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「熊野詣 三山信仰と文化」 五来重

講談社学術文庫  講談社

最初の2章から

1、中世になるまでは、紀伊路より伊勢路の方が利用者?多かった。伊勢神宮と熊野それに多賀を回ることが当時の通例だったようだ。これが中世院政の時代になって浄土信仰が盛んになると、貴族達は紀伊路を利用するようになる。浄土信仰の色合いが強い熊野へ向かう貴族達はたくさんの仏具を持参する。で、仏具持って伊勢参りというのも・・・という理由だったらしい。それに険しい紀伊路の方がたくさんの功徳をつめるという理由も。一方、庶民はそんなこと関係なく?伊勢路を利用。

2、死者の国、熊野(でなくても)では烏(からす)は死者の使いとしてまた逆に死者のたたりとして崇敬の対象であった。烏に餅を食べさせる行事が数多く残っている。その理由として、日本では平安期辺りまで風葬が残っていたことを挙げている。平安後期の絵巻にその姿があること、藤原京(この都の成立とともに天皇の火葬が始まった)の遷都前までは、天皇の代替わりごとに都を変えていたのは、南庭に亡くなった天皇を風葬していたから・・・とかの理由。

3、熊野のビクニ勧請の尼?が江戸初期くらいに全国各地に現れた・・・けど、のちのち彼女らは所謂夜の女化していったらしい(西鶴にも出てくる)・・・ってのは、なんだか日本らしく思える。
(2010 11/14)

今朝読み終えました。最後は藤原定家の後鳥羽上皇の熊野参詣雑務係?としての旅を念頭に三山巡り。

五来氏は、そういう話とともに、庶民の熊野詣…もっとつきつめて中世庶民の宗教感情を掘り起こそうとしている。ハンセン病患者の死出の旅としての熊野詣、日本では風葬や水葬が元来あって、それが変化発展?したのが補陀落渡海(ふだらく)という、西方浄土目指して船に乗る…というものであるとか。

熊野では中世以来一遍が開いた時宗が土台となって、隠師とかの参詣ネットワークを作っていった。その名残?の一つが、全国いろんなところにある和泉式部の墓だという話もあった。
(2010 11/22)

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