本」のフェアの元祖だというのは、これも何かの巡り合わせなのだろうか。これからすぐに他の書店でも大型店では「精神世界」のコーナーが展開されていった。

 島薗はスピリチュアリティの興隆についての中で、第二章でも取り上げたオウム真理教について触れている。(6)「オウム真理教に入った多くの人々は、精神世界の動きの支持者だった時期がある。実際、一九八〇年代中頃のオウム真理教はヨーガに力点がある精神世界系の団体のようにも見えた」としているが、オウム真理教は一九八四年二月にヨーガの修行道場「オウムの会」として発足しているため、この見解は間違いではない。(7)(伊藤雅之『現代スピリチュアリティ文化論』明石書店のデータより)
一九八〇年代に「精神世界」という言葉として扱われていたスピリチュアルが、「スピリチュアル」として世に広まったのは、そこからさらに十数年後の一九九五年頃である。書籍のタイトルに出てくる言葉を調べた(8)堀江宗正によると、この一九九五年を境に、「精神世界」「霊性」という言葉以上に、「スピリチュアル」「スピリチュアリティ」と言った語が頻出するようになってきたという。

 そして、二〇〇〇年を過ぎてスピリチュアルブームを牽引するのが、先にも登場した江原啓之である。江原のファンを指す「エハラー」は、二〇〇六年の新語・流行語大賞にもノミネートされている。
新語・流行語大賞は、選出される言葉がやけにスポーツ、とりわけ野球に関するものばかりだと、毎年のように指摘されている。イラストレーターでエッセイストの能町みね子の「流行語大賞の人格は五〇過ぎの野球好きのおじさん」という説もうなずけるほど、野球に選出が偏っている。ちなみに、二○○六年のトップテンにも、当時甲子園に出場していた斎藤佑樹の「ハンカチ王子」がランクインしていた。こうした、野球発の言葉たちをかき分けて、“おじさん”たちの目にとまった「エハラー」はそれだけ大きなブームだったのである。


 島薗は、(9)「江原はカビくさい匂いがあるスピリチュアリズムの用語法や思考内容を、現代のセラピー文化に適合するようなものに転換させていった」と評している。「カビくさい匂いがあるスピリチュアリズム」とは言い得て妙な、この世界の怪しさを表現した言葉である。「スピリチュアル」に、ガツガツした野心に満ち溢れたビジネス書とはまた違った警戒心を持つ人もいるだろう。だが、江原啓之や「オーラの泉」が醸し出す雰囲気には、そうした警戒心を持つようなつくりではなかった。豪華なセットと華やかな雰囲気で、「カビくさい」とは縁遠い世界観が構築されていた。流行りの言葉を用いるなら、「ファビュラス」といった感じである。

「ファビュラス」代表の叶姉妹も、よく考えると何者なのかわからないが、何となくありがたい雰囲気をまとった存在である。彼女たちも自身のポッドキャスト番組「叶姉妹のファビュラスワールド」(Spotify Studios)にて、リスナーからの悩み相談を行っている。真剣な人生相談のメールも多く、時には電話で相手と話し、悩みに答えていく二人に、江原啓之の言葉のように救われている人もいる。
『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』(香山リカ 幻冬舎)でも、スピリチュアルの(10)「おどろおどろしさやいかがわしさは限りなく薄まっている」としている。この書籍は初版の発行が二〇〇六年十一月なので、より肌感覚でその流れを感じ取っていることが分かる。(11)「どのスピリチュアル本も装丁や文体、使われているイラストは前向きで明るいイメージ」と、江原啓之の書籍だけでなく、スピリチュアル本全体がポップな志向だとしている。
これは、書店の女性向けのスピリチュアル本のコーナーに行けば、一目見てわかるだろう。とにかく、一面そのコーナーだけ際立ってカラフルなのだ。カラフルというよりも、ピンク一色といった方が正しいかもしれない。恋愛指南本や、モテ術の本だけではなく、『お金の神様に可愛がられる方法』(藤本さきこ KADOKAWA)といった本もあるが、とにかくピンクを基調にしている書籍が多い。恋愛小説のコーナーと引けを取らないピンク度である。女性向け=ピンクという発想は極めて前時代的で、あまり肯定できるものではない。しかし、「カビくささ」を消し去るには、過剰にフェミニンなくらいでないといけないのかもしれない。
 

・江原啓之と人気女性作家達の関係性
 


江原が書籍で訴えていたことを詳しく見ていきたい。彼の書籍も、九〇年代には『自分のための「霊学」のすすめ―人間を磨き、霊性を磨く』(ハート出版)といったオカルトめいたものだった。こちらは『幸運を引きよせるスピリチュアルブック』(江原啓之 三笠書房)よりも格段にとっつきにくく、表紙のデザインも確かに「カビくさい」。赤色の明朝体がなんとも不気味な書籍である。大型書店に平積みされる所よりも、中野ブロードウェイにある「まんだらけ」の隅にあるオカルト本といった風貌だ。
ここから一変、『幸運を引きよせるスピリチュアルブック』は、文庫版が黄色、愛蔵版はピンクと一気に可愛らしい装丁になっている。文庫版の方にはディズニーの「ピーターパン」に登場するティンカーベルのような妖精のシルエットが描かれていたり、愛蔵版の方にも数々のハートやレースの柄があしらわれていたりと、ファンシーなムードが漂っている。よく著者名を見ないと、この二冊が並んでいても、同じ著者の本だとは気付かないかもしれない。
『幸運を引きよせるスピリチュアルブック』の帯は林真理子が書いている。林は江原啓之と雑誌『an・an』(マガジンハウス)で対談するといった親交があり、帯には「人生の重要な場面で、江原さんには何度も救われた」、「江原さんは人生のカウンセラーだ」との言葉を送っている。帯に寄せる言葉なので、多少の誇張はあるだろうが信頼の厚さが伺える。その他にも、江原は様々な当時の人気作家たちと交流がある。その中には、日芸文芸学科出身のよしもとばななやエッセイストの酒井順子なども含まれる。  
筆者が同学科の友人に「自己啓発書やスピリチュアル本に興味があり、卒論のテーマにした」と伝えると、「この辺の人(文芸学科周辺の人)はそういう本は読まなさそうだよね」と言われたことがある。確かにそうだと思ったが、林真理子・よしもとばななという文芸学科出身の有名作家二大巨頭が、揃って江原と懇意にしていた。いくらひねくれた日芸生も、こうした本を読んで感化される可能性は充分にあるということである。


『幸運を引きよせるスピリチュアルブック』の内容をみていこう。ページを開いていきなり、

(12)決して偶然ではありません、あなたがこの本を手にしたことは……。まさにこの瞬間に、ガーディアン・エンジェル、ガーディアンスピリット(守護霊)があなたに手を差しのべようとしています

とこちらに語り掛けるような口調で始まる。
「引き寄せの法則」や、ポジティブ・シンキングの書籍にも出てこなかった突然の「ガーディアン・エンジェル」に面食らってしまった。どこかで説明があるだろうと、そのままプロローグを読み進めたが、その後も特に解説はなかった。
それよりも江原啓之の職業の「スピリチュアル・カウンセラー」とは何なのかの説明に重点が置かれていた。江原の言い分では、

(13)スピリチュアル・カウンセラーといっても、私は特別な人間ではありません。ただ、目に見える世界でなく、目に見えない世界、人の過去や未来までもが見える能力を持って生まれただけのこと。ごくごく普通の生身の人間です

という。人の過去や未来が見える能力はどう考えても普通ではないが、「みなさんの心の悩みが身にしみてよくわかります」と続いているので、人を超越した神ではなく、自分も同じ人間だから悩みに共感できる、ということなのだろう。「カウンセラー」を名乗る所以はこの親身になって、話に耳を傾けるところにあるのだ。勝手に未来を見て、「地獄に落ちるわよ!」と脅すようでは「スピリチュアル・カウンセラー」失格である。

・日本に根付く「清貧」の打破

 プロローグを終えると、八つの章に渡って、項目ごとの悩みに対する回答が掲載される。その中でも注目したいのは、お金に関する部分だ。ここに載っている金運アップの鍵は、(14)「まずお金に対する罪悪感をなくすこと」だという。日本には「清貧」という考えがあるが、江原はお金自体はけして悪いものではなく、感謝の気持ちを持つことが大切なのだという。そして、(15)「常に“お金が入ってくる”というビジョンを持つこと」も重要だと言う。第一章で触れた、「引き寄せの法則」のビジョンボードに似た考えである。ビジョンを持つことの例として、(16)「自分の通帳の残高がどんどん増えていくイメージを持つ。お札を壁に貼って、毎日眺めるのもいいでしょう」とあったが、これもビジョンボードと非常によく似ている。 

・江原啓之のルーツ


本を開いていきなり「ガーディアンスピリット」という言葉が飛び出し、その(17) 「ガーディアンスピリットからのメッセージを、この本をきっかけにしてつかんでください」と述べられる。おどろおどろしさこそないものの、若干のお花畑感があり、こういったものに半信半疑の人は置いていかれるような口調でこの本は進んで行くが、エピローグでは打って変わって、自らのルーツをきちんと説明している。
まず、(18)「私がこの本の中で語っている幸福になるための法則、それはただのインスピレーションではありません。その土台となる思想がきちんとあるのです。それがスピリチュアリズムです」としっかりと、自らの源流を明示する。
そこからさらにスピリチュアリズムの歴史を説明し、自分の所属する団体も紹介する。江原はSAGB(英国スピリチュアリスト協会)という組織に加盟している。SAGBはかつてあの作家のコナン・ドイルも会長を務めていた一五〇年も続く(書籍発売当時)由緒正しいスピリチュアリストの団体だ。江原はWHHという団体にも所属していて、こちらは試験をクリアしないと加盟することが出来ない。(19)「英国のスピリチュアリズムはそれほどまでにアカデミックなのです」と綴られていたが、エピローグを読むと怪しいという疑いの気持ちがなくなる。この部分をプロローグに書いてくれればとさえ感じたが、「決して偶然ではありません、あなたがこの本を手にしたことは……」と語りかけられた方が、お悩み相談としては親身になってくれていると感じるのだろうか。
巻末には、「心が軽くなる処方箋」として、もう一つの目次があり、そこには「やたらと出費が続くとき」、「食欲がありすぎるとき/なさすぎるとき」、「仕事の人間関係につかれたとき」と多用な“症状”が提案される。症状も具体的で、誰しもが一度は悩んだことがあろうものが並んでいる。これこそが、本当の「処方箋」的役割を果たしていると言える。全体を通読しなくても、自分の悩みに合わせて困った時に開く本、としてお守り的に効果を発揮している。

・スピリチュアリティはお金儲けを否定しない

江原以外のスピリチュアルの世界の人々も、基本的にお金を得ることには肯定的な場合が多く、むしろ積極的にお金については発信を行っている。いくつか例を紹介したい。

・『お金に愛される魔法のレッスン 自分を浄化して、ハッピー・ラッキー・リッチ!になろう』(吉野奏美 SBクリエイティブ)
・『愛とお金を呼ぶスピリチュアルセラピー』(大槻麻衣子 宝島社)
・『お金持ちが持っている 富の循環☆スピリチュアル・マネー』(佳川奈未 青春出版社)
・『お金に愛されるためのスピリチュアルな法則』(本田健 ゴマブックス株式会社)

このように、お金とスピリチュアリティを結び付けた書籍は数多く出版されている。そして、こうした本には、「お金に愛される」という表現を使ったものが一冊ではなく、何冊か見られる。反対に「お金を稼ぐ」という表現は、他の資金形成関係の書籍よりも少なかった。投資やFIRE(Financial Independence, Retire Earlyの略称)を目指す人と、スピリチュアルな方向からお金を得ようとする人では、目的は似ていても、そこに至るまでのお金の見え方が異なるのかもしれない。
 先ほど挙げた、お金に特化したスピリチュアル本の一つを取り上げてみたい。『お金の神様に可愛がられる方法』(KADOKAWA)は、「宇宙レベルで人生の設定変更セミナー」を主宰する、藤本さきこによるものである。著者プロフィールに彼女の職業、経歴そしてスピリチュアル的きっかけが詳細に書かれているので追っていきたい。


まず、彼女の現在の肩書きは、自身で立ち上げた会社の代表取締役である。実業家としての実績も申し分のない、「月収一四○○万円」という確かな数字を持っている。
後ほど紹介するが、単にスピリチュアルな体験をしただけではなく、「“四人の子を持つシングルマザー”でありながら、“月収一四○○万円を稼ぐ実業家”としても活躍し、一日十万アクセスを誇る“パワーブロガー“としても知られる」(”“付け筆者)存在なのだ。
「宇宙レベルで人生を変えましょう!」と声高にいきなり言われても、こうしたものに疑いを向ける人からすれば「宇宙レベルとは?」と、マイナスな引っかかりを持つ可能性がある。けれども、月収や一日のアクセス数、そしてそれを女手一つで子育てをしながらやり遂げている、という誰にでも目に見える“実績”があれば、「スピ系」に苦手意識がある人も取り込むことが出来る。藤本の本は、サクセス系のビジネス書の要素も兼ね備えているのだ。ラベルを変えれば何度でも、経験談から本が出せそうな人生である。
書籍の中身を詳しく見ると、

・『宇宙』を味方につける
・『お金に愛される』
・『女性性』を磨く

の三つの章で展開される。三つ目の「女性性」を磨くという章が一番、江原の本では見られない独自性の高い部分である。藤本いわく、「女性性」とは(20)「感じる=受け取る力(男性性とは現実化する=行動する力)」を示すのだという。
(21)「感じることを疎かにすると、目の前にあるお金を使っても豊かさを感じられないのでお金の神様には可愛がってもらえなくなります」と、「女性性」を磨くこととの大切さに繋げている。書籍内で示される「女性性」とは、藤本の考える特殊な使い方なのか。

・なぜ「頑張る」ではなく「顔晴る」なのか


 
スピリチュアル本や自己啓発書では、著者の造語があり、それを軸に論が進んで行くことも多い。この本にも、「明らめる」という造語が登場する。「諦める」ではなく、「明らかに見る」という意味で、「明らめる」を行うことで、(22)「宇宙からのサポートをたくさんキャッチすることになり、変わった」と証言している。
元々ある言葉に、他の漢字を当てはめ、違う意味を作るというのは、「本気と書いてマジと読む」のような、どことなく体育会系めいた熱気を感じる。筆者の中学校の体育教師は、「頑張る」を「顔晴る」に言い換えて、クラスのスローガンとして掲げていた。「顔晴る」を当時は担任が作った言葉だと思っていたが、これは全国的に存在する造語だった。

二〇一五年の七月には、損保ジャパン日本興亜が「意思統一を図る目的で、現場力向上のため」、「常に表情を明るく、組織全体が前向きになれるように」と、「顔晴る」をスローガンに採用している。(「『頑張る』なぜ『顔晴る』に? 現代人をむしばむ“努力至上主義”」with news)
同記事では、この「顔晴る」ついて、「事業の継続と、働き手の成長。企業活動においては、それらの目的を達成するうえで、『滋養強壮剤』として使われてきた言葉」なのではないかと述べている。これまで、「処方箋」「精神安定剤」という例えは挙がってきたが、とうとう「滋養強壮剤」までやってきた。「処方箋」や「精神安定剤」よりも幾分かマッチョだ。実際、「顔晴る」はスポーツの話題で使われることが多いという。なんと、用例全体の約四割をスポーツ関係が占めている。

「つらいときこそ、爽やかに笑い、前を向く。スポーツ記事では、そんな文脈で、『顔晴る』が使われることが多い」と同記事には見解が示されていた。当時、思春期・反抗期真っ盛りの中学二年生達には、「顔晴る」は残念ながらあまり響いてはいなかったが、大企業も掲げた旬なスローガンをクラス目標に掲げたのは、かなり意識の高い取り組みだったのかもしれないと、およそ十年の時を経て気付いた。

「明らめる」のように他では聞いた事がない言葉ではなくとも、「鈍感力」、「多動力」などの「○○力」という、独自の「力」を推奨する書籍など、何となく見覚えがあるのではないだろうか。
 日本経済新聞に掲載された加藤史子の『男性性』と『女性性』の記事(「『男性性』と『女性性』」 日本経済新聞)によると、男性性・女性性というのは、「身体的な性別とは別に心理的・精神的な部分における「男性らしさ」や「女性らしさ」のこと」となっている。  
男性性に分類されるものには、判断・論理・決断力・積極性等があり、女性性には、包容力・共有・直感・感性・柔軟性等がある。藤本の言う女性性の「受け取る力」、男性性の「行動する力」は、ここから大きく外れてはいないので、独自の使い方をしているというよりも、一般的な使い方をしているということになる。

・現代スピリチュアリティにある「現世利益」の考え方

 三つ目の章の「女性性」の意味が掴めたところで、「お金」にまつわる部分の主張を読み解く。(23)「罪悪感よ、さようなら」という項目は、江原の主張と類似したことが書かれているのかと思ったが、藤本の経験に基づいたものであり、方向性の異なるものだった。
藤本が三人目の子供を妊娠した際、彼女は未婚で、そのまま子育てをするつもりだったが、それをブログやSNSで発信したところ、市役所から通報されたという。役所からの通報というのは、中々に衝撃的だが、その時の理不尽な出来事を経て、(24)「ものすごく傷ついた『感情』を『なぜだろう?』と疑った結果(中略)、(手当を貰っているのだから)『貧しく慎ましく暮らすもの』という設定に気づいた」そうだ。そこから、(25)「私はその設定から抜け出すと決めたから、お金を稼げるようになりました。すると、自ずとお金が集まってきて、毎月のお金の心配をしなくて済むようになりました」としている。
江原と藤本の「清貧」の否定と、「貧しく慎ましく暮らす」からの脱却には通ずるものがあるが、藤本には明確な意志で自らの状況を変えようと、努力が見られる点が、二人の違いだろう。
ここまで、江原啓之と藤本の書籍をもとに、スピリチュアル本とお金の関係性を見てきた。これまでの日本人が持つ、お金に対して謙虚であることが美徳という価値観ではなく、自分の欲求と向き合い、罪悪感を捨てて真っ直ぐにお金を大切にする姿勢を取っていた。  

こうした現代のスピリチュアリティについて、(26)「本来の宗教ではなく、利益追求をベースとした市場の理想を反映している」と、ガイタニディス・ヤニスは述べる。(「スピリチュアルとビジネスの共通の構成性を考える」『現代思想 スピリチュアリティの現在』二〇二三年一〇月号 青土社)彼は、スピリチュアリティのことを「従来と違った新しい宗教」としている。江原達がスピリチュアルのことを「宗教」だと思っているかは別として、ここでは「利益追求をベースとした」の部分に注目したい。

香山もスピリチュアリティについて、(27)「現世利益を追求する手段としていることも少なくない」と指摘している。「現代のスピリチュアルの祈り文句は、『世界や人類のすべてが幸せになりますように』ではなくて、『私がより快適に暮らせますように』なのでは」という鋭い切り口で、現代スピリチュアリティを読む。先ほど、スピリチュアリティを「従来と違った新しい宗教」と述べたが、こうした自らの利益・幸福に最も重きを置くという点が、古来から伝わる宗教(キリスト教や仏教など)と最も異なる点である。

・個人の幸せの裏に存在する「自己責任」

 

“私”が快適に暮らせることを願うことは、人間としては当たり前の感情である。しかし、自分が幸せになる裏で、誰かが泣いているかもしれないということを想定しない、あるいは、そこは自業自得とするのが現代のスピリチュアルだとする。そうした場合、そこに生まれてくるのが、「自己責任」という考え方だ。
「自己責任」を他人に求めすぎた場合の懸念は、大澤もスピリチュアリティの事例の外のネットワークビジネスを挙げて論じている。
(28)「ネットワークビジネスでは自助努力が強調され、(中略)○○すれば人生はうまくいくといったポジティブ思考と結びついている。(中略)儲かるか儲からないかは自分の努力次第である、という究極の自力信仰がここにはある」
自分の努力次第で成功する可能性があるということは、失敗した場合も努力が足りなかったから、と突き放される可能性があるということになる。努力が足りなかったという、個人的な負い目が、ネットワークビジネスにある問題をうやむやにする可能性もある。  

問題は何もネットワークビジネスだけに限らない。現世利益を求めポジティブな感情だけを良しとして、個人の幸福のみを考えるということは、社会的な問題や本当に助けを求める人の声を無視することに繋がってしまう。

・スピリチュアルブームを席巻したもう一人の人物 細木数子


  第三章を通じて見てきた、現代のスピリチュアリティについてだが、日本の二○○○年代には江原啓之以外にもう一人、忘れてはならない人物がいる。易学に基づいた、「六星占術」という独自の占いを生みだし、ブームを巻き起こした細木数子だ。彼女は激しい言葉遣いとキャラクターも相まって、テレビのバラエティー番組にも頻繁に出演していた。細木の冠番組、「ズバリ言うわよ!」(二〇〇四年から二〇〇八年)は「オーラの泉」と同時代に放送していた番組だが、「オーラの泉」のように、江原啓之と美輪明宏のアドバイスをありがたがるような番組ではなかった。共演者のくりぃむしちゅーに対する強い当たりも楽しまれる、バラエティー色の強いものだった。
 細木数子に対する当時のイメージは、Podcast番組「奇奇怪怪」にて、パーソナリティのTaiTan(Dos Monos)と玉置周啓(MONO NO AWARE)が「平成の胡散臭さ文化論」と題して語っている。(二〇二一年十一月二十三日配信)


誇張した言い回しだが、(29)「細木数子しか出てない時期があった」とまで言っており、占いやスピリチュアルに傾倒していない二人も、当時は嫌なことがあった時に家に帰って細木数子の本を開き、(30) 「『やっぱり大殺界だったんだ』みたいな時期があった」(玉置)と言っている。二人は一九九〇年代前半の生まれなので番組放送時は中高生だが、ラッパーやミュージシャンを志す男子学生にも響くほどに、このブームは大きなものだった。

筆者は、二○○○年代前半は幼稚園から小学生と、彼らより幼い時に細木数子に触れていたため、バラエティー番組での彼女の面白さと怖さをぼんやりと感じる程度だった。しかしそれでも、「よくテレビで見る占い師の本だ」と、コンビニに置かれる『六星占術による土星人の運命』(講談社)などの書籍を見て思う程度には浸透していた。そのため、二〇二一年に細木が亡くなったと知り、多少の衝撃は受けた。そして同時に、そういえばいつのまにか見なくなっていたなと、そのスピリチュアルブームの終わりもこうして論文を書く前に感じていたのだ。

・「六星占術」の定義

 そんな、細木数子の生み出した「六星占術」とはどんな定義を持つものなのか。また、彼女の主張がどのようなものだったのかを見ていきたい。
「六星占術」は生年月日によって判断されるもので、易を基にして細木が独自に編み出したものである。そのため、スピリチュアルブームの一つとして、細木数子を取り上げているものの、厳密に言えばスピリチュアルではない。しかし、二○○○年代にひとまとめにブームとして盛り上がっていたこともふまえ、ここでは六星占術について考えていきたい。
 
 六星占術の定義によると、(31)人の運命は「運命星」・「相性」・「運命周期」によって支配されるという。(種田博之「『占いの宗教への変容』―細木数子の「占い本」を事例として―」二〇〇六年二月)運命星は、水星・土星・金星・火星・天王星・木星の六つがあり、どれか一つが一人ずつ当てはまる。さらにそこから干支によって決められる、陰と陽に分かれる。子から亥まで交互に陰陽が割り振られていく。「運命周期」という十二個の役割を人は順番に回っていくそうで、これには良い時期もあれば悪い時期もある。この悪い期(健弱・乱気・陰影・停止・減退の五年)というのが、細木数子おなじみの先ほど高校生だった玉置周啓も気にしていた「殺界」にあたる。

 いきなり「殺界」と言われても、さして驚きも疑いを持たなかったが、これは日頃から厄年という考えに馴染みがあったり、カレンダーに仏滅と書かれていたら少し気にしたりなど、そうしたものにニュアンスが近いからではないか。独特な「スピ系」の世界よりも、「占い」の方がそもそもの日本人の生活への侵入度が高いということもある。

・細木が主張した「先祖供養」と「自己修養」の重要性

 こうした運命星や運命周期を見ることは、純然たる占いだが、ここに新たなる要素がある時点から加わると種田は先ほどの論文内で述べている。同論文では『運命を開く先祖のまつり方』(世界文化社)という細木の書籍に、それまでの細木の占い本には載っていなかった「因果の法則」という要素が追加されるという。
「因果の法則」とは、(32)「人間が人間らしく生きていこうとする際に、絶対に踏みはずしてはならない約束ごと」を指す。約束を破ると相応の災厄を被るという。その破ってはいけない決まりには「先祖供養」と「自己修養」がある。「地獄に落ちるわよ!」というパワーワードで一世を風靡した人物の教えで、最初に述べた「自己修養」に戻ってくることになった。

 先に「先祖供養」の方からどういった主張なのか見ていこう。こちらは特に文字通りの意味を超える教えはなく、きちんと墓や仏壇を作り、先祖を供養することが大切だと説いている。墓石の選び方などには詳しく決まりがあるそうだが、今回はその部分は割愛する。

 次に「自己修養」の方は、(33)「周りとの人間関係のなかで自分を省みて高めていく方法である」としている。具体的には、(34)「何にでも感謝すること」や「恥の気持ちを持つこと」、「自分に与えられた役割を果たす」となる。第一章では「あるべき自己を目指して努力するとの意味」として「修養」を用いているが、「与えられた役割を果たす」と、「あるべき自己を目指す」は概ね同義と捉えて問題ないだろう。
なぜ、細木がこのような明治時代から続く「自己修養」や「先祖供養」を大切にしていたのか。そこには、自分の生み出した「六星占術」の世間での使われ方や、現代社会への批判がある。
細木は

(35) 現代社会のなかでは人は人として最も大切なことを忘れ、目先の利益に惑わされ、独りよがりで、(中略)正しい判断が出来なくなってしまっている。『六星占術』も単なる術として利用するだけで、人としての原点を見ようとしていない

と言う。(『運命を開く先祖のまつり方』細木数子 世界文化社)

目先の利益に惑わされるという批判は、現代のスピリチュアリティの問題点だった「現世利益の追求」のことを指しているのではないか。『運命を開く先祖のまつり方』は、一九八八年に発売された本なので、二○○○年代のスピリチュアルブームよりもかなり前から、占いやスピリチュアルを自分の幸福のためだけに用いることを問題視していることになる。

このように、最初は「運命星」や「運命周期」を軸にしていたものが、「神」や「先祖」といった超自然的なものを軸にするように変わったことを、種田は(36)「『六星占術』の『宗教化』」としている。ここでいう「宗教」は、ガイタニディス・ヤニスが述べる「利益追求をベースとした従来と違った新しい宗教」ではなく、むしろ従来の「宗教」に近いだろう。ひと口に「宗教」と言っても幅があるが、「先祖供養」は日本人になじみ深い仏教的である。熱心に仏教を信じていない人も、お盆にお墓参りをすることを大々的に否定することは少ない。

種田も、二○○○年のデータで少し古いものになるが、(37)「『先祖供養』の批判ないし否定は、人々の『正当性の信仰』を喚起させることが難しいということを意味する」としている。「自己修養」も、細木の主張には唯一無二の独自の論というよりも、「感謝の気持ち」や「恥の姿勢」など一般的なことを説いているので目くじらを立てる人は少ない。

・現在も続く「自己修養」論

細木数子は亡くなっているが、細木の娘である細木かおりが著者となって、『六星占術による○○星人の運命』シリーズ(講談社)は現在も刊行され続けている。帯には「信頼の証!四十三年目に突入!累計一億冊以上突破! 世界で一番売れている占い本」と書かれており(二〇一九年時点)、これは世界で最も売れた占いの本として、ギネス記録に認定されている。また、細木かおりの別の著作である、『母・細木数子から受け継いだ幸福論 あなたが幸せになれない理由』(講談社)では細木数子の言葉を用いて、読者にメッセージをを送ってている。

「占いで人生変わりゃ、苦労する人なんていないよ」という母・細木数子の言葉の後には、「この言葉通り、いくら当たると大評判の六星占術でも、ただ読むだけでは人生なんて変わりません。大切なのは、占い以前の“心”と“行動”なのです」と続く。こうした「占いのみに頼ってはならない」というスタンスも、ここまでに見てきた他の著者たちのスピリチュアル本とは異なっている。「当たる」ことは前提にしつつも、あくまで大事なのは“心”と“行動”なのだ。この“心”と“行動”は、明記はされていないが「自己修養」の考えを残している。けれども、ひたすらに感謝や恥の姿勢を説くというよりも、女性のNG行動に喝を入れる形がとられる。「毎朝ギリギリまで寝ている女」に対し、「部屋が汚い女が、運がいいワケないじゃない」と言い切る。非常に身につまされる思いである。

・新しいカリスマ占い師たち 自己肯定感がアップする「しいたけ占い」

ここまで、二○○○年年代のスピリチュアルブーム、そしてそこに辿り着くまでの占いや「精神世界」についてみてきた。現代も占いそのものは決して廃れてはおらず、むしろ再び新しい占い師たちによって、ブームが起きている。ゲッターズ飯田や星ひとみ、しいたけ.などの占い師がその例に挙げられる。「突然ですが占ってもいいですか?」(フジテレビ系列 二〇二〇年から放送)といった占い番組も放送されている。「オーラの泉」ほどの勢いはないにせよ、度々出演する占い師の予想が当たったなどで話題になる人気番組である。


 ゲッターズ飯田の占い本『五星三心占い』(朝日新聞出版)は二〇二一年度版が累計発行部数一六六万部を超える、高い売り上げを誇っている。(二〇二一年四月時点)『五星三心占い』は、ある人は「金の羅針盤座」また、ある人は「銀のカメレオン座」などと、人それぞれ生年月日に基づいた割り振りがあり、それぞれに書籍が出ているので売り上げを伸ばしやすい特徴はあるものの、それでも百万部を超える部数を売り上げるというのだから、その人気は根強いものである。


 その他にも、「しいたけ占い」という大人気の占いがある。ウェブ媒体の「VOUGE GIRL」で連載されていたもので、毎週月曜日の更新の後にはX(旧Twitter)のトレンドに上がるほど注目を集めていた。十二星座ごとにその週の運勢とラッキーカラーを紹介する、王道の占いである。
「VOGUE GIRL」自体が二〇二三年に終了したため、更新が終了すると決まったときは、これまで「しいたけ占い」を心の拠り所にしていた人たちが、悲しみの声SNS上であげていた。筆者も更新を楽しみにしていたため、更新終了を知りショックを受けた。(現在は「しいたけ占い」公式サイトにて連載)

 なぜここまで「しいたけ占い」はファンを生んだのか。それは、しいたけ.の独特な文体によるものが大きい。まず、毎週更新される「しいたけ占い」は文字数が多い。女性向けのファッション誌など、雑誌の後ろの方に載っている星占いは、「金運」「仕事運」「恋愛運」など、どれも一文ずつ箇条書きで載っている程度なのに対して、「しいたけ占い」の週間連載は各星座約八○○字ある。二〇二三年十一月二十日~二十六日分の蟹座を例に、どのような形で書かれているのか見ていきたい。


 一文目から、「『私ランド作りに忙しい』のネイビーが出ていました」と独自の言い回しでラッキーカラーの解説が始まる。その後には、「ここ最近の蟹座はけっこう長距離をずっと頑張って走っている感じ。(中略)先週までの動きで色々な山場とか、やらなければならないタスクを終わらせてきた感じがあるのですが、気は抜いていません」と続いた。 
ここのところずっと、卒論にかかりきりだったので、「長距離を走っている」というのはまさに「当たっている」と感じてしまった。そして、従来の占いならば「気“を”抜いてはいけない」と読者を律するような言葉が書かれそうなところで、「気“は”抜いていません」と、こちらの頑張りを肯定する言葉を送ってくれる。この優しさこそが、「しいたけ占い」の特徴である。読むと自己肯定感があがるような文章。八○○字に及ぶコラムなので、一字一句ピタリと全員に当てはまる訳ではないとしても、どこかで必ず引っかかりが生まれるため、週の始めの月曜日という憂鬱な日に、毎週アクセスしたくなってしまう作りになっている。


データサイエンティストの松木健太郎も、「しいたけ占い」のヒットの理由に「カウンセリング的な癒しの効果が発揮されるのだろう」との予測をしている。(「大人気の『しいたけ占い』、なぜ『よく当たる』気がするのか?」現代メディア)お笑いの世界では「人を傷つけない笑い」というものが数年前くらいから言われるようになったが、占いの世界もトレンドは「人を傷つけない占い」なのである。

【第三章 註】

(1)伊藤雅之『現代スピリチュアリティ文化論 ヨーガ、マインドフルネスからポジティブ心理学まで』明石書店 二〇二一年 二九頁
(2)同上 二九頁
(3)同上 三〇頁
(4)同上 三一頁
(5)島薗進「スピリチュアルの未来に向けて」『現代思想 スピリチュアリティの現在』二〇二三年一〇月号 青土社 二〇二三年 八頁
(6)同上 十頁
(7)伊藤雅之『現代スピリチュアリティ文化論 ヨーガ、マインドフルネスからポジティブ心理学まで』明石書店 二〇二一年 七七頁 
(8)島薗進「スピリチュアルの未来に向けて」『現代思想 スピリチュアリティの現在』二〇二三年一〇月号 青土社 二〇二三年 十三頁
(9)同上 十三頁
(10)香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』幻冬舎新書 二○○六年 七二頁
(11)同上 七二頁
(12)江原啓之『幸運を引きよせるスピリチュアルブック』三笠書房 二〇〇一年 三頁
(13)同上 四頁
(14)同上 一四五頁
(15)同上 一四六頁
(16)同上 一四六頁
(17)同上 五頁
(18)同上 二六一頁
(19)同上 二六四頁
(20)藤本さきこ『お金の神様に可愛がられる方法』KADOKAWA 二〇一六年 十八頁
(21)同上 一九頁
(22)同上 三四頁
(23)同上 一二三頁
(24)同上 一二七頁
(25)同上 一二七頁
(26)ガイタニディス・ヤニス「スピリチュアルとビジネスの共通の構成性を考える」『現代思想 スピリチュアリティの現在』二〇二三年一〇月号 青土社 二〇二三年 三四頁
(27)香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』幻冬舎新書 二〇〇六年 七二頁、七三頁
(28)大澤絢子『「修養」の日本近代 自分磨きの一五〇年をたどる』NHK出版 二〇二一年 二五〇頁
(29)TaiTan 玉置周啓『奇奇怪怪』「平成の胡散臭さ文化論」(二〇二一年十一月二十三日配信)石原書房 二〇二三年 八五頁
(30)同上 八五頁
(31)種田博之「『占いの宗教への変容』―細木数子の「占い本」を事例として―」二〇〇六年二月 三頁
(32)同上 四頁
(33)同上 四頁
(34)同上 四頁
(35)同上 五頁
(36)同上 六頁 
(37)同上 八頁


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