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【聖母病院出産レポ④】痛みに弱い私が無痛分娩から緊急帝王切開で出産するまで(入院編)-完-

前回の出産レポ③「出産編」に続き、今回の出産レポ④では、いよいよ最終章「入院編」だ。帝王切開後、お腹の激痛と戦いながら、聖母病院での入院生活8日間についてどのように過ごしたかを詳細に紹介しようと思う。

この出産レポは、「コロナ禍での妊娠発覚・つわり編」「出産前の準備編」「出産編」、「入院編」合計4つのエピソードで構成している。
※本レポートは、あくまで私個人の体験・感想です。ご自身の症状については主治医の指示に従ってください。

本題の前に重要な話を少しだけ。最初から読んでくれている方はご存知だと思うのだけど、このnoteでは何かとドラクエやHUNTER×HUNTERネタを交えながら紹介してきた。そんな中、先月日本中、いや世界中を騒がせた出来事が起こったのだ。

そう、先月のとある日に、「冨樫義博」と名乗るTwitterアカウントが突如出現した。ファンの間では、「念能力が使用されてる可能性がある」「凝を怠るな。偽物の可能性がある。」など、信じないという声も続出したが、なんとご本人のアカウントであり、そこから瞬く間にフォロワーは100万人を突破し、地球中のファンが騒然としたのだ。

狂喜乱舞した私だが、1つ気がかりなのは、2016年にブラックホエール号に乗船したきり船から一度も降りてこないクラピカのことだ。クラピカが船に乗っている間に鬼滅の刃も完結したのである。とんでもない話である。と、この話をし始めると本当に本題になってしまうので、近いうちヤフトピに「HUNTER×HUNTER連載再開 約3年ぶり」と目にする日を心待ちにして、最後のレポートの連載を再開しようと思う。

出産当日

18:00 痛みを避けてきた私に襲いかかるとんでもない痛み

さて、前回の出産レポ③では、無事出産を終えて、手術室からベッドごと4人母子同室の大部屋に移動したところまでを綴った。

ここで書かなければならないことがある。この出産レポのタイトルは「痛みに弱い私が無痛分娩から緊急帝王切開で出産するまで」であり、つまりなるべく痛みから逃げてきた私と同じように、痛みを最小限に抑える出産を望む人に向けて書いているが、やはり出産は痛いという結論をお伝えせねばならない。前回の出産レポ通り、出産のその瞬間までの痛みはそこまでではなくうまく避けてこれたが、その後、である。予想を遥かに超える産後の激痛との戦いがそこにあった。

部屋に戻ってからしばらくして、緊急帝王切開の麻酔が切れ始めた。16時頃に麻酔を打ってもらってから、約2時間という計算になる。徐々に強まる痛み、いや、激痛が襲ってきた。めちゃくちゃ痛い。ウワサには聞いていたけど、これはヤバイ。すぐさま痛み止めの麻酔を打ってもらえないか助産師さんに言ってみるものの、あと1時間ちょっと経たないと打てないとのこと。私は発狂しそうになった。やがて冷や汗が出てくる。あまりの痛さに思わず痛い、痛いと唸り声をあげる。スマホも見れない。

その時の私は、腕には点滴、足にはメディキュットのような血栓予防の弾性ストッキング、ふくらはぎには圧力をかける装置、手の指には血中酸素を測定する器具、膀胱内には尿道カテーテルなど、ありとあらゆる管や器具が体中に装着されているため、体勢を一切変えることができない。しかも、切れたとはいえ、麻酔のせいでまだ足の感覚が回復しておらず、動かそうと思っても動かすこともできない。つまり、激痛に耐えながら同じ体勢でじっと我慢するしかないのだ。リアル拷問だ。

なお、術後は飲食も一切禁止だが、その辛さはどうでもよかった。というくらいとにかく痛い。その痛みは、てっきり傷口の痛みだと思っていたけど、どうやら後陣痛のようだった。この後陣痛があまりにも痛くて、痛くて。そりゃあ、あれだけ大きくなった子宮は元の大きさに戻ろうとするだろう。だからこそ、この後陣痛=子宮収縮がめちゃくちゃ痛いのだ。

私は本陣痛を経験していないから余計に後陣痛の痛みを感じたのかもしれないが、この痛みを擬音語にしてみると、ズキーーーン!なのだけど、「ズ」のところがものすごい重低音で、「キーーーン!」という突き刺さり方が今この文字から想像する1万倍は痛い。要するにうまく書けないくらい痛い。と言ってももう少し具体的に例えるならば、思い返すと私は学生の頃、生理痛がとても重い時期があった。ある日、生理痛がとても辛くて部屋で横になっていたのだが、あまりの痛みにのたうち回るように自分の部屋の壁を蹴り飛ばしてしまうほどの猛烈な腹痛を経験したことがある。それは、何かが生まれそうな痛みに近かった。その時私は「いつか自分が出産をする時が来るのだとしたら、この痛みに近いものがあるのかもしれない。」と思ったのだ。時を経た今、その時の痛みよりも遥かに痛い。子宮をぎゅーっと握り潰されるような鈍痛、生理痛の何十倍の痛みと言ったら想像付くだろうか。この激痛のピークは18:00-20:00くらいの約2時間だったと思う。私はドラクエ11Sの過去最強の強敵、真の裏ボス「失われし時の災厄、失われし時の怨念」を約1時間半もの時間をかけて倒したが、あの戦いよりも長い。まさにこの時間は地獄だった。麻酔の時間まであと1時間、あと30分、あと5分。このあと5分がとても長く、もう限界!!!と叫びそうになった。

一方その頃。夫は息子の誕生を記念して、弟さんと高級店で伊勢海老を食べていた。その写真が送られてきていたが、当然私はそんなものを見る余裕はなかった。別に責めているわけではない。ただの事実だ。責めてはいない。

高級店で1番大きな伊勢海老と透き通るイカを楽しむ夫と弟さん

20:00 麻酔を注入するも、まだまだ襲ってくる後陣痛

20時になりようやく麻酔を入れてもらえ、ほんの少しだけ楽になった。この頃、やっと足も動かせるようになった。ただ、引き続き後陣痛がかなり辛いのと、熱も出ており、保冷枕と持参していた冷えピタを額に貼った。体を冷やさないようにと電気毛布もかけてくれていたのだけど、私は暖かいと気分が悪くなるので、電気毛布はやめて冷やすことに徹した。後陣痛は、術後3日程度続くらしい。耐えられるのか、この痛み。無理かもしれない。いや、無理だろう。

あと、私は鼻炎気味のため、鼻をかみたかったのだけど、お腹が激痛でとても恐ろしくて鼻もかめない状況だった。もちろん、くしゃみや咳もだ。考えただけで傷口に激痛が走ると安易に想像ができゾワゾワする。ちなみに、この部屋に移動してからは助産師さんの助けを借りながら、定期的に悪露の交換や、尿道カテーテルに溜まった尿の処理、麻酔や座薬を入れてもらったり、体を起こしてもらいパジャマや産褥ショーツを変えてもらったりと、まさに介護をしてもらっている状況だった。それゆえ、私はもう恥などは一切捨て、鼻にティッシュを詰めることを決意した。その後、様子を見にきた助産師さんと目が合った瞬間、助産師さんは思わず笑っていた。私もこんなお見苦しい姿を見せてすみません、と言わんばかりに笑うしかなかった。激痛で目は死んでいたのだけど。

23:30 激痛で眠れない日々のはじまり

最終消灯の時に痛み止めの座薬を入れてもらった。しかし、この後も後陣痛の痛みが辛くてなかなか寝れなかった。それと、母子同室の4人部屋だったので、夜中から朝方にかけて私と同様出産を終えたお母さんたちの赤ちゃんのギャン泣きセッションが随時開催されていたので、1人泣き出したらもう1人泣く、というサイクルを繰り返し、これもまた寝不足になった。

助産師さんから「明日になったら立ち上がって少しずつ歩いてみましょう!」と言われた。嘘でしょ、こんな激痛で立ち上がることなんてできるのか。無理。こうして地獄の入院生活8日間が始まった。

入院1日目

07:00 朝食は様々な味のする飲み物

痛みにもがき苦しみ、夜が明けた。起きてからも変わらず後陣痛で激痛。そして、術後はしばらく固形物が食べれないので朝食は流動食だった。痛みで食事どころではなかったけど、一応食べた。というか、朝食は様々な味のする飲み物だと言った方が正しい。聖母病院での食事の時間は、多少前後することもあるが、朝食7:00、昼食12:00、夕食18:00に配膳された。

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入院1日目の朝食(流動食)

この後に座薬を入れてもらったけど、効き始めると言われている30分を経過してもあまり効果は出ず痛みは続く。座薬の効果って本当にあるのか。辛い。

10:00 術後、初めての試練=歩行練習

術後、初めての試練が訪れた。助産師さんに見守られながらの歩行練習。要するに起きて立ち上がって歩けば良いのだが、それが無理。まず、ベッドから起き上がるまでが激痛で、自分の力では体を起こすことができない。ベッドのリクライニング機能を使ってゆっくりと体を起こす。それから腕で体を持ち上げるように少しずつベッドの端を目指して移動をする。床に足を付けたいが、ちょっとでもお腹に力が入ると甲高い声でキィヤァーーー!!!と叫びたいほどの激痛が走る。叫びたい気持ちをグッと抑えたが、「痛い、痛い、痛い!!!」とはしっかり声に出した。

もう無理だ。動きたくない。いや、動けない。こんなの嫌だ。とてもじゃないけど、痛みで歩けそうにない。でも、助産師さんは静かに私を見守っている。「今日はやめますか?」と微笑まれる淡い期待をしたのだけど、そんな言葉はかけられなかった。その理由は、早く歩けた方が血栓症を防ぐことができて、お腹の傷の回復も早まるからとのこと。部屋から出て、約20mほど先のトイレまで歩けたら、尿道カテーテルも外して良いと言われた。この言葉で私は覚悟した。よし、傷の回復が早まるなら。尿道カテーテルも外れるなら。そう思って再度トライした。

しかし、体を動かす度に痛みは増していく。床に足が着くまでが遠い。かれこれどのくらい時間が経過していたかわからない。私はずっとベッドの上で腕で体を持ち上げながら、激痛と戦っていた。ベッドから起き上がって立ち上がって歩く。今まで当たり前のようにしてきたことができないとは。人生で初めてのことだらけだ。しばらくもがき苦しんだのち、やっとの思いで床に足が着いた。

と思ったのも束の間。床に足が着いて、立ち上がった瞬間、またあのお腹の傷口にズキーーーン!と激痛が走る。このまま歩けるのか?いや、歩けない。歩けるわけがない。でもダメだ。ここで歩かなかったら傷口の回復は遅くなる一方だ。退院日が長引くのも嫌だ。そんなことが頭の中をぐるぐると行ったり来たりする。

私は点滴スタンドを両手に持ち、ベビーカーを押すように前屈みで少しずつ、少しずつ歩いてみる。一般的に、人の歩く速さは時速4㎞と言われている。ゆっくりだと時速3.2㎞。今の私は時速何㎞なのだろうか。おそらく時速1㎞にも満たない速度だろう。例えるなら、冨樫義博大先生の大傑作「HUNTER×HUNTER」のハンター試験編の名シーンであるヒソカがズキューンを放った後、あの小柄な男アゴンを秒殺するまで前屈みでのそのそと歩くスピードよりも遥かに遅いと言ったらわかってもらえるだろうか。

私は部屋から約20mほど離れたトイレを目指し、激痛に耐えながら冷や汗をかき、前屈みでゆっくりと、ゆっくりと歩いた。ようやくトイレに着いて、尿道カテーテルを外すことができた。尿道カテーテルを外す時は多少違和感を感じたものの、痛みはなかったが、しばらくの間排尿痛を感じた。

点滴スタンドを押しながらやっとの思いでトイレまで到着

その後、昼食の時間となった。流動食から五分がゆへ。術後、胃腸が一時的に機能しなくなるそうで、その影響か胃が痛くてほとんど食べれなかった。

昼食(五分がゆ)

13:30 入院後、初の息子との対面

昼食後、入院後初の息子との対面・授乳のため、コロナ禍でのスケジュールに沿って、点滴スタンドを持ちながらゆっくり、ゆっくりと歩きながら新生児室へ。新生児室は生まれたての赤ちゃんが数十名ずらっと並んでいる。なんとも尊い部屋だ。たくさんいる赤ちゃんの中から自分の息子を見つける。昨日出産してから自分の息子をまじまじと見るのはこの時が初めてだ。この子が私の息子なんだと再確認する。何もかもが小さくてかわいい。

ここで助産師さんからオムツ替えや授乳の仕方をレクチャーしてもらう。一通りレクチャーを受けてからいざ、授乳。想像以上に勢いよく吸うので驚いた。そして、またもここで後陣痛の痛みを感じた。どうやら授乳で乳頭が刺激されることで、子宮収縮作用のあるオキシトシンというホルモンが分泌されることが原因らしい。これがまた激痛なので、痛み止めを飲むことにした。少しだけ授乳してみたものの眠たかったようなので、ミルクに切り替えた。私は基本は母乳をあげながら足りない分はミルクで補う混合にしている。

新生児室での初授乳
当時のコロナ禍の新生児室での授乳スケジュール
※現在のスケジュールは病院でご確認ください。

部屋に戻り、夕食から五分がゆから全がゆになった。ただ、この時も体調は絶不調のため、少しだけ口にしてほとんど残した。固形物は翌日から食べれるとのことだった。痛みで食事が楽しみだとは思えなかった。

夕食(全がゆ)

夕食後、また新生児室へ行って授乳をする予定が入っていたのだが、痛み止めが切れて後陣痛で激痛のため断念した。せっかく生まれたばかりの息子と触れ合う時間なのに激痛で行けないのが辛い

夜は胃も痛くなり、次第に頭痛も起こり、後陣痛も辛いので、麻酔を入れてもらうことになった。激痛でベッドにも上がれず助産師さんに介護してもらう。本当にいつの日か退院できるのだろうか。

入院2日目

05:00 早朝デイルームで1人心折れる

入院2日目の早朝、胃痛、頭痛、腹痛と、ありとあらゆる体調が絶不調で目が覚めた。部屋から出てすぐのところに広めのデイルーム(テーブル席、自販機、無料の給茶器の設置/22時までビデオ通話など可能)があり、不調を訴えながらもデイルームまでたどり着き、お水を一杯飲む。体のありとあらゆるところが不調すぎて想像以上に苦しい。回復の兆しも見えない。その時聞こえた。ポキーンと。そう、心が折れる音が。「HUNTER×HUNTER」の蟻編でウェルフィンが「コムギ・・・?」と呟く直前のシーンのような気持ちだと言ったらわかるだろうか。

そんな絶望している私に助産師さんは、3日目以降から徐々によくなっていくと教えてくれた。しかし、明日には良くなるなんて、とても信じられなかった。

部屋に戻り、朝食の時間となった。ようやく普通食になった。しかし、激痛で当然ながら食欲はなく、少しだけ食べてほぼ残してしまった。

入院2日目の朝食(ようやく普通食)

08:30 痛み止めは3種類

あまりにも激痛のため授乳の予定をスキップし、少し休むことにした。初めて錠剤タイプの痛み止めを飲んで少し仮眠を取ったら薬が効いてだいぶ良くなった。

痛み止めは3種類あった。それぞれの特徴はざっと以下の通り。結果的に私は即効性よりも持続性の高い錠剤タイプをメインに使うことにした。
※記載している薬が効く時間は個人差があるため、あくまでも目安時間と捉えてください。

  1. 注射で麻酔を注入するタイプ
    特徴:注射してからすぐに効果が期待でき即効性はあるが、持続性は低い。

  2. 座薬を挿入するタイプ
    特徴:即効性は30分程度とあまり期待できないが、ある程度の持続性はある。

  3. 錠剤を飲むタイプ
    特徴:即効性は約1時間程度と期待できないが、持続性は約10時間程度と上記2種類と比較して圧倒的に高い。

12:00 久々の普通のお米

入院2日目の昼食からようやく普通のお米が出された。久々の固形物が嬉しかった。しかも、痛み止めが効いているからか、ご飯はある程度美味しく食べることができた。痛み止めが効いているうちにできることをやっておこうという気持ちになり、家族や友人への連絡などを済ませた。夫とは夕方にビデオ通話をする約束をした。

昼食後、久々に新生児室に向かい、授乳(オムツ交換&ミルク)をすることができた。ただ、この時血乳が出ていることに気付き、母乳をあげることができない状況となった。しばらく助産師さんが血乳を手で搾り取ってくれることになった。これがまた想像以上に激痛だった。手で搾り取られるたびに痛みと、子宮収縮し、後陣痛のダブルパンチで辛い。しかも、搾り取った後はガーゼが真っ赤な血で染まり、なんとも痛々しい光景だった。最初は血が出るということはよくあることらしいが、あまりにも血乳ばかり出るものだから、しばらく続けてみて続くようなら別の病気の可能性があるのでその時は主治医に相談しましょうとなった。痛いし、怖い。大丈夫なのだろうか。ひとまず、ここからしばらく血乳を除去する作業が続いた。

入院2日目の昼食(ようやく普通のお米)

15:00 おやつの時間

入院2日目からは普通食になり、15時になるとおやつも出た。おやつは1日に1度、スイートポテトやチョコレートワッフル、プリンなどが出された。なんだかこのおやつの時間がものすごく大切な時間に思えた。

15時のおやつ(紅茶とスイートポテト)
15時のおやつ(紅茶とチョコレートワッフル)
15時のおやつ(紅茶とプリン)

17:30 デイルームで夫とビデオ通話

産後、夫とはLINEでやりとりはしていたのだけど、痛み止めが効いているうちにデイルームでビデオ通話をすることにした。デイルームでは22時まで通話可能なので、ここで家族や親戚たちとビデオ通話をしている人がちらほらいた。この時に息子を見せたかったのだけど、まだ母子同室ができていなかったので、授乳のために新生児室に通っている様子など状況を伝えた。やっぱりテキストよりも顔を見て話すことで安心できたし、夫も安心した様子だった。

デイルームで夫とビデオ通話(22時まで通話可能エリア)

18:00 久々の普通食の夕食

普通食になり、夕食も通常通り取れることになった。食後、シャワーを浴びるために先に痛み止めを飲むことにした。

夕食(普通食)

20:00 術後3日ぶりのシャワーは喜びと恐怖

入院2日目からはシャワー解禁となった。ただ、いまだ術後の傷口を見ていないし、シャワーなんて痛みで浴びれるかどうか非常に不安だった。でも、入院してからずっとシャワーを浴びていない。痛みへの恐怖と早くシャワーを浴びたい気持ちが交差した。

夕食後、痛み止めを飲み、万全を期して術後3日ぶりのシャワーを浴びることにした。シャワーを浴びたら傷口がどれほど傷むのか恐怖で仕方なかったが、実際のところ傷口はしっかり縫われているため、傷が開いたり痛みを感じたりすることはなかった。ただ、移動する時はまだ点滴スタンドが必要のため、シャワーを浴びる時もイスに座りながら髪の毛や体を洗った。3日ぶりのシャワーは生きた心地がした。

入院3日目

08:00 激痛を伴う過酷な試練から脱出

入院3日目の朝。痛み止めは切れたが、軽い生理痛のような痛みで徐々に良くなってきた感じがした。ようやく横向きで寝れるようにもなった。助産師さんから言われた通り、やっぱりこの3日間を乗り越えれば少し楽になることがわかった。とは言え、痛み止めはまだまだ手放せない。この3日間を冨樫義博大先生の大傑作「幽☆遊☆白書」で例えると、幻海が霊光波動拳を幽助に託す際に、幽助はとても耐えがたい激痛を伴う過酷な試練を数日間耐え抜き、見事継承者へと成長する過程があったと思う。それをイメージしてもらうとわかりやすいかもしれない。今の私なら霊光波動拳を打てそうだ。と言いたいところだが、さすがにそこまで回復はしていなかった。

3日目は少し体調が良くなったものの、母子同室にするにはまだ体調的には不安定だったため、新生児室へ1日のスケジュール通りオムツ替えや授乳(ミルク)をしに行ったりした。まだ血乳が出たので、それを除去すると子宮収縮に繋がるので、後陣痛はまだまだ辛かった。と言っても、ピーク時よりかは耐えられる痛みまでは落ち着いた。少しだけ希望が見えた。

入院4日目(母子同室1日目)

08:00 母子同室開始1日目

入院4日目にしてようやく体調も回復傾向に向かい、母子同室を始めても大丈夫そうだと思った。

10:30 授乳タイム

新生児室に向かい、授乳タイム(この時点ではミルクのみ)。血乳除去してから3日目。こちらもようやくおさまりつつあり、そろそろ母乳開始できるかもしれない。

11:30 母子同室のオリエンテーション

母子同室を始める前に新生児室で助産師さんからのオリエンテーションを複数人で受けてから夜から始めることになった。

20:00 ついに母子同室開始!

ついに母子同室をスタートした。息子を連れて部屋に戻ってきたタイミングで夫とビデオ通話で息子をお披露目した。痛みの峠も越え、息子も連れてこれて順風満帆!かと思ったら、ここからまた新たな試練が始まった

母子同室開始1日目

22:30 母子同室後、初母乳

母子同室が始まってから血乳も真っ赤な血の状態から白い母乳に変わり、母乳をあげることができた。しばらくの間、助産師さんが授乳のサポートをしてくれたおかげでわりとうまく飲んでくれた。この時で約30mlほど飲んでくれた。

01:00-02:30 1人での授乳に苦戦

慣れるためにも夜間授乳は1人でやってみることになった。さっきは助産師さんのサポートがあったからうまくいったものの、1人だと全然うまくいかない1時間半くらいかけて試行錯誤するものの、全然飲んでくれなかった。授乳って難しい。

04:30-06:00 1人での授乳、心が折れかける

再度1人で授乳チャレンジして、どれくらい母乳を飲んだか測ると15mlにも満たなかった。1時間半ほどかけたからきっとたくさん飲んでくれているだろうと期待したが、実際のところ全然飲んでいなくて、ショックを受けた。母子同室初日にして早々に心が折れそうになる。1人で授乳ってこんなに苦戦するものなのかと落ち込む。そして、授乳をしているからか、途中で子宮収縮が起こり、お腹もめちゃくちゃ痛くなり、痛み止めを飲んだ。ピークを越えればなんでもうまくいくというものでもなかった。

06:00 母乳、断念

深夜から朝方にかけて試行錯誤しながら母乳をあげたが、うまく飲ませることができず、息子のギャン泣きが止まらない。母乳は断念し、ミルクをあげることになった。その後、お腹が満たされたのか息子も静かに眠ってくれた。ミルクパワー恐るべし。

母子同室を開始してから1日目の感想は、授乳の大変さを実感した。息子がギャン泣きすると不安になるし、母乳はうまく飲ませられないし、授乳すると胸と子宮が激痛だ。その上、寝不足が襲ってくるので心が折れそうになる。ただ、息子も頑張っている。色々と辛さはあるけど、この子のためにも頑張ろうと思えるほどには精神と体力が回復していた。

入院5日目(母子同室2日目)

06:30-10:00 睡眠時間は回復呪文

朝6時にミルクをあげてから息子は検査に行った。夜中から朝方にかけてずっと起きていたので、かなり寝不足だった。ここから3時間半くらい仮眠を取ったのだけど、これがだいぶ体力回復につながった。ドラクエの回復呪文で例えるなら、ベホマまでとはいかないが、ベホイムくらいの回復具合と言ったらわかってもらえるだろうか。その後、授乳してからお昼寝もしたのだけど、これもかなり効いた。当たり前のことだけど、睡眠って大事なんだと実感。

16:00 出生届の説明

夕方になり、病院側から出生届の説明を受けた。左側はこちらの情報を記載する項目で、右側は聖母病院側が記載してくれたものを渡された。出生届は、出産日を含め14日以内に提出が必要のため、私は入院中に書けるところを書いて、退院後すぐに夫に提出してもらった

聖母病院から渡される「出生届」

それと、退院日も近づいているので、今のうちに荷物整理なども済ませておいた。退院日の息子には、セレモニードレスを着せる予定だったので、ドレスと長肌着とおくるみを用意した。息子が静かに寝ている間に色々な書類整理や荷物整理など一気に済ませた。3日前には想像ができなかったが、ようやく私は人間的活動をするようになっていた。一生ズキーーーン!が続くわけじゃなくて本当によかった。

退院日用にセレモニードレスと長肌着とおくるみを用意

23:00-00:30 息子ギャン泣き

夜になり、息子はギャン泣き。母乳もあげようとしても飲まない。どうしたことだろう。助産師さんを呼んで授乳のサポートをお願いし、こっちだよと誘導してくれたりするが、息子の口はまだ小さいから母乳を飲むときにうまくハマらず大号泣。頑張って母乳を飲んで欲しい気持ちもあるが、うまく飲めず辛そうに泣いている姿を見るのが申し訳ない気持ちがして胸が苦しくなった

04:00-05:00 泣き止まない息子と泣きたい私

しばらくしてから息子はまたギャン泣きモードに入った。授乳がうまくいかず、飲みたいのにうまく飲めず泣いているのだろう。それがとても辛い。早くコツを掴みたい。でも、すぐにマスターできるほど簡単ではない。とても難しい。

母子同室中の息子

助産師さんにサポートされながら母乳を頑張ってみるものの、乳首の痛み+子宮の痛み+寝不足、これらが襲ってくるのだ。深夜、授乳を開始してから1時間半ほど経過していても、もう少し頑張ってみましょうと言われる。その度に私は心が折れそうになり、「お願いします、もう辛いです、ミルクを与えてください。」と何度も言いかけてやめるを繰り返した。

そう、私にとって、ミルクの存在は救世主だった。最終的に息子にミルクを与えると、さっきまでこの世の終わりかと思うほど大号泣していたのに、ミルクをあげた瞬間目を開いていきいきと飲みまくる。ありがたい。と、それはそれでとても良いことなのだけど、この明らかな差になんとも切ない気持ちになった。

ただ、この部屋は4人全員が母子同室をしているから、夜中赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。周りのみんなも頑張っているから私も頑張ろうと思えた。

入院6日目(母子同室3日目)

10:30 ついに訪れる、あの悲劇

入院6日目になってから体はだいぶ楽になった。それは良かったものの、息子に母乳+ミルクを与えて、オムツ替えをしてもご機嫌斜めだとギャン泣きするようになり、ここでも苦戦した。

そして、ついに起きてしまった。あの悲劇が。なんと、授乳中に乳首が切れてしまったのだ。ウワサには聞いていたが、これがめちゃくちゃ痛い切れて血が出ていても、授乳をやめるわけにはいかない。辛い。しかし、痛みに弱い私は実はこれを予測していた。事前に購入したメデラの乳頭保護クリーム「ピュアレーン」を取り出し、しっかりと塗った。これを病院に持参しておくことを強く推奨したい。授乳中には欠かせない。絶対にだ。

12:00 ついにきた、お祝い膳

聖母病院では退院前の昼食に、出産をお祝いする食事「お祝い膳」を用意してくれる。お祝い膳は、和食と洋食のどちらも楽しめるよう、和洋折衷の食事が用意される。この頃には体調もだいぶ回復しているので、食事は美味しく、楽しむことができた。流動食さえ食べれなかった私がだ。

退院前の「お祝い膳」

入院7日目(母子同室4日目)

09:00 退院前の診察

昨日に続き、入院7日目になってからは体もだいぶ楽になった。夜中から朝方にかけて息子も比較的落ち着いていた。とはいえ、授乳にはいまだ慣れない。

9時頃、退院前の医師の診察があり、内診や超音波検査、帝王切開の傷の診察が行われた。術後なので、内診する際の痛みがものすごく怖かった。でも、実際のところ痛みはなく、傷も問題なさそうで安心した。痛いのはもう経験したくない。ただ、この時点で体はだいぶ回復したとはいえ、痛みが消えたわけではない。そのため、退院後も痛み止めの薬を出してもらうことになった。

この後、助産師さんから退院後に関する説明を受け、色々と気になることを相談し、メモを取った。担当してくれた助産師さんはお子さんがいる方だったので、実際どのようにしたかなどのリアルな話も聞くことができ、この時間がとてもありがたかった。

いよいよ明日は退院日。長いようで短い入院生活ももう終わりだ。産後ボロボロになった体とうまくいかない授乳に心が折れまくったけど、明日からは夫婦2人の育児がスタートする。初めてのことでうまくいかないことだらけだけど、育児を楽しみながら過ごしたいと思った。

入院8日目(母子同室5日目)=退院日!

10:30 8日間過ごした大部屋を出る

いよいよ晴れて退院日当日。退院は11時までにする必要があり、10:30には大部屋を出た。当時の退院時のお迎えについては以下の通りだった。諸々準備をして、会計を終えた夫が3階病棟まで迎えに来てくれた。

当時の退院時のお迎えについて
※現在の状況は病院でご確認ください。

10:35 産後8日ぶりの家族との対面

3階病棟に到着した夫は私と息子に8日ぶりに対面した。長いようで短かった8日間。もともとは無痛分娩を希望していたので、産後5日目に退院する予定でいたけど、緊急帝王切開になったことで産後8日目の退院となった。妊娠・出産は奇跡の連続であり、何が起こるかわからない。まさにそれを実感した出産・入院生活だった。

ちなみに、この時驚いた助産師さんが夫を褒めてくれた。というのも、対面した直後に夫は息子よりもまず私の体調を気遣う発言をしたのだ。助産師さん曰く、多くの人は赤ちゃんの方に気が入ってしまい、パートナーを気遣っているものの、その場で言葉が出てくることは少ないそうだ。もしパートナーが妊娠中の男性がこれを読んでいたら、その時が来たらぜひ労いの言葉をかけてもらいたい。出産はこの入院期間まで含めて壮絶なものなのだ。

入院中はコロナ禍で面会も一切NGなのは心細かったけれど、聖母病院の主治医や助産師さんたちに優しく丁寧に対応してもらえ、とてもありがたかった。私たちは助産師さんに記念撮影をしてもらって、病院をあとにした。

初めての家族写真を撮影(3階病棟)

まとめ

以上、痛みに弱い私が無痛分娩から緊急帝王切開で出産するまでと題した出産レポ「コロナ禍での妊娠発覚・つわり編」「出産前の準備編」「出産編」、「入院編」の連載を終えようと思う。

私と同じように痛みに弱い人にとって少しでも参考になればと思い、これまで子育てをしながら空いた隙間時間を見つけては執筆を進めてきた。これが最後となるとなんだか寂しい。ここまで読んでくれた方に「感謝するぜ!!お前と出会えたこれまでの全てに(byネテロ会長)」と言葉を贈りたい。

前述の通り、妊娠・出産は奇跡の連続であり、何が起こるかわからない。無痛分娩での出産を妊娠中からずっと考えてきた私もいざ出産当日、予想もしていなかった緊急帝王切開での出産となった。そして、出産自体は痛くなかったが、想像以上に後陣痛には悩まされた。これから出産を控えている方は、この出産レポのケースも頭の片隅に置いて出産に臨んでもらえたら嬉しい。そして、無事に出産できることを心から祈っている。

また、最後にもう1つ書いておきたいことがある。私はもともと母性本能があまりない方だと感じていて、妊娠中に自然と湧いてくるものなのかと思っていたけど実際にはそうでもなく、出産したら母性本能が湧いてくるのだろうか、ちゃんと子育てはできるのだろうか、という不安もあった。でも、出産してわかったのは、日々成長していく息子と関わっていくことで、愛おしさが増していくということだ。

母性本能があるかと問われたら個人の基準になるので答えが難しいところだけど、かわいいの一言だけでは言い表せない感情が私には芽生えている。だから、もし同じように不安に思っている方がいたら、きっと大丈夫だと伝えたい。子供と一緒に親も成長していくのだろうから、感じ方はそれぞれあるかもしれないけれど、そういった感情は後から自然と付いてくるものなのだと思う。

まだまだ私も母歴はわずか7ヶ月ちょっとで、息子は今魔の7ヶ月に突入し、日中は離乳食を食べている時以外はだいたいぐずり、号泣し、夜泣きも3-4回は当たり前の日々を過ごしている。まさに今息子が寝ている隙にこのnoteを書き終えようとしているところだけど、この先の長い子育ての時間を夫とともに、私らしく自然体で楽しんでいけたら良いなと思っている。


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